コロンボ会議とは、1954年4月にセイロン(現スリランカ)の首都コロンボで開催されたアジア五か国の首脳・外相級会談を指します。インド、パキスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、セイロンが一堂に会し、冷戦初期の東西対立と脱植民地化のただ中で、アジア諸国が自らの声で国際政治に関与する道筋を探った場でした。議題はインドシナ戦争の和平、朝鮮半島問題、対中関係、植民地支配と人種差別の問題、そしてアジア諸国間の協力の在り方でした。ここでの対話は、翌1955年のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)開催へ直結し、さらに1961年の非同盟運動創設へとつながる前史として大きな意味を持ちます。本稿では、時代背景と開催の経緯、参加国と主要論点、合意とその限界、バンドン会議・非同盟運動への橋渡しとしての意義、そして「コロンボ計画」など似た名称との区別を、わかりやすく整理して解説します。
背景と開催経緯—冷戦のはざまに生まれたアジア発の外交舞台
第二次世界大戦後、アジアでは独立の波が相次ぎ、旧宗主国との関係再編と国内の統治基盤づくりが急務になりました。他方で、世界秩序は米ソ冷戦のブロック化が進み、軍事同盟と経済圏の囲い込みが強まっていました。インドネシアやインド、ビルマの指導者たちは、いずれの陣営にも組み込まれない「自立的な外交」の可能性を模索し、アジア諸国が横の連携を強める必要を感じていました。とりわけ、フランスと越盟(ベトナム独立運動)との戦争が続くインドシナ情勢、朝鮮戦争の休戦後の政治会議の行方、中国の国際的地位(中華人民共和国か中華民国か)をめぐる扱いは、地域の安定と直結する課題でした。
こうした中で、セイロンのコーテラワラ首相は、インドのネルー首相、ビルマのウー・ヌー首相、インドネシアのアリ・サストロアミジョヨ首相、パキスタンのモハンマド・アリー首相らに呼びかけ、1954年4月末にコロンボでの会議開催を実現しました。各国の立場は一枚岩ではなく、たとえばパキスタンは安全保障上米英との関係を重視し、インドは非同盟を唱え、中国との関係改善に前向きでした。セイロンは英連邦の一員として西側とのパイプを保ちつつ、地域対話の媒介を務めました。多様な立場の指導者が「共通の最低限」を探るというのが、コロンボ会議の出発点でした。
参加国・主要論点—インドシナ、朝鮮半島、対中関係、脱植民地化
コロンボに集った五か国は、いずれもアジア大陸と島嶼部の代表的な新興国家でした。議題は多岐にわたりましたが、中心は次の四点でした。第一に、インドシナ戦争の和平です。会議の直後にはジュネーヴで国際会議が予定されており、アジア側として停戦・政治解決への基本的な考え方をすり合わせる必要がありました。武力の即時停止、関係当事者の参加、国民投票や自由選挙による将来決定といった原則が議論され、軍事同盟による一方的介入には慎重であるべきだという空気が共有されました。
第二に、朝鮮半島問題です。1953年の休戦を受け、政治会談の枠組みが模索されていました。コロンボ会議では、国連のもとで平和的解決を追求すること、停戦監視の厳格化、捕虜・離散家族問題への人道的配慮が支持されました。第三に、対中関係をどう扱うかという難題です。インドとビルマ、インドネシアは中華人民共和国との国交・実務接触を視野に入れ、代表権の問題を現実的に扱うべきだと主張しました。パキスタンとセイロンは慎重論を抱えつつも、地域安定のために中国を国際対話に巻き込む必要性については一定の理解を示しました。
第四に、脱植民地化と人種差別への姿勢です。南アフリカのアパルトヘイトや残存する植民地支配に対し、五か国は法の支配と民族自決、平等の原則を確認し、平和的手段による移行を促す声明の文言作成に取り組みました。これらの論点は、のちのバンドン会議で明文化される「十原則」の萌芽と重なります。宗教や体制が異なる国々が、価値の共通核を言葉にする作業は容易ではありませんでしたが、対話の回路を閉じないという点で一致が見られました。
合意と限界—共同声明の含意、内在する緊張、実務的成果
