イギリス帝国会議 – 世界史用語集

イギリス帝国会議(Imperial Conference)は、19世紀末から20世紀前半にかけて大英帝国の本国政府と自治領(ドミニオン)首相・閣僚らがロンドンを主会場に定期・不定期に集まり、帝国の防衛・外交・通商・通信・憲制問題を協議した首脳級会議の総称です。発端は1887年の「植民地会議(Colonial Conference)」で、1907年以後は「帝国会議(Imperial Conference)」の名で呼ばれるようになりました。会議は議会のような立法権や条約締結権をもたず、拘束的決議を発する機関でもありませんでしたが、帝国の運営原理をすり合わせ、ドミニオンを単なる従属植民地ではない「自治の共同体」として位置づける舞台となりました。とりわけ1926年帝国会議の「バルフォア宣言(帝国の憲制に関する声明)」と、1930年帝国会議を経て制定された1931年ウェストミンスター憲章(Statute of Westminster)は、帝国からコモンウェルスへの平等化を法制面で確立する転換点として知られます。

帝国会議の議題は、海軍分担金や艦隊配備、関税・優遇関税(インペリアル・プリファレンス)、無線・海底電線・郵便といった通信網、対外政策・条約手続、移民管理や人種条項、さらにはインド・植民地官治地域の扱いなど多岐にわたりました。第一次世界大戦期には「帝国戦時内閣(Imperial War Cabinet)」や「帝国戦時会議(Imperial War Conference)」という枠組みが併走し、ドミニオン首相の発言権は大きく拡張します。もっとも、インドやクラウン・コロニーの代表性は限定的で、会議の「帝国代表性」には偏りが残りました。以下、成立の背景、主要会議の展開、憲制上の意義、運営と限界を順に整理します。

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成立の背景と性格:帝国連邦論・海軍防衛・通商から「協議の制度化」へ

19世紀後半、鉄道・電信・蒸気船の発達により帝国は物理的に結びつきを強める一方、カナダ連邦(1867)、オーストラリア連邦(1901)、南アフリカ連邦(1910)など、自政府・議会・首相を持つ「自治領(ドミニオン)」が相次いで成立しました。彼らは本国に忠誠を誓いつつも、財政・軍事・通商で固有の利害を抱え、帝国の意思決定に参加する制度を求めます。他方、本国側には、通商・防衛を帝国規模で調整しようとする帝国連邦論(Imperial Federation)の潮流があり、連邦国家化から緩やかな協議体の整備まで、幅広い案が議論されました。

最初の大規模協議は1887年の「植民地会議」で、女王在位50年記念(ゴールデン・ジュビリー)に合わせ、ロンドンに自治植民地の代表が集められました。以降、1897年、1902年と会合が重ねられ、とくに植民地相ジョゼフ・チェンバレン(1895–1903)が帝国防衛の分担や関税同盟を積極的に提唱します。ただし、関税相互優遇や恒常的連邦機関の設置には意見が割れ、自治の幅が広い各地域の事情が調整を難しくしました。1907年の会議は名称を「帝国会議」と改め、参加者も「植民地代表」ではなく「首相・大臣」へと格上げされ、以後はおおむね4〜5年に一度のペースで開催されます。

制度面で重要なのは、帝国会議が政府間の「協議体」に徹したことです。ここでの合意は各政府の同意を前提とする「共同声明」や「報告書」という形を取り、拘束力は各議会・内閣の承認に委ねられました。この柔軟性が、帝国を単一の連邦国家に「一体化」するのではなく、自律的政府の「連合」によって維持するという20世紀型の方向性を準備したのです。

主要会議の展開:1902〜1937年—防衛・外交・憲制の持続的すり合わせ

1902年帝国(植民地)会議は、南アフリカ戦争(ボーア戦争)直後に開催され、帝国防衛と海軍費分担が焦点となりました。自治領は志願兵派遣で帝国戦に関与した経験を持ち、平時の防衛計画や港湾・通信の強化に関与する意欲を示します。一方、チェンバレンの関税同盟構想は、食料価格や工業競争力への懸念から本国で賛否が割れ、直ちには制度化されませんでした。

1907年帝国会議は、名称変更とあわせて「ドミニオン(Dominion)」の呼称が制度的に定着した節目でした。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランド、南アフリカ(当時は統合前の諸植民地)などが、首相級で出席し、通商・移民・通信・防衛の個別テーマで常設委員会的な協議の枠組みが探られます。

