四六駢儷体 – 世界史用語集

「四六駢儷体(しろくべんれいたい)」とは、中国で六朝時代から唐代にかけて盛んになった散文の文体で、「四六文」とも呼ばれます。文章を二語・四語・六語など、一定の字数で左右対称にそろえ、意味や語感までも対応させる「駢儷文(べんれいぶん)」の一種であり、とくに四字句と六字句を中心として構成された華麗な修辞的散文を指します。科挙の試験文や詔勅・表・碑文など、公式文書や儀礼的文章に広く用いられ、中国古典の中でもきわめて技巧的で華やかな文体として知られています。

四六駢儷体は、単に文字数をそろえるだけでなく、平仄(ひょうそく:声調の高低・平仄)や押韻、比喩や典故の多用など、細かなルールと高度な表現技法によって支えられていました。そのため、この文体を自在に操ることは、当時のインテリ層にとって教養と才能の証とみなされました。一方で、あまりにも技巧に偏るあまり、内容よりも形式が重視され、文章が空虚な美文に陥るという批判も早くから存在しました。唐代の韓愈(かんゆ)らが唱えた「古文運動」は、まさに四六駢儷体中心の文壇を批判し、先秦・漢代の質実な散文に立ち返ることを主張したものです。

日本でも、奈良〜平安期を中心に漢文の範として取り入れられ、勅撰史書や官人の文書作成、和漢朗詠集などの詩歌・歌謡編集に影響を与えました。したがって「四六駢儷体」という用語は、中国文学史だけでなく、日本古代〜中世の漢文学・文章作法を理解するうえでも重要なキーワードとなっています。

以下では、まず四六駢儷体の成立と文体的特徴を整理し、つづいて代表的な作品・用途、古文運動による批判とその後の展開、日本文学との関係と歴史的意義について順に見ていきます。

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成立の背景と文体的特徴

四六駢儷体の源流は、漢代にさかのぼる「駢儷文(べんれいぶん)」にあります。「駢」とは「ならぶ」、「儷」とは「対になった」という意味で、二句が対になっている、いわゆる「対句」を基本とする文章のことです。漢代の賦や一部の散文の中に、すでに語数や語義をそろえた対句的表現が見られますが、本格的に駢儷文が一つの確立した文体として整えられたのは、魏晋南北朝(六朝)時代以降とされています。

六朝時代は、政治的には分裂と戦乱が続く一方で、宮廷や貴族社会において洗練された文芸文化が花開いた時代でもありました。南朝を中心に、貴族たちは華麗な辞藻を競い合い、詩や賦、散文においても装飾的な表現が好まれました。この環境の中で、語数をそろえ、意味の対応を工夫した駢儷文が発展し、やがて四字句と六字句を軸にした「四六文」として体系化されていきます。

四六駢儷体の基本的な特徴は、次のような点にまとめることができます。第一に、「字数の整斉」です。文章を構成する句や節の多くが四字あるいは六字で書かれ、さらにそれらが「句と句」「節と節」でペアを組むように並べられます。このため、字面を見ただけでも左右対称の印象が強く、視覚的にも整ったリズムが感じられます。

第二に、「対偶(対句)」の徹底です。たとえば、上の句で「山高くして雲に接し」と書けば、下の句で「水深くして海に通ず」といった具合に、語数だけでなく意味や品詞、しばしば漢字の構造までも対応させます。自然と社会、過去と現在、善と悪など、対立・対応する概念を巧みに並べることで、文章にリズムと説得力、そして華麗さを与えます。

第三に、「声調と韻」の配慮です。中国語は声調言語であり、古代中国では平仄(平声と仄声の組み合わせ)に敏感でした。四六駢儷体では、句内の平仄パターンや句と句の平仄の対応が重視され、耳で聞いたときにも心地よいリズムとなるように工夫されました。また、段落や節の末尾では韻を踏むことも多く、散文でありながら詩に近い音楽性を備えています。

第四に、「典故と比喩の多用」です。歴史書や古典、逸話に由来する典故を散りばめ、比喩を重ねることで、限られた字数の中に豊かな意味を詰め込みます。このため、四六駢儷体の文章は、一見すると華麗で読みやすそうに見えながら、実際には典故の知識と中国古典への深い教養がないと理解が難しいという面もありました。

以上のような特徴を併せ持つ四六駢儷体は、六朝から唐の前半にかけて中国文壇の主流となり、名家の文章や科挙の模範文として高く評価されました。

代表的な作品・用途と科挙との関係

四六駢儷体は、その華麗さと形式美ゆえに、実用的な公文書や儀礼的文章にもしばしば用いられました。皇帝が臣下に与える詔(みことのり)や勅、臣下が皇帝に意見や祝賀を述べる「表」「奏」、亡くなった人物をしのぶ碑銘や志銘など、多くのジャンルで四六文が活躍しました。こうした文章は、政治的・社会的には公式な場面で読み上げられるものであり、その華麗さは王朝の威信や書き手の教養を示すものでもありました。

とくに唐代には、官僚登用制度である科挙が整備され、受験生は「策問」や「詩賦」と並んで、美しい四六駢儷体で文章を書く能力を問われるようになりました。模範となる四六文を暗記し、それに倣って対句や用典を駆使した文章を作ることは、エリートの必須教養となります。このため、「良い四六文を書けるかどうか」は、単に文才の問題ではなく、官界で出世できるかどうかにも関わる重大なスキルとなりました。

