ウィーン会議 – 世界史用語集

ウィーン会議(1814年9月〜1815年6月)は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再設計するために開かれた多国間会議で、オーストリアの都ウィーンに列強と多数の中小国の代表が集い、戦争で崩れた国境と統治の枠組みを作り直した外交交渉の総称です。会議の中心には、メッテルニヒ(墺)、タレーラン(仏)、カッスルレー(英)、ハルデンベルク(普)、アレクサンドル1世(露)らが立ち、正統(合法)王朝の回復、勢力均衡、補償—代償の原理を柱に「戦争を予防する秩序」を構想しました。結果として、フランスは革命前に近い規模まで縮減され、オランダ・ベルギーの連合王国、ドイツ連邦、ロンバルディア=ヴェネツィア王国、スイス永世中立、ポーランド(立憲王国)とザクセンの妥協、ノルウェー=スウェーデン同君連合などが成立しました。会議の後は四国同盟/五国協調の「協調体制(コンサート・オブ・ヨーロッパ)」が運用され、19世紀中葉まで戦間の安定と反革命の連携をもたらしました。以下では、会議の背景と参加者、交渉原理と方法、具体的な領土・制度の再編、さらに会議後の運用と限界を、史実に即して整理します。

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背景と参加者:ナポレオン体制の崩壊と「誰が席につくか」

1813年のライプツィヒ諸国民戦争でナポレオン軍が敗北し、1814年春に連合軍はパリに入城、ブルボン家のルイ18世が復位しました。講和(第一次パリ条約)でフランスは1792年境界へほぼ縮小され、ヨーロッパ全体の恒久秩序を討議する場としてウィーンに各国が招かれます。ホスト役はオーストリア宰相メッテルニヒで、イギリス外相カッスルレー、プロイセン宰相ハルデンベルク、ロシア皇帝アレクサンドル1世が列強の中核でした。注目すべきは、敗者フランスからタレーランが参加し、「正統性(王朝の合法性)」を旗印に発言権を獲得したことです。彼は「勝者だけが秩序を決めるのではない」という論理で中小国の支持を集め、フランスを全面的孤立から救い、列強の一角へ復帰させることに成功しました。

参加は列強に限られず、イタリア諸侯、ドイツ小邦、スイス・スペイン・ポルトガル・スウェーデン・デンマーク・オスマン帝国の代表、ローマ教皇庁の特使、さらに多数の法律家・地理学者・軍人が列席し、社交と舞踏会の裏で緻密な諸委員会が動きました。決定は公式全体会議よりも、私的会談と非公式連絡、覚書の交換によって進められ、舞踏会のきらびやかさは、内実の苛烈な利害調整を覆い隠す仮面でもありました。

交渉の原理と方法:正統・均衡・補償、そしてタレーランの術

会議を導いた基本原則は三つです。第一に「正統(合法)王朝の回復」です。革命とナポレオンが打ち立てた新政権を可能な限り旧王朝へ戻すことで、国内秩序の安定と国際約束の履行を担保するという発想でした。ルイ18世の復位、スペイン・サルディニア・両シチリアなどがその典型です。

第二に「勢力均衡」です。単独の覇権が再現しないよう、互いの力を釣り合わせる国境線と緩衝地帯が設計されました。フランスの東にプロイセンのライン左岸獲得を置き、北にイギリスとオランダの海上・河川防衛線を整え、南にピエモンテを強化して三方から圧力をかける配置は、再侵略の抑止を意図します。

第三に「補償(代償)」です。対仏戦で負担した列強に対し、戦費・損失の代償として領土や権利が割り当てられました。領土の損得勘定は、海上基地・通商拠点(英のマルタ・セイロン・ケープ)、鉱工資源(ザール・ルール周辺)、要塞線(ルクセンブルク・マインツ)など、軍事・経済・交通の総合価値で評価されました。

この三原則の運用を巡って、最も鋭く争われたのが「ポーランド=ザクセン問題」です。ロシアのアレクサンドル1世はワルシャワ公国の大半を「ポーランド王国」として自王冠の下に置くことを主張し、代償としてプロイセンはザクセンの大部分を併合する案が浮上しました。これに対し、オーストリア・イギリス・フランスは「露普の過度拡大」を懸念し、タレーランは両国案に反対する「秘密同盟」(1815年1月)をまとめて均衡を回復します。最終妥協は、ポーランド王国の成立(ロシア皇帝が国王を兼ねるが、議会と憲法を持つ)、クラクフ自由市の設定、ザクセン領の一部のみをプロイセンへ割譲という形で決しました。

交渉術の面では、タレーランが「正統性」を大義名分に用い、敗者のフランスを列強協議のテーブルへ戻した手腕が光ります。一方、メッテルニヒは社交を駆使し、争点を分割・順序づけて処理することで、オーストリアの核心利益(イタリア支配権とドイツでの発言力)を守りました。カッスルレーはイギリス財政の持続性と海軍力を背景に、欧州全体の安定を優先する立場から調停役を務めました。

領土・国制の再編:フランス・ドイツ・イタリア・北欧・スイスの新配置

フランスは第一次パリ条約(1814)で1792年境界へ、ワーテルロー後の第二次パリ条約(1815)でさらに一部を削減され、五年間の占領と賠償支払いが課されました。ただしブルボン王制は維持され、革命前の完全復古ではない「立憲王政」が採択されました。

