イギリス重商主義政策 – 世界史用語集

イギリス重商主義政策とは、主に17~18世紀のイングランド/グレートブリテンが採った通商・産業・海運・植民地支配の総合政策を指し、国家の富を貴金属の蓄積や対外収支の黒字、海運・製造業の保護育成に見いだして「国家の法」と「商業の技法」を結びつけた体系をいいます。フランスのコルベール主義が宮廷官僚制と王令中心で進んだのに対し、イギリス型は議会立法と私企業(東西インド会社・アフリカ会社など)を軸に、海軍戦略と植民地法を緊密に接続した点に特色があります。目標は単純に保護主義にとどまらず、帝国域内の分業と航路の統制、海運と保険の育成、財政=軍事国家の基盤整備を通じて、商業・戦争・国家金融を一体化させることでした。

以下では、(1)背景と理念、(2)中核法制と制度設計、(3)帝国貿易の運用と植民地規制、(4)財政・海軍と覇権、(5)七年戦争から自由貿易への転換という順に、用語「イギリス重商主義政策」の内容を整理します。

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背景と理念:海軍国家・議会財政・「商業のための戦争」

イギリス型重商主義の土台には、海に開かれた地理と長い海運の伝統、そして議会を通じた課税と国債の制度化がありました。17世紀半ばの内戦と共和政を経て、国家は関税・物品税・船舶税などの持続的歳入を確保し、常備海軍の維持が可能になります。商業の保護は国防の前提と見なされ、「商業のための戦争・戦争のための商業」という循環論理が政策を貫きました。

思想面では、東インド会社の実務家トマス・マンやジョサイア・チャイルドらが、輸出拡大・輸入代替・航運独占を正当化しました。金銀流出の抑制だけでなく、加工貿易と再輸出で付加価値を稼ぎ、海運と保険でフレートとリスク管理の利潤を国内に留めるという「多段利益」の設計が意識されます。国家は単に関税を上げるだけでなく、船員養成・航路維持・港湾整備といった公共投資を通じて商業国家としての体幹を鍛えました。

イギリス型のもう一つの特徴は、議会立法による「一般化されたルール」で帝国空間を縫い合わせた点です。宮廷令や個別特許に依存し過ぎない仕組みは、商人や船主の予測可能性を高め、契約と保険、市場価格の形成を安定させました。こうして、国家の強制力と市場の自律が相互補完する枠組みが育ちます。

中核法制と制度:航海法体系・会社特許・関税と奨励金

航海法体系(Navigation Acts)は英重商主義の中核です。1651年の初発は共和政下で制定され、1660年に王政復古後の恒久法として再編、1663年のいわゆるステイプル法(植民地向けの欧州製品は一旦イングランドを経由)、1673年のプランテーション税法(植民地での積出に国内並みの徴税と管理)、1696年の再編法(取締・副官裁判所の整備)へと段階的に強化されました。要点は、(1)英領への輸入は原産国船か英船、(2)植民地の「指定積出品(enumerated commodities)」—砂糖・タバコ・インディゴ・後に米・ナバルストアなど—は英本国/英領港のみへ直送、(3)再輸出・中継を英港に集中、という三本柱です。

会社特許と独占では、東インド会社(EIC)、ロイヤル・アフリカ会社、ハドソン湾会社などが王室特許状で貿易独占権を得ました。これらは砦・要塞・現地政権との条約締結力を持ち、国家の外延として機能します。同時に、会社は議会や都市の投資家に株式を販売し、国家財政とも結びつきました。独占の批判と特許の再交渉は絶えず、17世紀末から18世紀には「規制された独占」(議会監督付きの特権)へと進化します。

関税・消費税・奨励金(bounties)は産業誘導の道具でした。原材料の無税・低税輸入と、競合製品への高関税、輸出プレミアムの付与(縫糸・亜麻布・ナバルストアなど)、航用品の国内調達奨励は、国内製造と海軍の自給率を高めました。対して、植民地の製造業には抑制的で、毛織物(1699年ウール法)、帽子(1732年ハット法)、鉄(1750年アイアン法:半製品の自由輸入と製品の抑制)などの制限がかけられました。

植民地関係法として、1733年のモラセス法は仏領西インド諸島産糖蜜への高関税で英領への依存を促し、後に改定されます。港務監督官、関税吏、海軍副官裁判所が取締の担い手で、密貿易・虚偽申告とのいたちごっこが続きました。制度の存在が重要で、完全な取り締まりよりも価格差・経由義務という「重心移動」を狙う設計でした。

取引と金融の制度では、保険市場(ロイズ)、海事法廷、標準化された船荷証券・為替手形、そして1694年のイングランド銀行創設と国債市場の整備が、商業拡張と海軍維持の資金循環を支えました。航海法は海軍の船員養成と造船需要を生み、海軍はまた航路と植民地港を守ることで商業収益を保証する—この循環が制度化されます。