コロンボ会議の最終的な成果は、緩やかな共同コミュニケと、具体的な外交課題に関する当面の方針確認でした。インドシナについては、ジュネーヴ会議での停戦・政治解決を支持する立場が示され、外部からの軍事化を避けるべきだという注意喚起がなされました。朝鮮問題では、休戦体制の堅持と政治会談の継続が支持され、中国の国際的関与の必要性にも言及がありました。また、民族自決と国家主権の尊重、武力不行使、内政不干渉、国連憲章遵守といった一般原則が確認され、アジア諸国の間で外交協議を継続する意思が表明されました。
同時に、会議は多くの限界と緊張も抱えていました。第一に、五か国の安全保障志向は異なっており、同盟と非同盟をめぐる戦略の差が明瞭でした。とくにパキスタンは対インド関係と西側連携を重視し、のちにSEATOへの接近を強めます。他方、インドは軍事同盟から距離を置き、平和五原則(パンチャシーラ)に基づく二国間関係の構築を志向しました。第二に、中国を国際社会にどう位置付けるかでは、国交や代表権をめぐる歩調が合わず、共同歩調は理念の提示にとどまりました。第三に、植民地問題では、各国の国内事情や宗主国との関係に配慮が必要で、急進的な文言は避けられました。
それでも、首脳同士が時間をかけて意見を交わし、「アジアは自ら語る」という象徴的事実を国際社会に示したことは大きな意味がありました。会議は各国の外交官ネットワークを強化し、のちの会議運営や議事手続き、共同声明の文案作成の技術を高める実務的な蓄積にもつながりました。さらに、会議後の二国間往来や文化交流、通商使節の交換は、地域の信頼醸成に寄与しました。
バンドン会議への橋渡しと非同盟運動—系譜と評価
コロンボ会議の最大の歴史的意義は、1955年4月のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)を可能にした「前哨戦」であった点にあります。コロンボの五か国は、バンドンの主要主催国そのものであり、ここで培われた議題の構図や「共通原則」の言語が、バンドンでの十原則(主権尊重、内政不干渉、領土保全、平等互恵、平和共存など)の土台になりました。バンドンはアフリカ諸国を加えて規模と多様性を拡大し、反植民地主義・反人種差別・平和共存を国際政治の表舞台に押し上げます。コロンボ会議はこの流れの「助走」であり、アジア内部の相違を認めつつ協調点を模索する方法を実地に学んだ場でした。
さらに長期的には、1961年のベオグラード会議による非同盟運動の創設へと連なります。インド、インドネシア、ビルマは非同盟の理念的推進国であり、コロンボ以降の協議経験が、同運動の会議形式や合意形成の実務に活かされました。他方で、非同盟運動が時に「第三勢力のブロック化」に傾き、加盟国の内政や相互関係の緊張を内包したこともまた事実です。コロンボ会議の柔らかな協調は、そうした後の制度化の光と影を先取りしていたとも評価できます。
用語の整理と誤解の回避—「コロンボ計画」「1962年のコロンボ提案」との違い
学習上の混同が起きやすいのは、同じ「コロンボ」の名を冠する別の枠組みです。第一に、「コロンボ計画(Colombo Plan)」は1950年に英連邦諸国を中心に発足した技術協力・開発援助の枠組みで、場所の名は採択会場のコロンボに由来しますが、主催と目的が異なります。資金・人材育成・インフラ支援などの経済協力が主で、政治安全保障を中心に議論した1954年のコロンボ会議とは別物です。第二に、「1962年のコロンボ提案」は、中印国境紛争の停戦・境界管理に関し、アジア・アフリカ6か国(セイロン、ビルマ、ガーナ、エジプト、インドネシア、カンボジア)がコロンボで取りまとめた調停案を指します。これも開催地が同じというだけで、対象も時期も異なります。文脈に応じて用語を区別して理解することが大切です。
総括—アジアが自らの言葉を獲得した転機
コロンボ会議は、大国の思惑が交差する冷戦初期に、アジア諸国が自らの言葉で秩序と正義を語ろうとした試みでした。統一戦線をつくる会議ではなく、相違を抱えたまま協調の核を築く会議だったからこそ、その後のバンドン会議や非同盟運動の現実的な出発点になりました。インドシナと朝鮮、対中関係、脱植民地化と人種差別への姿勢など、今日的な課題にも通じる議題がここで俎上に載せられ、主権、法の支配、平和共存という言葉がアジアの声として鍛えられました。コロンボ会議を学ぶことは、国際政治における小中規模国家の連帯と自立、理念と現実の折り合いの付け方を考える手がかりになります。理念を掲げるだけでなく、異なる立場の間で通じる最低限の言葉を捜し求める営み—それがコロンボ会議の核心であり、現在にも通じる普遍的な課題なのです。