四六駢儷体の代表的な作者としては、六朝の文人・庾信、梁の昭明太子を中心とする『文選』編纂グループ、唐代初期の王勃・楊炯・盧照隣・駱賓王ら(いわゆる「初唐四傑」)などが挙げられます。彼らの文章は、後世まで繰り返し読まれ、科挙の範文としても学ばれました。

たとえば、王勃の「滕王閣序」は、華麗な四六駢儷体の名文として有名です。その中には、自然景観の描写、人生の無常への感慨、友人との交流を詩的に綴った文句が連なり、四字句と六字句を巧みに組み合わせた対句が連続します。このような作品は、単なる形式美にとどまらず、内容的にも豊かな感情と思想を表現しうることを示しており、四六駢儷体の可能性を最大限に活かした例とされています。

しかし、四六駢儷体の流行が長く続くにつれ、「形式のための形式」が目立つようになるのも事実でした。内容の薄い文章でも、華麗な対句と典故を並べ立てれば一見立派に見えるため、実務的な報告や議論にまで無理に四六文が使われ、冗長でわかりにくい文書が増えたと批判されます。こうした状況は、やがて古文運動による反発を生み出すことになりました。

古文運動と四六駢儷体批判、その後の展開

唐代中期になると、韓愈・柳宗元らを中心とする文人たちが、四六駢儷体中心の文壇を批判し、「古文(こぶん)」への回帰を唱え始めます。古文とは、先秦・漢代の歴史書や諸子の著作に見られる、比較的自由で論理的な散文スタイルを指します。韓愈は、四六駢儷体が形式と装飾に偏り、道徳的・思想的な内容の内実を欠いていると批判し、「文以載道(文は道をのせる)」というスローガンのもと、簡潔で筋の通った古文を理想としました。

古文運動は、単なる文体の好みの問題ではなく、「どのような文章が聖人の道や儒教の価値をきちんと伝えうるか」という思想的・教育的な問題とも結びついていました。四六駢儷体の巧妙な対句や典故の遊戯は、一部の教養人にとっては楽しみであっても、広く人びとを教化し、政治を正す文章としてはふさわしくない、と韓愈らは考えました。

その結果、唐代後期から宋代にかけて、四六駢儷体は次第に文壇の中心から退き、政策論や歴史叙述、思想的著作などでは古文が主流となっていきます。宋代の欧陽脩・蘇軾らは、古文をさらに発展させ、散文における理性と感情の新たなバランスを追求しました。とはいえ、四六駢儷体が完全に消えたわけではなく、儀礼的文章や碑文、祝辞などの「格式を重んじる場面」では、その後も長く用いられました。

元・明・清代に至るまで、四六駢儷体は「典雅な美文」の代名詞として位置づけられ、科挙の一部科目や官僚の公式文書、文人たちの遊戯的な文章の中で生き続けました。明清期の科挙では、四六駢儷体よりも八股文(はっこうぶん)と呼ばれる規格化された論文形式が重視されましたが、その修辞的な要素には四六文の影響も見て取ることができます。

近代に入り、科挙制度が廃止され、口語白話文が普及すると、四六駢儷体はしだいに実用の場を失い、古典文学の中で学ばれる対象となりました。しかし、その緻密な構成と韻律感は、今日でも中国語のレトリック研究や修辞学、さらには漢文教育の一環として注目され続けています。

日本漢文学との関係と歴史的意義

日本でも、奈良時代から平安時代にかけて、中国の文体が積極的に受容されました。日本の貴族や官人は、漢文を公文書や自己表現の主要な手段として用い、中国の詩や散文を模範として文章作法を学びました。その過程で、四六駢儷体も重要な手本の一つとなり、『日本書紀』の序文や、続日本紀以降の勅・詔、表啓文などに駢儷的な表現が見られます。

平安時代になると、藤原氏を中心とする貴族社会の中で、漢詩文が教養の中心となり、多くの官人が四六駢儷体を学びました。彼らは、中国の名文を引用しつつ、日本の政治や儀礼の場にふさわしい文章を作成し、天皇や貴族への祝辞・哀悼文・奏上文などを華麗な漢文で飾りました。『和漢朗詠集』などには、こうした駢儷文的な漢詩・漢文が多数収められ、日本語の美意識と中国的修辞が交差する場となっています。

また、日本の仏教界でも、漢文による講義や説話の中で駢儷的表現が使われることがありました。禅宗や天台宗の高僧たちは、中国の経典や論書に通じており、法語や書状の中で対句や用典を駆使した文章を残しています。こうした文書は、形式的には四六駢儷体の影響を受けつつ、日本的な文脈と結びついて独自の味わいを持つようになりました。

現代の日本では、「四六駢儷体」という用語は主に漢文学史や中国文学史の授業・書物の中で登場しますが、その背後には、古代東アジア全体に共有された漢字文化圏の文体意識が存在します。漢字を用いてリズムと対称性を追求する文体は、日本の和漢混淆文や、江戸期の漢詩文、さらには近代の修辞的な文章にも影響を与えており、「美文」「修辞的散文」への好みの源流の一つとも言えます。

総じて、四六駢儷体は、中国における文体史の中で「形式美を極限まで追求した散文」として重要な位置を占めると同時に、科挙・官僚制・儀礼文化と密接に結びついた社会的機能を持っていました。その栄枯盛衰の過程――六朝・唐での全盛、古文運動による批判、儀礼文としての生き残り、近代以降の没落――をたどることは、東アジアにおける「ことばと権力」「文章と教養」の関係を理解するうえで大きな手がかりとなります。「四六駢儷体」という用語を目にしたときには、こうした広い歴史的・文化的背景をあわせて思い浮かべると、その意味するところがより立体的に見えてくるでしょう。