帝国貿易の運用:指定積出品・製造規制・違法貿易・「有益なる怠慢」

帝国の利益設計は、〈本国=製造と金融の中心〉、〈植民地=原料供給と食糧・市場〉、〈海運=英船優先〉という分業に依拠しました。西インドの砂糖・モラセス、北米のタバコ・木材・ナバルストア(ピッチ、タール、マスト材)、南部の米・藍は、指定積出品として本国経由に縛られ、本国の再輸出と加工業を潤しました。見返りに、植民地は本国製の繊維・金属製品・陶器などを優先購入することになります。

製造規制は、植民地の「雇用なき競争」を抑える意図が強く、毛織物や帽子、鉄製品の輸出を制限しました。ただし、規制は全面禁止ではなく、半製品の輸入無税化(バー・アイアンなど)と本国での仕上げを奨励するなど、帝国内分業の微調整が随所に見られます。これは本国の熟練工雇用と都市の賃金基金を守ると同時に、植民地側の需要創出を維持する計算でした。

一方で、帝国の境界は透水性でした。ニューイングランド商人は、仏領カリブと砂糖・モラセスを交換し、ラムをアフリカへ、奴隷を西インドへという三角航路を柔軟に組み替え、関税を回避しました。沿岸の小舟、夜間の荷揚げ、名目上の積替えなど、密貿易は半ば公然の秘密で、地方判事や商人自身が関わることもありました。王立海軍と税関の人手は限られ、完全な遮断は非現実的です。

この現実に合わせた政治的解が「有益なる怠慢(salutary neglect)」でした。18世紀前半、ウォルポールらの政権は、植民地議会の自治と地元エリートの利権をある程度容認し、忠誠と繁栄を優先しました。形式的には航海法体制を維持しつつ、徴税・監督を柔らかく運用することで、帝国全体の商業量を伸ばすという間接的手段が採られたのです。

しかし、七年戦争後には局面が変わります。戦費と防衛費の増大、仏勢力の排除による北米秩序の再設計を背景に、1760年代の砂糖法・印紙法・タウンゼンド諸法など、実効徴税と統制強化が試みられ、植民地社会の抵抗とボイコット運動を誘発しました。ここに至って「怠慢」は「負担」に読み替えられ、帝国の結び目はほつれていきます。

財政=軍事国家と海上覇権:海軍・保険・国債のトライアングル

重商主義政策は単独では機能せず、海軍力・保険・国債市場という三角形に組み込まれてこそ効果を発揮しました。海軍は航路・港湾・船団を守り、私掠を抑止し、戦時には敵国商船の拿捕で経済戦を遂行します。保険市場は戦時保険料の高騰を平準化し、捕獲保険・共同海損のルールが国際的に受容され、商人のリスク計算が可能になりました。国債は長期戦費と造船・砲熕・糧秣の継続的調達を支え、議会の信認を背景に低利での借換えが進みます。

このトライアングルは、英蘭戦争・スペイン継承戦争・七年戦争で試され、帝国商業のネットワークは戦場であると同時に補給線でもありました。海軍への資源配分は陸軍との均衡を左右し、しばしば「ブルーウォーター・ストラテジー」(海上優越戦略)として表現されます。商業と戦争の相互依存は、重商主義の核にあり、海軍が「動く関税壁」として機能した点を見落としてはなりません。

また、通貨・金融面では金銀の絶対蓄積から一歩進み、信用貨幣・手形決済・公債の流通が国家の支払い能力を実質的に拡張しました。これは単なる観念ではなく、造船所・砲術・港湾インフラ・植民地駐屯の現実費用を賄う技術であり、重商主義の「制度技術」面の核心でした。

展開と転換:七年戦争、独立革命、保護から自由貿易へ

七年戦争(1756–63)は、英仏の世界規模の覇権争いであり、重商主義政策の成否が問われた戦争でした。英側は海軍優勢と植民地同盟の動員で仏の海上補給を断ち、北米・インド・西アフリカで勝利を重ねますが、戦費は国債残高を膨張させ、戦後の徴税強化が北米の反発を招きました。アメリカ独立革命は、重商主義的統制と代表なき課税をめぐる対立が爆発した事件として理解されます。

独立後、英帝国は旧植民地との貿易を完全に喪失したわけではなく、むしろ中立・通商協定を通じて関係を再構築しました。19世紀前半には、工業製品の国際競争力と食糧の安価輸入の必要が合致し、1846年の穀物法廃止、1849年の航海法撤廃を通じて、イギリスは自由貿易国家へと転じます。これは重商主義の「反対」ではなく、重商主義が育てた海運・金融・法制度・技術競争力の上に成立した転換であり、政策の最適解が世界市場の成熟に応じて変わったと捉えるべきです。

もっとも、自由貿易化の下でも、帝国条約・最恵国待遇・海軍力・保険・裁判権などの装置は残され、国家が市場に介入しないわけではありませんでした。重商主義の遺産—港湾、標準、金融の基盤—は、形を変えて19世紀の「世界工場」イギリスを支え続けます。

用語上の注意として、「重商主義=保護主義」の単純図式では捉えきれません。英型は議会立法と会社特許、海軍と保険、関税と奨励金、植民地統制と地方自治が絡み合う動的な体系でした。また、「帝国収奪」だけでも、「自由な市場」だけでもなく、両者のはざまで制度と利害を調整した政治の産物であったことを意識すると、史料の読みが安定します。