「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」とは、現在のドイツ北部とデンマーク南部にまたがる歴史的な地方・旧領邦の名称で、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をあわせて呼ぶ言い方です。デンマーク半島(ユトランド半島)の付け根に位置し、北海とバルト海を結ぶ海峡や運河を押さえる地理的要衝であったため、近代ヨーロッパ史では、デンマークとドイツ(プロイセン、オーストリア)とのあいだで激しく争われた地域として登場します。とくに19世紀半ばの「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」は、ドイツ統一や国民国家形成にも大きな影響を与えた事件として知られています。
この地域の特徴は、「民族・言語・歴史的なつながり」と、「君主の継承権・国際条約」という二つの観点が複雑に絡み合っていた点にあります。住民の多くはドイツ語を話す人びとでしたが、北部にはデンマーク語話者も少なくなく、歴史的にはデンマーク王国と神聖ローマ帝国(のちのドイツ世界)の双方と関わりを持っていました。そのため、「ここはデンマークの一部なのか、ドイツの一部なのか」という問題は、いわゆる「民族自決」が強く意識されるようになる19世紀のヨーロッパにおいて、象徴的な争点となっていきます。
この解説では、まずシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国それぞれの歴史的位置づけを確認し、つぎに19世紀前半におけるナショナリズムの高まりと「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」の背景を整理します。そのうえで、1848年革命と第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、つづく1864年の第二次シュレースヴィヒ戦争の経過と結果をたどり、最後に、第一次世界大戦後の住民投票を経て国境線がどのように定まり、現在のドイツ連邦州シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州へとつながっていったのかを見ていきます。概要だけでも、「どこにあって、なぜ争いの的になったのか」がイメージできるようにしつつ、詳しく知りたい人は各見出しでより細かい歴史の流れを追える構成にします。
地理と中世〜近世のシュレースヴィヒ公国・ホルシュタイン公国
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地域は、デンマーク(ユトランド)半島の付け根から、現在のドイツ北部にかけて広がる低地帯です。西側は北海、東側はバルト海に面しており、両海をつなぐ要衝として早くから交通・軍事・交易の面で重要視されてきました。現在のドイツ連邦州シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州都キールや港湾都市フレンスブルク、リューベックなどが、この歴史的地域に含まれます。
歴史的には、この地域にはふたつの公国が存在しました。一つは北側に位置する「シュレースヴィヒ公国」、もう一つは南側の「ホルシュタイン公国」です。シュレースヴィヒは、もともとデンマーク王に従属する封土としての性格が強く、「デンマーク王国の一部」と見なされることが多い領域でした。一方、ホルシュタインは神聖ローマ帝国の構成領邦の一つであり、帝国内の諸侯が集まる帝国議会に議席を持つ、れっきとした「ドイツ領邦」でした。
ややこしいのは、近世に入ると、この二つの公国の君主位がデンマーク王家に統合され、「デンマーク王が、シュレースヴィヒとホルシュタインの君主も兼ねる」という形が成立したことです。つまり、同じ一人の君主が、「デンマーク王としての顔」と「シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公としての顔」を持ち、前者はデンマーク王国の主権者、後者は神聖ローマ帝国の諸侯という、二重の立場で統治していたのです。
このような「人的同君連合」は、古代・中世のヨーロッパではさほど珍しいものではありませんでしたが、近代に入り、「国民国家」という発想が強まると、「領土の境界」と「民族・言語」の境界をどう線引きするかが大きな問題になってきます。シュレースヴィヒ=ホルシュタインの場合、ホルシュタインは形式上はドイツ世界の一部でありながら、実際の統治を行うのはデンマーク王であり、住民の多くはドイツ語話者であるという、複雑な状況が長く続いていました。
さらに、シュレースヴィヒ公国の内部でも、北部にはデンマーク語話者が多く、南部にはドイツ語話者が多いなど、言語境界が入り組んでいました。そのため、「デンマーク国家としての一体性」を強調する勢力と、「ドイツ民族の一体性」を主張する勢力が、それぞれ自分たちの理屈でこの地域の帰属を主張する土壌が出来上がっていたと言えます。
