国共分裂とは、1927年に中国国民党(国民党)と中国共産党(共産党)が第一次国共合作を解消し、全面的対立へ転じた出来事を指します。表面的には、蔣介石が上海で労働者・左派勢力を武力弾圧した四・一二事件と、これに続く国民党の左派・右派分裂(南京政府と武漢政府の併存)によって政治的破局が確定しました。しかし、この断絶は一朝一夕の偶発ではなく、軍閥打倒と反帝国主義を掲げた「統一戦線」の内部で進行していた〈軍の指揮権〉〈群衆運動の度合い〉〈土地問題への姿勢〉〈対外関係(列強・ソ連)〉をめぐる根本的な対立の爆発でした。分裂は中国近代史の分水嶺となり、第一次内戦(1927〜37)と、抗日戦争後の第二次内戦(1945〜49)へ連なります。本稿では、(1)前史と合作の成り立ち、(2)分裂の過程と主要事件、(3)対立の構造要因、(4)帰結と長期的影響、の順に、専門用語に偏りすぎないよう平易に整理します。
前史と合作の成り立ち――反帝・反軍閥の大義と「党内合作」の設計
清朝崩壊後の中国は、北京政府の名の下で各地の軍閥が割拠し、治外法権や関税自主権の欠如といった半植民地的条件に縛られていました。孫文は三民主義を掲げ、広州に拠点を置いて国家統一を目指しますが、軍事力と組織力が不足していました。第一次世界大戦後、ソ連はコミンテルンを通じて中国革命を支援する方針を取り、帝政ロシアが残した不平等条約の放棄など〈反帝〉のシグナルを発します。これを受け、1924年の国民党第1回全国代表大会は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、共産党員が個人資格で国民党に加入する「党内合作」を採用しました。
この枠組みの肝は、〈国民党=広範な民族統一戦線の看板〉〈共産党=労働者・農民の動員と政治工作の専門〉〈ソ連=軍事・資金・人材の助言と供給〉という役割分担にありました。広州では黄埔軍官学校が開かれ、軍と政治教育の一体運営が進み、労働運動(五・三〇運動、省港大罷工)や農民運動が高揚します。1926年の北伐開始は、この三者連携の具体的成果でした。しかし、統一戦線の内部ではすでに、(a)軍指揮と党統制の主導権、(b)都市のスト・ボイコット・没収措置の可否、(c)農村の土地改革速度、(d)ソ連顧問の裁量、という争点が蓄積していました。
分裂の過程――中山艦事件から四・一二、武漢分裂、都市蜂起の挫折
転機は1926年3月の「中山艦事件」です。広州で海軍艦艇の移動をめぐり、蔣介石は共産党とソ連顧問が軍の指揮権を侵害したと非難し、左派への締め付けを強めます。これは、北伐の軍事的主導権を掌握しようとする蔣の意思表示であり、国民党内の権力均衡が崩れ始めたサインでした。北伐が進み、武漢・南京・上海などの大都市へ革命の波が押し寄せると、労働者のゼネストや武装糾合、租界を取り巻く反帝デモが頻発します。国際的緊張が高まる中、資本家・商人・都市中産が革命の急進化に恐怖を抱き、右派は秩序回復を政治課題に据えました。
1927年4月12日、上海で蔣介石は青幇などの秘密結社・警察・右派部隊と連携し、労働組合・左派拠点への一斉襲撃を実行します。多くの活動家が殺害・逮捕され、〈四・一二事件〉として国共の破局を決定づけました。蔣は南京に国民政府を樹立し、共産党と国民党左派を排除します。一方、汪兆銘らは武漢に別の国民政府を立て、〈容共〉を掲げましたが、群衆運動の過熱と軍紀の動揺、外交問題への脆弱さに直面し、やがて共産党員の追放へ傾斜します。こうして、南京右派政府と武漢左派政府の二重権力は、短期間で右派の優位に収束しました。
合作破綻後、共産党は都市中心の武装蜂起で反撃を試みます。8月の南昌起義、9月の秋収起義、12月の広州蜂起がそれで、いずれも鎮圧されました。都市政権の持久が困難だと悟った指導部は、毛沢東・朱徳を先頭に江西・湖南の山地へ転じ、農村根拠地の形成(井岡山など)と〈農村から都市を包囲する〉戦略へ舵を切ります。国共分裂は、都市革命から農村革命への転換の起点でもありました。
