豪族(漢) – 世界史用語集

「豪族(漢)」は、前漢から後漢期にかけて地方社会で強い経済力と人的結合を背景に影響力をふるった大土地所有層を指す用語です。彼らは荘園制が制度化する以前の段階で、土地兼併(けんぺい)と貸付、佃戸(でんこ)・隷属的従属民・部曲(ぶきょく)と呼ばれる従者の組織化、郷里の祭祀・治安・訴訟仲介などを通じて地域秩序の実質的担い手となりました。郡県制のもとで中央—地方が接続される一方、豪族は郷挙里選による官途と結びつき、中央官僚や外戚・宦官・清議派との抗争に参加して国家政治へも影響を及ぼしました。後漢末の群雄割拠や黄巾の乱の背景には、豪族の肥大化と国家の統御力低下があり、三国・魏晋南北朝期の門閥貴族化への橋渡しをなした存在として位置づけられます。

スポンサーリンク

定義と成立背景――郡県制下で膨張した大土地所有層

漢代の「豪族」は、同時代史料では「豪強」「大姓」「大人」「郷里の豪右」など多様に表現されます。共通項は、(1)広い田地・園戸の所有、(2)貸与や小作関係に基づく継続的な地代・利子収入、(3)親族・同族(宗族)・門生故吏・客(食客)からなる人的ネットワーク、(4)官府と住民の間で実務を取り次ぐ仲介役、の四点です。漢王朝が郡県制を徹底して封建制を抑えた結果、君主—官僚—郡県という枠組みは整いましたが、広大な領域の末端まで行政力を行き渡らせるには、在地の有力層の協力が不可欠でした。豪族はまさにその空白を埋め、租税や治安の実務に深く関与していきます。

成立背景としては、武帝期の対外遠征と専売・貨幣政策の転換、貨幣経済の浸透、戦乱と流民化、相続による土地の集積、富豪の貸付(高利貸)など、複数の要因が絡み合いました。とりわけ後漢期に進む土地兼併は、自作農の解体と佃戸化を生み、豪族の経営下に編入される層を拡大します。郷里社会では、祠堂祭祀・賑恤(しんじゅつ)・義倉・道路・堤防の修繕など公共的事業を豪族が肩代わりし、その見返りとして威望と発言力を強めました。

経済的基盤と社会的権力――兼併・佃戸・部曲・宗族

豪族の経済基盤は、大土地所有と小作・貸付の複合にありました。佃戸は収穫の一定割合を地代として納め、凶作時にも負担が軽減されにくい仕組みが一般的でした。併せて、豪族は種子・農具・穀物の前貸し(質入れ)を行い、返済不能の場合に田畑・屋敷を取り上げることで土地をさらに集積しました。これにより、土地・信用・司法の三つを握る構造が形成され、在地社会に対する支配力は強固になります。

人的編成では、「部曲」「客」「門生故吏」が重要です。部曲は主人に私的に隷属する従者・兵士で、普請・用水管理・用心棒・ときに戦時の私兵として動員されました。客は出自や境遇を異にする従属的同伴者で、文筆・交渉・護衛などの役割を担います。門生故吏は、官にある人物のもとで学んだり仕えたりした縁によって結集する人的ネットワークで、昇進・赴任・裁判で相互扶助が働き、豪族の政治的影響力の源泉となりました。

宗族(父系血縁集団)の枠組みは、祖先祭祀・祠堂・族譜を中心に強化され、貧しい同族への扶助、婚姻の調整、訴訟の支援、外部勢力との交渉窓口を担います。宗族の長老層が豪族と重なり、村落の意思決定において官よりも実効性を持つ場面も少なくありませんでした。豪族の権力は、暴力や金銭だけでなく、祭祀と規範、互酬の倫理を媒介に「自然化」されていったのです。

政治・行政との関係――郷挙里選と言路、外廷と内廷の角逐

漢代の官吏登用は、武帝期に整えられた郷挙里選が基本です。郡国の豪族・郷紳層は、地元の名望家として「孝廉」「茂才」などの資格で人物を推挙し、中央はそれを受けて官に登用しました。つまり豪族は、才学・品行の評価権を通じて官僚制の入口を握り、中央の政策形成にも間接影響を及ぼします。地方官(太守・県令)にとっても、豪族の協力は治安・租税・土木で不可欠であり、両者の協調・馴合いが行政の実務を支えました。

しかし、この関係は常に円滑とは限りません。豪族が「豪強」として租税を横領し、悪吏と結託して刑罰をねじ曲げ、弱者の訴えを封殺する事例も多く、中央はしばしば弾劾と粛正を試みました。後漢末には、清廉を旨とする「清議」派の士人と、宦官勢力(内廷)との対立が深まり、党錮の禁(166・169年)のように清議の言路が封じられると、豪族—士人—官僚の連関は政治弾圧の対象ともなります。外戚・宦官・豪族の三者は、皇帝権の下で微妙な均衡と対立を繰り返し、国家統治の安定を蝕みました。

