骨品制(こっぴんせい/골품제)は、新羅で用いられた血統身分の等級制度で、王位継承の資格から官職の到達上限、婚姻の相手、衣服・装飾・住居の規模までを細かく規定した枠組みです。頂点の「聖骨(せいこつ)」と「真骨(しんこつ)」、その下に列なる「頭品(とうひん)」という段階によって、貴族社会の序列が固定されました。骨品制の目的は、王家と有力氏族の間に明確な序列を設け、政治参加と資源配分をコントロールすることにありました。現代的に見れば、それは「生まれ」によるアクセス権の制度化であり、能力や功績よりも出自が社会的上昇の天井を決める仕組みだったと言えます。新羅の統一事業や国家運営を支えた一方で、長期的には人材登用の柔軟性を損ない、後期新羅の停滞と社会矛盾の背景にもなりました。本稿では、骨品制の構造と成立、政治・社会への作用、運用の変化と限界、周辺諸制度との比較という観点から、わかりやすく整理して解説します。
骨品制の構造――聖骨・真骨・頭品という身分の梯子
骨品制は大きく三層で語られます。第一に、王族最上位である「聖骨」です。両親ともに王統に連なる純度の高い王族のみが該当し、古い時期には王位継承の最有力資格を占めました。第二に、王統に連なるが純度が一段下がる「真骨」で、王族・上級貴族の広い層を含み、中央の高位官職に就くことができました。第三が「頭品」で、一般に第六等から第一等まで段階があったとされ、貴族下位や地方有力層を含む広い階層を構成します。頭品は上から「六頭品・五頭品・四頭品・三頭品・二頭品・一頭品」と呼ばれ、等級ごとに任官できる官位の上限や着用できる衣服、屋敷の規模などが定められました。
制度の肝は「上限設定」にあります。新羅には十七等の官位制が整えられましたが、到達できる最高位は骨品によって厳格に制限されました。たとえば真骨は宰相級の極位に就けるが、六頭品は中上層の官にとどまる、といった具合です。加えて、婚姻にも骨品が影響し、原則として同等か近接する骨品間での縁組が想定されました。これにより家門の序列は固定化され、血統と政治的地位の連結が強化されます。衣服の色・装飾の材質・乗り物・住宅の規模など生活様式の細部まで骨品で差別化され、日常の可視的な場面で序列が再確認される仕掛けになっていました。
王位との関係で重要なのは、聖骨系譜の断絶と真骨の台頭です。7世紀半ば、聖骨に該当する王族が途絶えると、真骨から王が選ばれるようになりました。これにより王権の担い手が相対的に拡がる一方、真骨内部での権力競争も激化します。統一新羅(7世紀後半以降)では、真骨の中から名門が台頭し、王権を支えると同時に牽制する複数の家門政治が展開されました。
成立と展開――律令・仏教受容と貴族連合のバランス装置
骨品制の形成は、5〜6世紀の国家形成と密接に関係します。新羅は早い時期から仏教を受容し、官僚制や法令を整備しました。その際、王権を支えるための貴族統合の技法として、出自の序列化が制度化されます。骨品制は、氏族連合の政治を中央集権国家へ移行させるための「合意の器」であり、各家門に相応の威儀と利益を配分しつつ、王権の優位を保障する仕組みでした。
7世紀には近隣諸国との関係が骨品制に影響しました。唐との外交・軍事協力により、官制の整備と文物の導入が進むと、官位体系と骨品の対応がより綿密に組み直されます。また、花郎(ファラン)と呼ばれる青年エリートの組織は、骨品上層の子弟が軍事・儀礼・教養を学ぶ場として機能し、家門と国家の結節点となりました。統一事業を主導した将軍・政治家の多くは真骨であり、その代表格として金庾信(キム・ユシン)が知られます。彼は最高の軍功を立てながらも、骨品ゆえに王位には就けませんでした。この事実は、骨品制の強力さと限界を同時に物語ります。
統一後の8〜9世紀、国家の規模拡大と地方統治の複雑化に伴い、頭品層の役割は拡大しました。地方官・技術官・学官など、多様なポストが頭品出身者に開かれる一方、中央の最高意思決定は真骨と名門に集中します。この二重構造は、国家運営の安定に寄与する反面、地方の有力者の不満や出世の天井意識を強め、晩期新羅の政治不安定の温床となりました。
政治・社会への作用――統治の安定と硬直、日常の序列化
政治面では、骨品制は「誰がどこまで決めてよいか」を明確にし、政争のルールを提供しました。王位継承の候補は出自で限定され、最高官職も真骨に集約されるため、突然の台頭や越権は抑えられます。これは短期的には安定装置として働き、外征や統一事業の遂行に有利でした。他方、長期的には能力主義や功績主義の伸びしろを削ぎ、政策革新の速度を鈍らせる作用を持ちました。中央の重職が家門に固定されると、派閥間の均衡調整が政治の中心となり、国家的課題への応答は派閥政治に左右されがちになります。
