国共内戦(こっきょうないせん)は、中国国民党(蒋介石を中心とする南京国民政府)と中国共産党(毛沢東ら)のあいだで行われた武力・政治闘争の総称です。通常、1927年の第1次国共合作崩壊直後に始まる第一次内戦期(1927〜37)と、抗日戦争の終結後に全面化した第二次内戦期(1945〜49)に大きく区分されます。第一次期は、都市蜂起の挫折を経て農村拠点の形成と長征へ、第二次期は、内政・外交・経済・宣伝を総動員した総力戦となり、満洲をめぐる主導権争いから遼瀋・淮海・平津の三大会戦を経て、1949年に中国共産党が中国大陸の政権を掌握して中華人民共和国の樹立に至りました。国民政府は台湾へ退き、以後、両岸の分断が固定化します。内戦は単なる軍事の勝敗ではなく、統治能力・動員技術・経済金融・同盟外交・メディア戦が複雑に絡み合った長期の過程でした。本稿では、(1)第一次内戦期、(2)抗日戦争・停戦交渉をはさんだ再燃、(3)第二次内戦期の展開と決着、(4)構造と要因の整理、の四点から、できるだけ平易に叙述します。
第一次内戦期(1927〜1937)――都市の挫折から農村革命・長征へ
1927年4月、上海での四・一二事件によって第1次国共合作は崩壊し、国民党政権は共産党と左派勢力に弾圧を加えました。これに対抗して共産党は同年夏の南昌起義・秋収起義・広州蜂起など都市中心の武装蜂起を試みますが、いずれも鎮圧され、都市での持久は困難である現実が明らかになります。毛沢東・朱徳らは湖南・江西などの山地へ転進し、井岡山をはじめとする農村根拠地を構築しました。ここで彼らは土地問題に焦点を当て、地主勢力からの土地没収・分配、徴発の規律化、民兵の組織化、政治教育と識字を組み合わせ、〈農村から都市を包囲する〉戦略の萌芽を形づくります。
国民政府側は、蒋介石の下で「囲剿」と呼ばれる掃討戦を重ね、軍・警・保安隊・民団を総動員して根拠地の包囲と分断を試みました。1930年代前半には、軍事顧問フォン・ゼークトやドイツ式訓練の影響を受け、ブロックハウス(碉堡)線の構築、交通線支配、兵站の遮断を徹底する戦法へ移行します。これに対して紅軍(中国工農紅軍)は機動戦・遊撃戦で対抗しつつも、1934年の第五次囲剿戦では防御作戦への転換が奏功せず、江西ソビエトの維持に失敗します。
1934年10月、紅軍は大規模な突囲(いわゆる「長征」)に踏み切り、数次の川・雪山・草地を越えながら西北へ転進しました。途次の遵義会議(1935)で毛沢東の指導的地位が確立され、軍事路線の見直し(独自の機動戦・人民動員の重視)が図られます。1935年秋、主力は陝北に到達して延安を中心とする陝甘寧辺区を拠点化し、軍政・宣伝・教育を統合する体制を整備しました。第一次期の結末は、軍事的後退であると同時に、〈農村拠点+政治工作〉を核とする内戦持久の枠組みが確立した時期でもあります。
一方、国民政府は南京に首都を置き国家建設を進める一方で、地方軍閥との調整、財政の逼迫、共産勢力掃討の長期化に直面しました。新生活運動やインフラ整備、通貨制度の改革(法幣)など国家近代化の努力が続く中、満州事変(1931)・華北分離工作・上海事変(1932)など対外危機が続発し、「攘外より先に安内」路線への国内批判が高まりました。こうして、両者の対立は抗日戦争という巨大な外圧によって一時的に凍結され、第2次国共合作へと移行します。
再燃への道(1937〜1946)――一致抗日と交渉・停戦の破綻
