国際協調主義 – 世界史用語集

国際協調主義とは、国家どうしが武力ではなく話し合いと制度で争いを抑え、共通のルールで世界を運営していこうとする立場のことです。第一次世界大戦の惨禍を受けて広がり、国際連盟の設立、軍縮や紛争仲裁の仕組み、通商・金融・労働など各分野の協定づくりとして具体化しました。要するに「ルールをつくり、互いに守る」「力の均衡よりも会議と条約」「相手をつぶすより、共存できる線を探す」という考え方です。日本史では1920年代の幣原喜重郎らの外交(いわゆる協調外交)として登場し、アメリカ・イギリスと歩調を合わせて軍縮と中国市場の“門戸開放”を支持しました。ただし世界恐慌と各国の不満、地域紛争の激化、国内の強硬論の台頭によって失速し、1930年代には破綻していきます。現代の国連体制や貿易・金融の国際機関も、そのエッセンスを受け継いでいます。

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概念の輪郭と思想的背景――戦争の反省から「制度の国際政治」へ

国際協調主義の中核は、国家の利害対立を武力ではなく制度・法・会議外交で調整するという発想です。第一次世界大戦は総力戦と大量殺戮の時代を告げ、人びとは「戦争を終わらせる戦争」の実現を真剣に考えました。ここで強い推進力となったのが、ウィルソン米大統領の十四か条(1918)に見られる民族自決・公開外交・国際機構の創設というビジョンです。彼の理想主義(ウィルソニズム)は、秘密同盟や勢力圏で世界を仕切る十九世紀型のバランス外交への批判として響き、欧米と日本においても支持を集めました。

ただし、協調主義は単なる「善意」ではありません。背景には、世界経済の相互依存が深まったという現実がありました。蒸気船・電信・国際金融によって市場は結びつき、関税やブロック経済、植民地紛争は各国の景気や雇用に直結します。自由貿易・門戸開放の原則と、集団安全保障(一国の侵略に対して多数国で制裁する)の構想が、協調主義の二つの柱でした。さらに、労働条件や衛生、麻薬規制、難民保護といった「低政治」領域の国際協力も、戦争の温床を取り除くための地ならしとして重視されます。

思想面では、功利主義的平和観(損失の最小化)、カントの「永遠平和のために」に見られる共和政と国際法の連関、そして英米の法の支配思想が、協調主義の知的土台になりました。いっぽうで、現実主義(リアリズム)は「安全保障のジレンマ」や大国の利益配分を無視できないと批判し、協調主義は常に理想と現実の綱引きの中で運用されることになります。

制度と実践――国際連盟・ワシントン体制・ロカルノと不戦条約

第一次大戦後の国際秩序づくりは、複数のレイヤーで進みました。第一は国際連盟(1920)です。連盟規約は、戦争回避のための紛争の平和的解決(仲裁・調停)、経済制裁、軍縮の努力、少数民族保護などを掲げ、ジュネーヴには事務局と専門機関(衛生、難民、麻薬、交通通信など)が置かれました。法の拘束力は限定的でしたが、常設の会議・事務局という「制度の場」を持ったこと自体が画期的でした。

第二はワシントン体制(1921–22)です。海軍軍縮会議で米・英・日・仏・伊の主力艦保有比率を定めたワシントン海軍軍縮条約、太平洋の現状維持と相互協議を約した四カ国条約、中国の主権尊重と「門戸開放・機会均等」をうたった九カ国条約の三本柱は、太平洋・極東における勢力圏争いを抑え、無制限の海軍競争を止める枠組みでした。これは、英米と日本の利害調整を前提にした協調の実験であり、アジア太平洋の平和に一定の効果をもたらしました。

第三はヨーロッパのロカルノ体制(1925)です。ドイツ・フランス・ベルギー・イギリス・イタリアがラインラントの現状を相互保証し、ドイツは西側国境の不可侵を受け入れる一方、東方国境(ポーランド・チェコスロヴァキア)では仲裁条約を結ぶ形で「部分的和解」を演出しました。ドイツの国際連盟加盟(1926)と合わせて「ロカルノの精神」は緊張緩和の象徴となります。

第四は不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約、1928)です。ここでは、国家の政策手段としての戦争放棄が宣言されました。強制力は弱く、侵略定義も曖昧でしたが、戦争の違法化という規範を国際法に刻み込んだ意義は大きく、のちの国連憲章の武力不行使原則へつながります。併せて、ロンドン海軍軍縮条約(1930)や国際司法裁判制度(常設国際司法裁判所、ハーグ)も、法と軍縮のネットワークを厚くしました。

これら「高政治」の装置と並行して、ILO(国際労働機関)による労働基準の国際化、衛生機関による感染症対策、難民高等弁務官事務所による旅券(ナンセン・パスポート)発行、薬物規制、航空・通信の標準化など、日常を支える国際協力が展開しました。協調主義は、軍縮や条約だけでなく、社会・技術・人道の細かなルールづくりの積み重ねでもあったのです。