19世紀前半のナショナリズムとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題
19世紀に入ると、フランス革命とナポレオン戦争の影響を受けて、ヨーロッパ各地でナショナリズム(民族自決と国民国家の建設を求める動き)が強まります。ドイツ世界では、ナポレオンによる支配とその後の解放戦争を経験する中で、「ドイツ人としての一体感」を強調する思想が育ち、ウィーン体制のもとで多数の小国に分裂した状況を「統一すべきだ」とする声が高まりました。
この流れの中で、北のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地域は、「ドイツ民族の一部でありながらデンマーク王の支配を受けている土地」として、ドイツ民族主義者の関心を引くようになります。とくにホルシュタインは法的にもドイツ連邦(神聖ローマ帝国解体後のドイツ諸邦のゆるやかな連合)の構成領邦であったため、「ドイツ連邦の一員が、ドイツ人の民族国家に組み込まれるべきだ」という主張が展開されました。
一方、デンマーク側でも19世紀に入ると、デンマーク民族としての意識が高まり、「王国の領域を民族的にも一体化させたい」という思いが強くなります。デンマークの民族主義者の中には、「シュレースヴィヒは歴史的にも文化的にもデンマークの一部であり、ホルシュタインとは切り離してでもデンマーク王国に統合すべきだ」と主張する人びとが現れました。
つまり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題は、「デンマーク民族主義」と「ドイツ民族主義」が、一つの混住地域をめぐって激突する構図をとったのです。デンマーク王は、国内の民族主義的圧力に押される形で、シュレースヴィヒをデンマーク国家により強く結びつけようとし、対してドイツ側の諸邦や民族主義者は、「ホルシュタインとシュレースヴィヒは不可分の公国であり、シュレースヴィヒだけをデンマーク王国に編入するのは、条約違反でありドイツ民族への挑戦だ」と反発しました。
このような緊張が高まるなか、1848年、フランス二月革命に端を発する革命の波がヨーロッパ中を襲い、ウィーンやベルリンでも革命運動が起こります。ドイツ統一と憲法制定を求める運動の一環として、「シュレースヴィヒ=ホルシュタインをドイツ側へ」という主張も急速に高まり、この地域は革命とナショナリズムが交差する焦点の一つとなっていきました。
第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とプロイセン・オーストリアの介入
1848年の革命の高まりの中で、シュレースヴィヒ=ホルシュタインではドイツ系住民を中心とする反乱が発生し、デンマーク王からの分離とドイツ側への編入を求める暫定政府が樹立されました。これに対してデンマーク政府は、シュレースヴィヒを自国に統合しようとする政策を強め、両者の対立は武力衝突に発展します。これが「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」(1848〜51年)です。
当初、ドイツ連邦側、とくにプロイセン王国は、民族主義的世論に押される形で反乱側を支援し、軍をシュレースヴィヒ=ホルシュタインに派遣しました。プロイセン軍は一時的に戦場で優位に立ち、デンマーク軍を押し戻します。しかし、戦争が長引く中で、イギリスやロシアなどヨーロッパ列強が介入し、「デンマークの統合を支持する」立場をとったため、プロイセンは国際的孤立を避けるために講和へと向かわざるをえなくなりました。
最終的に、1851年のロンドン議定書などにより、シュレースヴィヒとホルシュタインは、従来どおりデンマーク王が君主を兼ねる形で維持されることが決まりました。ドイツ連邦もこれを承認し、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、デンマーク側の支配を基本的に認める形で終結します。ただし、このときの取り決めでは、「シュレースヴィヒとホルシュタインは、一体として扱われるべきであり、片方だけを一方的に編入することは認められない」といった趣旨の条項も含まれていました。
この結果は、ドイツ民族主義者にとっては不満の残るものであり、プロイセンにとっても「一度は手を出しながら、国際世論に押されて引き下がった」という苦い経験となりました。しかし、この経験は、のちにビスマルクが慎重かつ巧妙な外交と軍事行動を組み合わせる中で、再びシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を利用しようとする土台にもなっていきます。
第二次シュレースヴィヒ戦争とドイツ統一への布石
1860年代に入ると、情勢はふたたび動き出します。デンマーク政府は、国内の民族主義的圧力に応える形で、シュレースヴィヒを実質的にデンマーク王国に統合しようとする憲法改正を行い、シュレースヴィヒを王国の一州として扱おうとしました。これは、前述のロンドン議定書などで定められた「シュレースヴィヒとホルシュタインは一体として扱う」という約束に反するものだとして、ドイツ連邦とプロイセン・オーストリアは強く反発します。
