ウイグル(回紇) – 世界史用語集

ウイグル(回紇/回鶻)は、中央ユーラシアの東西交易路において、遊牧とオアシス都市の文化を結びつけたテュルク系集団を指す名称です。狭義には8〜9世紀にモンゴル高原で勢力をふるった「回紇可汗国(ウイグル可汗国)」を、広義にはその後にトルファン(高昌)や甘粛河西走廊へ定着した諸王国、さらにはモンゴル帝国期以降のオアシス世界を担った後裔諸集団までを含みます。ウイグルは、文字文化の受容と普及、マニ教・仏教・景教(ネストリウス派)・イスラームなど多層の宗教実践、ソグド系商人との結合、そしてモンゴル帝国の行政・文書制度への決定的貢献などを通じて、シルクロード史の中心的な役割を果たしました。以下では、起源と可汗国の成立、西遷とオアシス定着、宗教と文字の多様性、モンゴル時代以降の展開という観点から、用語の射程をわかりやすく整理します。

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起源と可汗国の成立:モンゴル高原の「回紇」

ウイグルの名は、古代テュルク碑文や唐代史料に「回紇(回鶻)」として現れます。彼らは6〜7世紀の突厥可汗国の構成部族の一つとして台頭し、オルホン川流域を中心とするモンゴル高原の遊牧世界で勢力を蓄えました。8世紀半ば、第二突厥可汗国が衰退すると、ウイグル部族連合は骨幹部の掣肘(せっちゅう)や葛邏禄(カルルク)など周辺諸部族と角逐しつつ、744年頃に「回紇可汗国」を建て、オルホン河畔の帝都オルド・バリクを拠点に高原支配を確立します。

唐王朝との関係は密接でした。安史の乱(755–763)で唐が危機に陥ると、回紇は援軍として洛陽周辺まで出兵し、反乱鎮圧を助ける見返りに多額の絹や婚姻関係、交易特権を獲得しました。これにより、ウイグルは東西交易の利潤を高原へ引き込み、遊牧王権の財政基盤を強化します。他方、強い外需への依存は、交易の停滞や気候・疫病の打撃に脆弱であるという構造的弱点もはらみました。

この時代、ウイグルはマニ教を国教化したことで知られます。ソグド系商人・聖職者の影響のもと、禁酒・菜食・禁欲を説くマニ教は、王権の保護と都市商業の利益と結びつきました。遊牧社会の戦士規範と全き一致を見たわけではありませんが、翰林(学僧)を通じた文書化・税の管理や外交儀礼に、マニ教僧のリテラシーが活かされました。これと並行して、仏教や景教も一定の信徒を持ち、宗教的多元性が高原に根づきます。

9世紀前半、内紛と外圧が重なります。気候の厳変や疫病、唐との関係悪化、カルルク・黠戛斯(キルギス)など周辺勢力の圧迫が強まり、840年頃、キルギスの攻勢によってオルホンの都は破壊され、回紇可汗国は瓦解しました。これを機に、ウイグル諸部は西と南へ大規模に移動し、河西走廊とトルファン盆地を中心とするオアシス地帯に新たな基盤を求めることになります。

西遷とオアシスのウイグル:高昌(高昌回鶻)・甘州ウイグルの定着

可汗国崩壊後、ウイグルの主力の一つはトルファン—クムル—高昌(現トルファン一帯)へ移り、高昌回鶻王国(別称:ウイグル王国、焉耆・高昌回鶻)を形成しました。10世紀から13世紀にかけて、この王国はオアシス都市の水利・農耕・手工業を支え、ソグド系・漢人・吐蕃系の住民と共存しながら、仏教・マニ教・景教の寺院群を維持しました。とりわけ仏教が隆盛し、敦煌—高昌の写本文化の担い手としてウイグル僧・書記が活躍します。トルファン出土の写本・木簡には、ウイグル語・ソグド語・漢文・トカラ語・サンスクリットなど多言語文書が並存し、宗教も大乗仏教、マニ教、景教が併存しました。

同時期、河西走廊の張掖(甘州)を中心に「甘州ウイグル」も成立しました。こちらは北宋・遼・西夏と外交・交易を展開し、砂漠縁辺の交通と牧畜を押さえました。甘州はマニ教・仏教のほかイスラーム商人との接触も早く、宗教・言語の多元性は高昌と同様でした。両王国は、中央ユーラシアにおける都市オアシス支配の典型であり、城塞都市・灌漑網・市場・倉庫・隊商宿を中核に税と保護を交換する政治経済モデルを確立しました。

文字文化の面では、ウイグル文字が重要です。これはソグド文字を祖型とし、縦書きで子音主体の表記を行う書写体系で、高昌・甘州の行政・商業・宗教文書を支えました。後世、モンゴル帝国が採用する「モンゴル文字(ウイグル式縦書き)」の直接の母体となり、さらに満洲文字などの派生へと連なります。すなわち、ウイグルは、遊牧帝国とオアシス都市の両方で「文字=アーカイブ」の技術を媒介した文化仲介者でもあったのです。

政治的環境は絶えず変化しました。10世紀末から11世紀にかけて、西方のカラハン朝(テュルク系ムスリム王朝)が天山以西で台頭し、タリム盆地西部(カシュガル・ホータン)ではイスラーム化が進みます。もっとも、高昌回鶻は仏教を中心に宗教的多元性を保ち、イスラームの波が東へ浸透するのは後世にずれ込みます。東西のイスラーム圏と非イスラーム圏の接点として、ウイグルのオアシス都市は交易と通交の緩衝帯となりました。