日本の「協調外交」――幣原外交・軍縮支持・門戸開放の受容

日本における国際協調主義は、1920年代の政党内閣期に「協調外交」として具体化しました。中心人物は外相の幣原喜重郎で、首相として方針を支えた加藤友三郎や、海軍の軍縮推進派(加藤寛治らと対立した穏健派)も重要です。幣原外交の基本線は、①アメリカ・イギリスとの関係重視、②中国における門戸開放・機会均等の遵守、③武力や特権の拡張ではなく経済的進出と協議による利益確保、④海軍軍縮の受け入れ――の四点で要約されます。

具体的には、ワシントン軍縮体制を受け入れ、主力艦保有比率の劣位(米英10:日6)を容認する代わりに、財政負担の軽減と英米との信頼醸成を優先しました。1930年のロンドン海軍軍縮条約では補助艦の制限にも応じ、協調のメッセージを明確にします。中国に対しては、軍事的衝突を避けつつ通商・投資の拡大で利益を追求し、列強の間で共同歩調をとる路線でした。これは、強硬派が唱えた「圧迫」とは対照的に、多角的関係の中で日本の安全と繁栄を確保する戦略でした。

この政策は、国内外の批判にさらされます。国内では、海軍内部の「艦隊派」や陸軍、国家主義団体、保守紙の一部が「国益の譲歩」「弱腰」と攻撃しました。外では、中国のナショナリズム高揚、列強間の利害衝突、満洲の権益をめぐる摩擦が続きました。それでも協調外交は、財政健全化・国際信用の維持・外貨獲得という観点からは合理的で、短期的には東アジアの緊張抑制に寄与しました。

転機は世界恐慌(1929)とそれに続く保護主義の台頭、そして満洲事変(1931)でした。恐慌で各国は高関税とブロック経済へ傾き、協調を支えた自由貿易の基礎が揺らぎます。満洲事変は、現地軍の独断行動から全面化し、国際連盟の勧告(リットン報告書)に反発した日本は脱退(1933)へと向かいます。これにより、幣原路線は政治的基盤を失い、協調主義はアジア太平洋で急速に後退しました。

限界・崩壊・再編――1930年代の破綻と戦後体制への継承

国際協調主義が1930年代に行き詰まった理由は、いくつもの層で説明できます。第一に、安全保障の非対称性です。連盟は経済制裁の枠組みを持っていたものの、違反国家に対して実力で抑止・強制する仕組みが弱く、満洲事変、エチオピア侵攻、ラインラント進駐、オーストリア併合、チェコ解体などの既成事実化を止められませんでした。第二に、経済危機と国内政治です。恐慌は失業と社会不安を招き、各国の国内政治はポピュリズム・権威主義へ傾きます。議会と国際協調を支えた中間層の信任が揺らぐと、外への強硬策が短期的支持を得やすくなりました。

第三に、大国間の利害調整の失敗です。ドイツの不満(ヴェルサイユ条約の賠償・軍備制限)、イタリアの地位不満、英国の財政制約と「極東への関与疲れ」、米国の孤立主義(上院の連盟拒否、軍縮への部分的関与)などが絡み、協調の「公共財」を十分に供給できませんでした。第四に、理念と現実の距離です。不戦条約や民族自決は高邁でしたが、植民地秩序やマイノリティ処遇、資源配分の不均衡という現実は「二重基準」への不満を増幅しました。

それでも、協調主義の遺産は戦後に継承されます。国際連合は安全保障理事会で強制措置の法的基盤を持ち、集団安全保障の再設計を試みました。ブレトンウッズ体制(IMF・世界銀行)、GATT(のちWTO)、WHO、UNHCR、UNESCO、FAOなどの専門機関の網は、連盟期の専門組織を踏まえて発展し、労働ではILOが連続性を保ちました。軍縮では、NPTや化学兵器禁止条約、地域的信頼醸成措置が積み上げられ、貿易・金融でも紛争解決手続が整備されます。つまり、1930年代の崩壊はあったとしても、「制度で世界を運営する」という協調主義の方向性自体は、第二次大戦後の長期安定期を支える柱になったのです。

また、理論の上でも、戦後の国際関係学はリベラル制度主義として協調主義を再理論化しました。そこでは、相互依存と反復ゲーム、情報の非対称性と監視の仕組み、国内政治と国際制度の相互作用が分析され、協調がどの条件で持続可能かが探られます。現代の課題――気候変動、パンデミック、データとAI、海洋・宇宙のガバナンス、サプライチェーンの安全保障――でも、国際協調主義は「ルールづくり」と「履行の監視」「包摂的な利益配分」という実務課題に姿を変えて生き続けています。

総じて、国際協調主義は一枚岩のイデオロギーではなく、現実と理念の折衝を続ける技法です。力の論理を見据えつつ、最悪を避けるための合意の場と、日常を支える技術的なルールづくりを重ねる――その地道な積み上げが、国際社会の安定を相対的に高めてきました。1920年代の希望と1930年代の挫折を併せて学ぶことが、協調主義という言葉に厚みを与えます。