この状況を利用したのが、プロイセン首相ビスマルクでした。彼は、デンマークが国際合意に違反したという名目を掲げ、オーストリアとともにデンマークに対して軍事行動を起こします。こうして1864年、「第二次シュレースヴィヒ戦争」(単にシュレースヴィヒ戦争とも呼ばれる)が勃発しました。プロイセンとオーストリアの連合軍は、軍事的に劣るデンマーク軍を短期間で打ち破り、シュレースヴィヒとホルシュタインを占領します。
戦後の講和条約により、デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインの支配権を放棄し、両公国はプロイセンとオーストリアの共同管理下に置かれることになりました。これにより、シュレースヴィヒ=ホルシュタインは、一時的に「独墺二国の共有物」となりますが、この共同管理体制は長く続かず、両国の対立の火種となっていきます。
ビスマルクは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの共同管理をめぐる細かな権限争いを意図的に拡大させ、オーストリアとの関係悪化を煽りました。その結果、1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)が勃発し、プロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、オーストリアはドイツ問題から排除されることになります。このとき、シュレースヴィヒとホルシュタインは最終的にプロイセン王国に編入され、プロイセン北部の直轄領として組み込まれました。
つまり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題は、単にデンマークとドイツとの国境争いというだけでなく、プロイセンとオーストリアの勢力争い、そしてドイツ統一をめぐるビスマルクの戦略の中で重要な役割を果たしたのです。第二次シュレースヴィヒ戦争は、その後の普墺戦争・普仏戦争へと連続する「ビスマルク三戦争」の第一段階とも言える出来事でした。
第一次世界大戦後の住民投票と現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン
プロイセン編入後、シュレースヴィヒ=ホルシュタインはドイツ帝国の一部として統治されましたが、北部のシュレースヴィヒには依然としてデンマーク系住民が多く住んでいました。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、連合国側は「民族自決」の原則を掲げ、ヨーロッパ各地で国境の見直しが行われます。その中で、シュレースヴィヒ北部の帰属問題も再び取り上げられました。
ヴェルサイユ条約の規定により、1920年、シュレースヴィヒ地域で住民投票(国民投票)が実施されることになりました。投票は北部・中部の二つのゾーンに分けて行われ、北部ゾーンではデンマークへの編入を望む票が多数を占めたため、この部分はデンマーク領となり、現在の「南ユトランド地方」としてデンマークに属しています。一方、中部ゾーンではドイツ残留を望む票が多数だったため、ここは引き続きドイツ領となり、南シュレースヴィヒとしてプロイセン州に残りました。
こうして、現在のデンマークとドイツの国境線がほぼ確定し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地域は北部がデンマーク、南部がドイツという形で分割されました。ドイツ側のシュレースヴィヒとホルシュタイン、およびそれに隣接する地域は、第二次世界大戦後に再編されたドイツ連邦共和国において、「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州」としてひとつの州にまとめられています。
現代のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州は、バルト海沿岸の港湾都市キール、ルーベックなどを抱え、農業・観光・造船・風力発電などを基盤とする地域として発展しています。同時に、デンマーク少数民族が暮らす南シュレースヴィヒや、ドイツ少数民族が暮らす北シュレースヴィヒにおいては、少数民族の言語や文化を尊重する政策も進められ、かつて血なまぐさい戦争の原因となった国境地帯が、今日ではヨーロッパ統合のもとで比較的安定した共存の場となりつつあります。
世界史で「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン」という用語に出会ったときには、「デンマークとドイツの国境地帯にある二つの旧公国で、19世紀のナショナリズムとビスマルク外交の中核となった地域」とイメージしておくと理解しやすくなります。そのうえで、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を、民族・言語・歴史的権利・国際条約といった複数の要素が絡み合う「国境問題の典型例」として考えると、近現代ヨーロッパにおける国民国家形成の複雑さが、より立体的に見えてくるでしょう。