社会面では、骨品は人生の多くを決めました。婚姻は同格婚が基本で、異骨品間の結婚は例外的でした。これは財産・儀礼・交遊のネットワークを骨品ごとに閉鎖化し、家門集団の凝集を高めます。衣服・装飾・乗具・住宅規模の規制は、日常生活の場で序列を視覚化し、上下の認識を常時更新しました。端的に言えば、骨品は「社会の見え方」を作る制度で、誰が先に座るか、どの席に座るか、どの色の衣を着るかに至るまで、儀礼化された差異が貫徹したのです。
教育と官僚登用でも骨品は影響力を持ちました。学問や文筆の才能があっても、出自が低ければ最高位のポストには届かない。この限界を象徴する人物として、晩期新羅の文人・崔致遠(チェ・チウォン)がしばしば引き合いに出されます。彼は優れた学識を持ちながら、頭品ゆえに政治の中心へ食い込めず、改革の挫折を嘆いたと伝えられます。個人の才能が制度の天井に突き当たる構図は、骨品制の硬直性をよく示しています。
一方で、骨品制は軍事・財政の動員にも関わりました。真骨・頭品上位は兵の提供や財の供出に責任を負い、地方支配の中核として動きます。骨品に応じた責務の設定は、統治の分業を可能にしましたが、課役の不均衡や不正も生みやすく、社会的な緊張の火種となりました。
変容と限界――制度の「ほつれ」と新羅末の危機
骨品制は永遠不変ではありませんでした。統一後、政権は対唐関係や渤海との関係、国内の寺院・荘園経営、地方豪族の台頭など、多方面の課題に直面します。政治運営が複雑化すると、実力ある頭品層をより幅広く用いざるを得ず、任官上限の運用に揺らぎが生まれました。また、王権強化の局面では、特定家門の抑制や側近登用が進み、骨品原理と権力政治のせめぎ合いが露わになります。制度の“建前”と“運用”の乖離は、9世紀に入ると一層大きくなり、地方での乱や僧兵・海賊の活動、租税基盤の脆弱化が目立ち始めました。
経済社会の変化も、骨品制の限界を突きました。荘園や寺院経済が富を蓄積するにつれ、血統よりも経済力・ネットワークの有無が政治力に直結する場面が増えます。唐や日本との交流を通じて入る新しい文物や思想は、伝統的な序列観に挑戦しました。こうした中で、骨品制は依然として社会の基調であり続けたものの、現実の政治は家門・経済・軍事の力関係に大きく左右されるようになります。制度が現実を完全には規定できない――この「ほつれ」が、新羅末の混乱と後三国時代への移行を促す背景になりました。
また、王位継承における真骨内部の対立は、宮廷クーデタや短命政権を生み、統治の連続性を損ねました。聖骨断絶後に開かれたはずの「真骨の裾野」は、実際には限られた名門の争いとして収斂し、政治の閉鎖性はむしろ強まりました。これもまた、骨品制の内在的限界と言えます。
周辺制度との比較――氏姓・冠位・九品と骨品
比較の視点から骨品制を眺めると、その独自性が際立ちます。中国の魏晋南北朝に成立した九品中正制は、地方の名流が人物を品評して官界の入口を定める制度でしたが、中央集権の強化と科挙の発展のなかで解体へ向かいました。日本の氏姓制度や冠位十二階は、出自の序列を持ちつつも、冠位叙任を通じて能力主義的な運用の余地を広げ、律令国家の形成とともに相対的に流動化しました。これに対し、新羅の骨品制は、王位と最高官職へのアクセスを血統で固く縛り、可視的な日常規範にまで序列化を徹底した点で、より強固で包括的でした。
もちろん、いずれの地域でも現実の政治は制度の“裏”で運用され、例外や抜け道が存在します。しかし、骨品制は「生まれの階段」を国家の骨格として明文化し、儀礼と法と慣習を総動員して社会の全域に浸透させたという意味で、古代東アジアの身分制の中でも特異な完成度を示しました。
まとめ――骨品制が映す新羅という社会秩序
骨品制は、新羅国家の統治技法と貴族社会の自己保存装置を一体化した制度でした。王権と家門、中央と地方、儀礼と法、政治と日常――それらをつなぐ「目に見える階段」として機能し、統一事業や国家運営を支えました。他方で、その強力さゆえに、制度の硬直と排他性が長期の停滞と社会矛盾を育て、末期の危機を深めたことも否めません。歴史の現場では、制度の理念と運用の現実が常にせめぎ合い、骨品制もまた、時代とともに揺れ動きながら新羅社会の姿を刻みました。骨品制を理解することは、単なる身分制度の知識を超えて、古代国家がいかに人と資源を秩序づけ、正統性を維持しようとしたのかを読み解く鍵になるのです。