1937年7月の盧溝橋事件以後、中国は全面的な抗日戦争に突入し、第2次国共合作の下で両党は名目上の協力体制を築きました。共産党は紅軍を第八路軍・新四軍に改編し、敵後方の根拠地(陝甘寧・晋察冀・華中など)でゲリラ戦・政治工作・減租政策・民兵組織を進めます。国民政府は正面戦の主力として上海・南京・武漢・長沙・広西などで大規模作戦を担い、膨大な人的・物的な犠牲と引き換えに抵抗を継続しました。
しかし、両党の不信は終始消えませんでした。1941年の皖南事変(新四軍事件)は象徴的で、名目上の合作が破綻寸前で延命するだけの状態に移行します。戦争末期、共産党は延安整風(1942〜)で組織規律と思想統一を強化し、統一戦線の看板の下に〈党の一元化〉を徹底しました。国民政府側は腐敗と財政難、通貨膨張(法幣の信用低下)、地方軍の離反などで求心力が低下します。
1945年8月、日本の降伏により抗戦は終結しました。直後に両党は重慶で政治協商会議(双十協定)に合意し、連合政府の構想や軍隊の国軍編入原則、政治自由の拡大などを謳います。同時に、米国はマーシャル使節を派遣して停戦・統合の仲介を試みました。ところが、満洲(東北)に残置された日本関東軍の武装解除と工業施設・鉄路の掌握をめぐり、実態は時間との競争となります。ソ連軍はヤルタ協定に基づき満洲へ進駐し、日本軍の武装解除に関与する一方で、鉄路・港湾・重工業の一部を接収し、撤兵前に共産側に引き継ぐ形が広がりました。これにより、中国共産党は東北で兵站・兵器・工業基盤と都市ネットワークへの足掛かりを獲得します。
停戦交渉は、1946年1月の停戦命令・統合委員会設置にまでこぎつけたものの、春には各地で武力衝突が再燃し、夏に至って全国的戦闘が本格化しました。こうして第二次の国共内戦が始まります。
第二次内戦期(1946〜1949)――満洲の主導権争いから三大会戦、そして政権交替
1946年から47年にかけての内戦前半は、国民政府軍が総兵力・航空兵力・重火器で優位に立ち、鉄道を中心とした「点と線の確保」戦術で主要都市・幹線交通を掌握しました。東北(満洲)では、国府が杜聿明・陳誠らの指揮で鉄路を押さえ、共産側(東北民主連軍、のち東北野戦軍=林彪・羅栄桓指揮)は農村・山地に拠って消耗戦と交通破壊で対抗しました。中原では劉伯承・鄧小平の野戦軍が大別山・豫皖蘇での機動作戦を展開し、華東では陳毅・粟裕が蘇中・魯南で国府の集団に対して包囲殲滅の「小型決戦」を積み重ねます。西北では彭徳懐・賀竜が胡宗南軍と対峙し、延安放棄と遊撃転進で主力の保存を図りました。
この時期、国民政府は政治の分裂と経済危機に苦しみます。新法幣(1948)によるデノミなどインフレ対策は効果を上げず、物価は高騰、闇市化が進み、都市民心は離反しました。徴発や治安対策の苛烈さ、官僚・軍の汚職、地方軍閥との摩擦、米援の政治条件なども、継戦能力の基礎を削ります。他方、共産側は、土改綱領(1947)の公布により土地改革を進め、幹部の過激化是正(のちに政策修正)を経ながらも、農村の動員力と兵站自給力を高めました。宣伝戦では、反腐敗・反官僚・廉潔のイメージを前面に出し、住民の支持獲得に努めます。
1948年後半から49年前半にかけて、戦局は決定的に転換します。まず東北で遼瀋会戦(1948年9〜11月)が勃発し、東北野戦軍は瀋陽・長春の包囲と鉄路遮断によって国府軍主力を各個撃破、遼河平原での錦州攻略と併せて東北全域の掌握に成功しました。続く華東・中原戦線では、淮海会戦(徐蚌会戦、1948年11月〜1949年1月)で劉伯承・陳毅・鄧小平・粟裕らの各野戦軍が協同して黄百韜・杜聿明集団を包囲殲滅し、国府軍の中枢機甲・精鋭歩兵を喪失させます。ほぼ同時期の華北では、平津会戦(1948年11月〜1949年1月)によって、傅作義の北平(北京)守備軍が包囲ののち和平開城(1月)に応じ、天津は力攻で陥落しました。これら三大会戦の帰結により、共産側は東北・華北・華東・中原で戦略主導を確立し、長江以北の主抵抗を解体します。