対立の構造要因――指揮権・土地・群衆運動・対外関係の四層
第一の軸は〈軍の指揮権と党の関係〉です。国民党は国家統一のために軍を一元的に統率する必要を強調し、軍の政治部や政治工作は党の補助装置に位置づけました。共産党は、軍は政治の道具であり、革命の目標に奉仕すべきだと考え、軍の政治化と兵士・住民への直接動員を重視しました。黄埔文化を共有した両者でしたが、最終決定権を誰が握るかで妥協点は見いだせませんでした。
第二の軸は〈土地問題〉です。共産党は当初から「扶助工農」を掲げた国民党綱領に沿って減租・農民協会の擁護を進め、1927年には一部地域で没収・再分配まで踏み込みました。これは農民の支持を得る一方、郷紳・地主層を支持基盤に持つ国民党右派には受け入れがたく、地方秩序の崩壊として映りました。国民党左派も急進的な没収には慎重で、秩序維持と動員拡大の間で揺れました。
第三の軸は〈群衆運動の度合い〉です。都市のスト・ボイコット・ピケは、列強の利権と結びついた産業と直結し、すぐに外交摩擦・武力衝突を生みます。共産党は大衆の自発性と革命的圧力をテコに変革を加速しようとしましたが、国民党右派はこれを統制不能な暴動と見なし、弾圧を正当化しました。政治的速度感の差が、暴力的破局を招いたといえます。
第四の軸は〈対外関係〉です。コミンテルンの助言と資金・顧問団は統一戦線の立ち上げを促進しましたが、同時に「外部の影」が国民党に警戒を生みました。列強(特に英米)は、上海・広東などの租界・通商に直結する騒擾を嫌い、治安回復を国民党に促しました。右派はこの外圧を後ろ盾に、左派・共産勢力の排除を迅速に進めることができました。
以上の四層に、個人の指導力と派閥間の利害が重なります。蔣介石の軍事・行政を一手に握る志向、汪兆銘の政治的理想主義と現実対応の揺らぎ、周恩来・張国燾らの路線対立など、指導層の選択が状況を加速させました。
帰結と長期的影響――内戦・抗日・再合作・再内戦へ
国共分裂の直接の帰結は、第一次国共内戦(1927〜37)の開幕でした。国民党は「囲剿」によって農村根拠地を圧迫し、共産党は機動戦・遊撃戦で対抗、最終的には1934年の長征を経て陝北に拠点を築き直します。国内の対立は、1937年の盧溝橋事件を契機に外圧のもとで一時的に凍結され、第2次国共合作(1937〜45)として抗日戦争の枠内に再編されました。しかし、この協力は本質的な和解ではなく、皖南事変(1941)などの流血をはさみながら、戦時の便宜的共存にとどまります。
1945年の抗戦勝利後、勢力は直ちに接収・動員・宣伝で競い合い、米ソを介した停戦斡旋は空転しました。満洲を中心とする工業・鉄道・兵器の掌握は共産側に有利に働き、1946年からの第二次内戦は遼瀋・淮海・平津の三大会戦を経て共産側の勝利に傾き、1949年の中華人民共和国樹立と国府の台湾撤退へ帰結します。すなわち、1927年の分裂は、22年の紆余曲折を経て大陸の政権交替という歴史的結末に直結しました。
より長い射程で見ると、国共分裂は中国の政治文化に持続的な影響を与えました。第一に、〈統一戦線〉という技法が、協力と監督、包摂と排除を同時に運用する政治技術として磨かれました。第二に、〈軍政一体〉と〈政治工作〉の重視は、両党に共通する「運動としての統治」を定着させ、行政と宣伝・組織を一体で動かす手法を常態化させました。第三に、都市と農村、エリートと大衆、中央と地方の裂け目が政治対立の恒常的軸になり、政策の速度と手段をめぐる葛藤は以後も繰り返されます。
総じて、国共分裂は「誰が国家を代表し、どの速度で、どの手段で近代化と独立を達成するのか」をめぐる、根本問題の露出でした。四・一二はその爆発点にすぎず、背景には、軍の統帥・土地と所有・都市と農村・国内と対外という複数の軸が絡み合っていました。この多層の断層線を理解することが、その後の内戦・建国・分断を立体的に見通す鍵になります。国共分裂は、単なる同盟破綻の記述を超え、近代中国が背負った選択と限界を凝縮した出来事だったのです。