オランダでは南北の合邦「ネーデルラント連合王国」が成立し、ベルギー(南部)を加えることでフランス北東の防波堤が強化されました。英はこれと連動してアントウェルペン河口の安全保障を企図し、海峡の制御に有利な布陣を得ます。

ドイツではナポレオンのライン同盟に代わり「ドイツ連邦(Deutscher Bund)」が結成され、35邦と4自由都市がゆるやかに結合しました。連邦議会はフランクフルトに置かれ、議長はオーストリア代表が務めます。これは国家統一ではなく、対仏安全保障と内政干渉の枠組みを兼ねた緩い連合で、プロイセンとオーストリアの二大勢力が均衡を取り合う設計でした。プロイセンはライン左岸(ラインラント)・ヴェストファーレン・ポーゼンなどを獲得して工業化の基盤を手に入れ、のちの鉄鋼・石炭地帯の核がここに準備されます。

イタリアでは、北部にオーストリア直轄の「ロンバルディア=ヴェネツィア王国」が置かれ、サルディニア王国(ピエモンテ=サルデーニャ)がサヴォワ・ニースとともに強化されました。ジェノヴァ共和国はサルディニアへ編入され、トスカナ・モデナ・パルマにハプスブルク系諸家が据えられ、中央では教皇領が回復しました。統一にはほど遠い配置ですが、対仏・対墺の緩衝と監督を意図した秩序です。

ポーランドは前述の通り「ロシア皇帝を君主とする立憲王国」として再建され、プロイセンはポーゼン大公国、オーストリアはガリツィアを保有しました。クラクフは自由都市として三国の共同保護下に置かれました。

スイスは旧来の州連合が再構成され、「永世中立」が列強により承認されました。これはアルプスの要衝を巡る争奪を避ける安全弁として機能します。北欧では、デンマークがナポレオン期の選択の代償としてノルウェーを失い、スウェーデン国王を共通の君主とする同君連合が成立しました(ノルウェーは憲法と議会を維持)。

イギリスは海上・植民地の補償を受け、マルタ・ケープ植民地・セイロンなどの戦略拠点を永有化しました。これにより海上交通路とインドへの道が強化され、海軍優位の長期的基礎が固まります。スペイン・ポルトガルでは王政が回復しましたが、アメリカ大陸の植民地ではすでに独立運動が進行しており、欧州秩序は新世界の変動と切り結ぶことになります。

会議後の運用と限界:協調体制、神聖同盟、干渉と反発

ウィーン会議の合意は、単発の地図描き直しにとどまらず、「協調体制(コンサート・オブ・ヨーロッパ)」という運用原理を生みました。1815年に英・露・墺・普が四国同盟を結び、フランスは1818年に復帰して五国協調となります。列強は定期・臨時の会議(アーヘン1818、トロパウ1820、ライバッハ1821、ヴェローナ1822など)で危機と革命に対処し、相互通報と共同歩調を原則化しました。

宗教的・道徳的宣言として露・墺・普が結んだ「神聖同盟」は、君主の相互扶助とキリスト教的協調をうたいましたが、実務の中心は世俗的な四国(のち五国)協調でした。イギリスは国内自由主義と海上利害から「大陸干渉」に慎重で、スペインやイタリアの革命鎮圧に対する軍事介入には距離を置きました。一方、オーストリアはドイツ連邦の議長国としてカールスバート決議(1819)を主導し、大学・出版・結社に厳格な監督を敷いて自由主義運動の芽を摘みます。イタリアでもカルボナリの蜂起(1820–21)を鎮圧しました。

例外的に、ギリシア独立戦争(1821–29)では「民族自決」と「勢力均衡」が衝突する中で、露・英・仏が連携してオスマン帝国に介入し、ギリシア独立が承認されます。ベルギー独立(1830)は、ネーデルラント連合王国の内部矛盾が爆発した結果で、列強はロンドン会議で永世中立(1831/39)を設定し、フランス・英の妥協で戦争拡大を回避しました。こうした柔軟な調停は協調体制の「可塑性」を示します。

とはいえ、1848年の「諸国民の春」は、会議的秩序の限界を露わにしました。フランス二月革命、ウィーン蜂起、ドイツ三月革命、ハンガリー独立戦争、イタリア統一運動の高揚は、正統主義と干渉主義に対する広範な挑戦でした。最終的に多くは反動で鎮圧されたものの、民族統一・国民国家形成という潮流は後退せず、1850年代以降のクリミア戦争、1859年の伊統一戦争、1866/70年の独統一戦争を経て、ウィーン体制は骨格から書き換えられていきます。

ウィーン会議の遺したものは、外交技術としての会議体運営と、戦争予防のための勢力配置、そして「内政と国際秩序の連動」という視点でした。列強が相互監視し、危機を協議で処理する仕組みは、その後の国際会議(ハーグ会議、国際連盟、国際連合)へ連なる先例となります。他方で、民族運動や市民的自由の要求に対して、干渉と抑圧で応えた側面は、19世紀の政治的緊張を長引かせる要因ともなりました。

総じて、ウィーン会議は、ヨーロッパの地図を描き直しただけでなく、力と法、王朝と国民、旧体制の連続と近代国家の胎動がせめぎ合う「秩序の作法」を定めました。その作法は折衝と妥協、情報交換と舞踏会、非公式覚書と公開条約が絡み合う複合的な過程であり、戦争の後に平和をどう管理するかという課題に対する、一つの歴史的回答でもありました。