1949年春、人民解放軍は「渡江作戦」で南京・鎮江・上海方面へ進撃し、4月に南京を占領、5〜6月に上海・杭州・福州などを次々に掌握しました。西北・西南でも進撃が続き、同年秋までに西安・蘭州・成都・貴陽・重慶が相次いで陥落します。10月1日、北京において中華人民共和国の成立が宣言され、国府は広州・重慶・成都へと遷都ののち、台湾へ撤退しました。海峡周辺では、金門・馬祖などの島嶼をめぐる戦闘(古寧頭の戦い、1949年10月)を経て、台湾本島は国府の防衛線に組み込まれます。海南島は1950年に解放軍が占領し、沿岸の島嶼を除く大陸の主権は共産側に帰しました。
構造と要因の整理――軍事・統治・経済・外交が交差した勝敗の分岐
国共内戦の帰趨を左右した要因は、一つに絞れません。軍事面では、人民戦争・機動戦に長けた野戦軍の形成、前線レベルでの指揮統一と兵站の自給、農村動員に支えられた人的補充力が共産側の強みでした。林彪・劉伯承・陳毅・粟裕・聶栄臻・彭徳懐・賀竜・劉伯承・鄧小平らの各戦区指揮官は、独立判断を許容する指揮体制の下で局地決戦を積み上げ、鉄道・橋梁・補給線の遮断で国府の機械化戦力を分断しました。国民政府軍は総兵力で優位に出発したものの、広域分散と交通依存、幹部の質の不均一、士気の低下が次第に足を引っ張ります。
統治と組織の次元では、共産側の根拠地統治(減租減息→土地改革、簡素な司法、民兵・政法体制、政治教育と宣伝)が兵站と正統性の源泉になりました。延安整風以降の組織規律と幹部教育は、戦時の意思決定の統一に資しました。他方、国民政府は中央と地方の摩擦、精英官僚制と大衆動員の齟齬、腐敗の蔓延が都市・農村の双方で支持を侵食しました。
経済・金融では、戦後復興を待たずに内戦へ突入したことで、国府は通貨・財政の安定を欠き、超インフレと物資欠乏が都市生活を直撃しました。新法幣の導入や金円券の発行などの対策は信認を回復できず、賃金と物価の乖離はストや離職を誘発し、兵站と士気に悪影響を与えます。共産側は、農村の穀物動員と塩・布・紙などの軽工業・手工業を再編し、〈量は乏しくとも安定〉の仕組みを整えました。
外交・国際環境も重要でした。満洲におけるソ連の進駐と撤兵過程は、東北での勢力図に決定的影響を与え、日本軍の残置兵器や工業設備の接収は共産側の軍需・輸送力を底上げしました。米国は国府支援と内戦調停を両立させようとしましたが、対日占領や欧州問題との資源配分、国府側の非効率と腐敗、対共政策の揺れで効果は限定されました。最終局面では、国内要因が外部支援の効果を上回る形で勝敗を決めたと言えます。
宣伝・メディアの面では、共産側の「廉潔・反腐・人民本位」という語りと、土地改革や兵士への待遇改善の可視化が、都市知識人・学生・労働者・農民に浸透しました。国府側の宣伝は、反共・反乱鎮圧に比重がかかり、戦時の困窮と相まって説得力を欠きます。戦争は銃だけではなく、情報・言語・儀礼を通じても戦われ、ここでも両者の差が開きました。
1949年の政権交替は、こうした諸次元の総合結果でした。以後、両岸は冷戦構造のなかで対峙し、1950年代の朝鮮戦争・第一次台湾海峡危機などを経て分断は制度化します。国共内戦は、単なる国内戦争の枠を超え、帝国崩壊の余波、戦後国際秩序の形成、近代国家の統治技術の競争が一つの地域で圧縮的に表れた現象でした。