宗教と文字の多様性:マニ教・仏教・景教・イスラームの交錯

ウイグル史の特色は、単一宗教では説明できない多元性にあります。可汗国期に国教化したマニ教は、オアシス期にも僧院や写本文化を通じて継続しました。マニ教の二元論と厳格な戒律は、商人ネットワークを通じて税・会計・契約の文書化と結びつき、都市統治の技術と親和性を示しました。他方、仏教(とくに大乗・密教系)は、経典翻訳・注釈・壁画・造像の豊饒な文化を生み、トルファン・ベゼクリク・クムトラなどの石窟群がその痕跡を今に伝えます。景教は、シリア語—ソグド語—ウイグル語の回路で伝播し、碑文や小規模な教会遺構にその存在が確認されます。

イスラームは、タリム盆地西部から段階的に浸透しました。カラハン朝の「イスラーム化」の波がカシュガル—ヤルカンド—ホータン—アクスへ広がるにつれて、商人・学者・聖者(ホージャ)を通じて信仰が根づき、シャイフ家系が都市と農村の紐帯を形成します。とはいえ、高昌ウイグルは13世紀のモンゴル支配期まで仏教中心を保ち、宗教の地理的モザイクは長く続きました。したがって「ウイグル=イスラーム」という単純化は時期と地域を限定しない限り当たりません。歴史用語としての「ウイグル」は、仏教・マニ教・景教・イスラームを時代に応じて抱え込む可変的なアイデンティティを意味します。

文字についても多言語・多文字併存が常態でした。ウイグル文字のほか、ソグド文字、漢字、ブラーフミー系文字(仏典写本)、シリア文字(景教)、アラビア文字(イスラーム)、さらにはトカラ語やサンスクリットの音写が並存し、同一の宗教施設で複数文字が壁画・碑文・文書に現れることも珍しくありませんでした。書記官・訳経僧・商人通詞は、こうした複数の文字体系を横断し、行政・宗教・市場の情報を接続する役割を担いました。

モンゴル帝国期とその後:行政の中核、文字の母、近世オアシス世界へ

13世紀、チンギス・ハンの西征により高昌回鶻はモンゴルに服属し、以後、ウイグルの書記・学僧は帝国の文書行政に不可欠の人材となりました。モンゴル帝国が採用した縦書きの「ウイグル式文字(モンゴル文字)」は、ウイグルの書記文化を直接的に継承したもので、勅書(ヤルリグ)や法令、台帳、外交文書の標準として広く用いられます。ウイグル人はまた、都市財政・物資調達・郵驛(ジャム)運営にも携わり、遊牧帝国の「文の手」を支えました。これにより、ウイグル名のエリート層は帝国各地に分布し、元朝の中国本土でも活躍します。

宗教状況はさらに多元化します。モンゴル諸汗国の庇護のもと、仏教・マニ教・景教・イスラームが共存し、タリム盆地西部ではイスラームの影響が増大しました。14〜15世紀にはチャガタイ・ハン国—東チャガタイ系政権がタリム盆地を支配し、イスラーム学者やスーフィー聖者の活動が都市秩序を再編します。16世紀にはヤルカンドを中心にチャガタイ=ウイグル系のハン権が展開し(一般にヤルカンド・ハン国と総称)、タリム盆地のイスラーム化は完成度を高めました。

18世紀半ば、ジュンガル政権の崩壊を受けて清朝が新疆(「新しい領土」)の編入を進め、イリ・トルファン・カシュガル方面に軍政と屯田を敷きます。以後、19世紀の回部蜂起やヤークーブ・ベク政権の成立と清軍の再征服など、タリム盆地と河西走廊は清朝—ロシア—中亜諸政権の角逐の舞台となりました。20世紀に入ると、この地域はさらに新国家体制の中へ組み込まれていきますが、オアシス都市社会の基層—水利・市場・宗教施設・家族と行路—は連続性を保ちつつ変化しました。

近世—近代のウイグル社会は、オアシス都市(カシュガル、ヤルカンド、ホータン、アクス、コータン、トルファン、クムルなど)を核に、農耕と手工業、隊商貿易、イスラームの教育(マドラサ)と法(シャリーア)を支柱として動いていました。絨毯・綿織物・玉・果実・乾燥葡萄・香辛料といった産品が交易を潤し、スーフィー教団のネットワークが地域間の紐帯を形成します。部族名や血縁集団は社会関係の重要な枠組みでありつつ、都市のギルドや宗教共同体がそれを横断しました。

以上のように、「ウイグル(回紇)」という用語は、単なる一時代の遊牧帝国にとどまらず、遊牧—都市、テュルク—ソグド—漢—チベット—モンゴル—イスラームといった複数の文化回路を結び直しながら、千年以上にわたって中央ユーラシアの情報・文書・宗教・交易のハブとして機能した人々を指します。高原の可汗国からオアシス王国へ、文字と宗教の多元性、モンゴル帝国の文書行政への貢献、そして近世以降のオアシス社会の持続という一連の歩みを押さえることで、ウイグルの歴史的輪郭はより立体的に理解できるのです。