後漢後期、州郡の刺史・太守が独自の武力と財源を蓄え、豪族と結ぶことで半自立化する傾向が強まります。豪族は、屯田地の経営、倉廩の私蔵、租税の前貸しなどを通じて軍政の資源供給を担い、緊張が高まると自前の部曲を率いて郡県の政権を左右するようになりました。これがやがて後漢末の群雄割拠(袁紹・袁術・劉表・孫策・曹操など各地の在地豪族・州牧)の土台となります。

危機の噴出――黄巾の乱、国家能力の低下と対抗策

後漢末に爆発した黄巾の乱(184年)の背景には、豪族肥大化と国家能力の劣化があります。豪族による土地兼併が進み、自作農は佃戸化・流民化。租税は豪族の仲介で徴収されるため、国家の取り分は目減りし、軍団と治水への投資は滞ります。飢饉と疫病の流行に対し、豪族は私的救済(賑給)を行いますが、広域災害には対応できず、民衆は太平道・五斗米道など新宗教の救済ネットワークへ流れて武装蜂起に至りました。

これに対して、中央・地方は二つの対策を講じます。一つは屯田制など国家主導の生産再建で、軍屯・民屯により自前の糧秣と屯田兵を確保し、豪族の物資・人員支配を相対化しました。もう一つは、軍事・行政の再編で、州郡の再区画、軍権の集中、俸禄制の見直しが行われます。しかし、既に強大化した豪族—軍閥の自立を完全に抑えることはできず、最終的に漢は崩壊、魏晋南北朝の長期分裂へと向かいます。

「豪族」と「豪強」――法秩序と道徳評価の揺らぎ

史料では、同じ在地有力者でも「豪族」と称されたり「豪強」と糾弾されたりします。一般に「豪族」は在地秩序の担い手としての中立的・肯定的ニュアンスを帯び、「豪強」は法と徳を踏みにじる暴力・不法蓄財のニュアンスが強い語です。もっとも、両者の境界は固定的ではなく、中央の政治情勢・告発者の立場・地域間競合によりレッテルは変動します。豪族研究では、道徳的評価に先立ち、土地所有・貸付・訴訟・宗族・官途のデータに基づいて、在地権力の実像を復元する姿勢が重要です。

魏晋への連続――門閥貴族化と制度への埋め込み

豪族は、漢王朝の崩壊後も地域支配の担い手であり続け、魏の九品中正制の下で門閥貴族へと制度的に組み込まれていきます。九品評定は郷里の名望と家世を尺度に官位の等級を定め、在地の有力家を高位に配する仕組みで、結果的に大姓の世襲的優位を固定化しました。南北朝の士族制度は、漢代豪族の人的・経済的基盤の上に成立したものと見なせます。土地—宗族—学術(家学)—官途の連鎖が閉じ、流動性は低下しますが、同時に在地行政の実務は維持され、国家の骨格はこの層によって支えられました。

具体事例と地域差――関中・河洛・江淮・巴蜀

地域ごとに豪族の性格は異なります。関中では、秦漢以来の旧族と軍屯の系譜が絡み、塩・鉄・馬政と結びついた家が力を持ちました。河洛では、科挙以前ながら経学・学派の拠点が豪族の家塾として機能し、学問と官途を結ぶ文化資本が中心です。江淮では運河・漕運の利権、塩業と市場支配が豪族の財源となり、巴蜀では水利・山間交通・塩井・鉄冶の掌握が決定的でした。いずれも、自然環境と交通・市場が豪族形成の条件を規定した点が共通します。

評価と歴史的意義――国家と社会をつなぐ「必要悪」か、地域の公共圏か

豪族は、中央の視点からは租税と兵役の競合者であり、しばしば取り締まりの対象でした。他方、郷里の視点から見れば、豪族は治安・救恤・訴訟・土木を担う準公共機関でもありました。国家の行政能力が限定的であった古代において、豪族は地域社会の統合と生産維持に実効性を発揮したのです。問題は、その権力が透明な制度へ組み替えられるかどうかでした。漢の段階では、郷挙里選と郡県制の枠内で部分的に統合されるにとどまり、後代の九品中正制で制度化が進みます。

総じて、漢代の豪族は、国家の「外側」にも「内側」にもまたがる存在でした。土地と人を掌握し、郷里の公共性を支えつつ、時に法秩序を侵蝕し、中央政治の力学にも参与します。その二面性を踏まえれば、豪族は帝国統治の摩擦係数であると同時に、社会の粘性でもありました。豪族を手がかりに、国家と地域社会の相互依存と緊張を読み解くことが、漢帝国の実像に迫る近道となるのです。