コンスタンティノープル教会 – 世界史用語集

「コンスタンティノープル教会」とは、一般に東方正教会の中心的座であるコンスタンティノープル全地総主教庁(エキュメニカル総主教庁)を指します。首座は「コンスタンティノープルの大主教、ニュー・ローマの総主教、全地総主教」と称し、古代末期から中世ビザンツ、オスマン帝国期、そして現代に至るまで、信仰・典礼・教会法・国際関係の要として機能してきました。西方のローマ司教に対置される東方の首位権の拠点であり、ニカイアやカルケドンの公会議体制、五大総主教座(ペンタルキア)の制度化、聖像崇敬論争の収束、ヘシカズム神学の承認、近代の民族教会の自立(自頭権)の承認、そして現代のエキュメニカル対話に至るまで、歴史の節目ごとに重要な役割を果たしてきました。地理的には現在のトルコ共和国イスタンブルのファナー地区に本拠を置き、トルコ国内での法的制約と国際的な宗教的権威の両面を抱えつつ、ディアスポラの司牧、アトス山の管轄、諸教会間の調停など多面的な責務を担っているのが特色です。本稿では、起源と制度、信仰・典礼と知の伝統、政治と断絶・和解の歴史、現代の課題と国際関係という四つの観点から、コンスタンティノープル教会の全体像をわかりやすく解説します。

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起源と制度—「ニュー・ローマ」の台頭、総主教座の形成と首位権

コンスタンティヌス1世が330年に新都コンスタンティノープルを奉献すると、ローマ帝国の宗教行政も次第に東方へ重心を移しました。4世紀から5世紀にかけての公会議—とりわけ381年の第二コンスタンティノープル公会議、451年のカルケドン公会議—は、コンスタンティノープルの座を教会秩序の上位に位置付けていきます。カルケドン第28規則は、古都ローマに次ぐ「栄誉の首位」をニュー・ローマ(コンスタンティノープル)に与え、東方の広範な地域(ポントス、アジア、トラキア)に対する管轄権と上訴審理の権能を明確化しました。この規則は西方では異論も招きましたが、実務的にはビザンツ帝国の行政構造と連動し、総主教(パトリアルキス)の地位を制度的に固めました。

中世には、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム、ローマの五座が「ペンタルキア」として相互の均衡を保つ枠組みが整いました。皇帝はしばしば教義・典礼・教会法の問題で総主教と協働し、都市のアヤソフィアを中枢に教会会議が開かれました。聖職任命、教区編制、修道院監督、上訴裁判の最終審理など、総主教庁は東方正教世界の裁治と調停の中心でした。

オスマン帝国の征服(1453)後、メフメト2世はコンスタンティノープル総主教に正教徒共同体(ミッレト)の長(エトナールヒ)としての権威を与え、婚姻・相続・教育などの宗教司法を一定範囲で認めました。これにより総主教庁は、帝国の多民族・多宗教秩序における自治の窓口となり、バルカン・小アジアの正教徒を束ねる政治宗教的役回りを担いました。近代に入ると各民族運動が台頭し、ギリシア独立(1830)以後、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ロシアなどの諸教会が次々と自頭権を主張・獲得していきます。総主教庁はこれらの自立を調停・承認しつつ、全体の交わり(コムニオン)を維持する「調整者」の性格を強めていきました。

信仰・典礼と知の伝統—アヤソフィア、聖像、ヘシカズム、アトス山

コンスタンティノープル教会の信仰生活は、壮麗な典礼と音楽、神秘神学、修道の伝統に裏打ちされています。ビザンツ典礼(コンスタンティノープル典礼)は、聖金口イオアンネスや聖大ワシリイの奉神礼を核に、詠唱(エコー)、聖像(イコン)、香、行進、朗読が重なり合う総合芸術的空間を作り出してきました。アヤソフィアはこの典礼文化の象徴であり、その音響とモザイクは神の臨在を視覚・聴覚で体験させる装置でした。聖像崇敬をめぐる長い争い(イコノクラスム)では、コンスタンティノープルの僧院や信徒が聖像の神学的意義—受肉の神秘の証言—を弁護し、843年の「正教の勝利」以後、聖像は祈りと教育の道具として正当化されました。

14世紀のヘシカズム論争では、アトス山の修道士グレゴリオス・パラマスの神学が総主教庁で承認され、神の「本質」と「エネルゲイア」の区別に基づく神化(テオシス)の道が教理化されました。沈黙(ヘシキア)とイエスの祈りを通じて「タボルの光」に参与する霊的経験は、コンスタンティノープル系の神学と修道実践の核となります。アトス山は現在も総主教庁の直接管轄にあり、修道共和国として自治を保ちながら、ギリシア世界とディアスポラの霊的重心であり続けています。

知の面では、パトリスティック(教父学)伝統の整理、法と典礼書の編集、説教と詩歌(スタシモン、カノン)の発展が挙げられます。ユスティニアヌスの法典編纂に協働した学匠の系譜、パライオロゴス朝の文芸復興、聖像画の技法伝承は、正教文化圏全体に影響しました。1054年以後も、翻訳と書写、音楽記譜の整備、身体性と祈りの神学など、多くの分野で独自の発展が見られます。

政治と断絶・和解—フォティオス、1054年の離反、十字軍、近代の民族教会

東西教会の関係において、コンスタンティノープル教会は常に中心舞台に立ってきました。9世紀のフォティオス事件は、教会人事と教義(フィリオクェ)をめぐるローマとの対立が絡み、総主教フォティオスがいったん退位・復位するなど波乱を生みました。1054年には、教義・典礼・首位権理解の差と政治的緊張が重なり、相互破門(のち解除)という形で東西の離反が可視化します。以後も、リヨン(1274)やフィレンツェ(1439)での一時的な合同の試み、1204年の第4回十字軍による都市の劫掠とラテン総主教の設置など、関係は断絶と接近を繰り返しました。コンスタンティノープル教会は、東方正教会の一致を維持しつつ、西方との和解可能性を探る二重の課題を担い続けたのです。

近代に入ると、民族自決と教会組織が絡み合う難題が現れます。ギリシア、セルビア、ルーマニア、ブルガリアなどの民族国家は、それぞれ自頭権(オートケファリー)を求め、総主教庁は教会法と実情の調整の中で承認・修復を進めました。1872年には「民族主義(エスノフィレティズム)」を教会分裂の原理として退ける決議がなされ、民族原理を教会秩序の基礎にすることの危うさが明確化されます。20世紀に入ると、ロシア革命とディアスポラ拡大、バルカン戦争・世界大戦を経て、総主教庁は難民の司牧と国際社会での発言を強めました。

トルコ共和国の成立後、総主教庁は国内法上の非国家的宗教機関として厳しい制約下に置かれ、神学校(ハルキ神学校)閉鎖などの困難に直面しました。それでもファナーの本部は典礼と外交の活動を継続し、全地総主教としての首位権—名誉の首位 primus inter pares—を根拠に、諸正教会の協働を呼びかけ続けています。

現代の課題と国際関係—ディアスポラ、トモス、対話、環境と平和のアジェンダ

今日のコンスタンティノープル教会は、地理的な小規模さと国際的権威の大きさという非対称を抱えています。トルコ国内の信徒は少数派ですが、北米・西欧・オーストラリアなどのディアスポラ司教区を通じて、数百万人規模の信徒を司牧しています。諸民族が混在するディアスポラの教会統治は複雑で、総主教庁は全世界の正教ディアスポラにおける「配列と調整」の責務を主張し、地域別の主教会議の設置など、重複管轄の整理を進めてきました。

2016年にはクレタ島で大公会議(聖大公会議)の開催を主導し、断食・結婚・宣教・ディアスポラなどの課題で合意文書を採択しました(全正教会の完全参加には至らずとも、合議の道を再始動させた点で意義があります)。自頭権の付与(トモス)については、歴史的にコンスタンティノープルが付与権を自任し、近年も新教会体制の承認をめぐって大きな議論が交わされています。とりわけ、ある地域教会の独立承認をめぐる決定は、他の正教会との間に交わりの停止や対話の緊張を生じさせることがあり、首位権の具体的内容(名誉か、調停権か、上訴審か)をめぐる教会法上の論争が続いています。

エキュメニカルな対話では、ローマ・カトリック教会との国際委員会、プロテスタント諸派との双務委員会を通じて教義・教会論・首位権の理解のすり合わせが進められています。環境問題でも、総主教の中には「緑の総主教」と称される人物が現れ、地球環境の保全を神学的責務として位置づけるメッセージを発信してきました。宗教間対話や地域紛争の平和的解決への呼びかけは、総主教庁の外交的顔でもあります。

内部課題としては、司祭・修道士の養成、神学教育機関の再開、聖職者・信徒の協働(シノダリティ)の実質化、ディアスポラの第二世代・第三世代への言語・文化・信仰継承、デジタル時代の典礼と共同体形成などがあります。文化財の保全—聖堂・写本・イコン—や、信教の自由と財産権の保護に関する法的課題も続いています。

総じて、コンスタンティノープル教会は、「名誉の首位」を土台に多元的正教世界の結節点としてふるまうことで、歴史的重みと現代的使命を両立させようとしています。古代から受け継いだ典礼と神学の豊穣、オスマン期の多宗教秩序で培われた調停術、近代・現代の国民国家・ディアスポラとの対話経験を資産として、分裂の時代に一致の器を保つこと—それが、この教会が現在も果たし続ける固有の役割と言えます。