1911年帝国会議では、海軍と外務の連携が議題となり、のちに各ドミニオンが「フリート・ユニット(艦隊単位)」として自前の艦隊を整備し本国海軍と連携する考え方が共有されました。対独関係の緊張が高まるなか、外交情報の共有や対外発言の調整も進みます。

第一次大戦期には、通常の帝国会議に加え、1917年にロイド=ジョージの主導で「帝国戦時内閣」が設けられ、カナダのボーデン、南アのスマッツ、オーストラリアのヒューズ、ニュージーランドのマッセイらがロンドンに座し、戦争指導に共同参加しました。1917年「帝国戦時会議」は、戦後の帝国の憲制原則として「自治領は大英帝国の構成国であり、実質的に自律的で、同等の地位を占める」との文言を打ち出し、のちのバルフォア宣言を先取りします。

1923年帝国会議は、対外関係での「協議義務」を確認し、ドミニオンが独自に条約を締結しうる現実(例:カナダの米国とのハリバット漁業条約)を追認する方向へ舵を切りました。ここで、外務の一元化から「共同関心事項は協議、実務は各政府の責任」という原則が鮮明になります。

1926年帝国会議は、いわゆる「バルフォア宣言」を採択し、英本国とドミニオンを「地位において相互に平等であり、いずれも他に従属しない、共通の忠誠(君主)によって結ばれた自治共同体」と定義しました。これは法技術的に、王冠(Crown)が一つであっても各国の政府に対して「それぞれの国の王冠」が責任を負うという、のちに「分有された王冠(the Crown in right of X)」と呼ばれる観念を準備するものでした。

1930年帝国会議は、1926年の原則を法制化する具体作業(ドミニオンの立法が英議会法に拘束されないこと、同意なき英法の延長を停止すること等)を詰め、これを受けて1931年ウェストミンスター憲章が制定されます。これにより、カナダ、南ア、アイルランド自由国、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランドは、英本国と同等の立法主権を持つ「主権的コモンウェルス国家」としての地位を得ました(各国での受入・発効時期には差があります)。

1937年帝国会議は、王位継承(エドワード8世退位後の秩序調整)や外交・防衛の再調整を扱いつつ、欧州危機の陰で開催された最後の「帝国会議」となりました。第二次大戦期には会議は首脳級の戦時協議や個別同盟へと分散し、戦後は「コモンウェルス首相会議(Commonwealth Prime Ministers’ Conference)」へと衣替えして継承されます。

憲制上の意義と連鎖:自治領の平等化、王冠の分有、コモンウェルスへの橋渡し

帝国会議の最大の遺産は、帝国運営の原理を「階層的支配」から「平等な協議」へと転換し、その原理を法制化したことにあります。1926年のバルフォア宣言は、英本国の内閣が帝国全体に対して「上位政府」として振る舞う余地を否定し、各ドミニオンの内閣が君主に対してそれぞれ独自に助言する(advice)対象であることを明瞭化しました。1931年ウェストミンスター憲章はこれを具体法に落とし込み、(1)英議会は各ドミニオンの要請と同意なしに当該国に適用される法律を制定しない、(2)英法の域外延長には当該国の同意を要する、(3)王冠に関する事項(王位継承など)は共通関心だが、各国議会の同調が必要—といった枠組みを整えました。

この結果、国際法上は依然として「大英帝国」の名が残る時期であっても、実務ではカナダ・南ア・アイルランド自由国などが独自の外交・条約・内政を進め、イギリスは「最初 among equals」としての象徴的位置に退きます。王冠の分有という観念は、のちに「カナダの君主(King of Canada)」「オーストラリアの君主」など、同一人物が複数の王冠を帯びるというコンセプトへ発展し、現在のコモンウェルス王国に受け継がれました。

経済面では、帝国会議で合意に至らなかった「包括的関税同盟」は、1932年のオタワ帝国経済会議(Imperial Economic Conference, Ottawa)で優遇関税の相互付与(帝国特恵)として制度化されます。これは厳密には「帝国会議」とは別枠の経済会議ですが、帝国会議での多年の通商協議が下地となりました。通信では、帝国無線網(Imperial Wireless Chain)や海底電線、郵便料金の一元化など、技術・料金の統一に関する合意形成が図られ、帝国内の情報流通を促進しました。

安全保障では、海軍力の配分、基地港の整備、共同行動の原則確認(ただし法的義務化は回避)が積み重なり、平時には情報共有、危機時には迅速な政治協議が可能な人的ネットワークが形成されました。第一次大戦・第二次大戦を通して、こうしたネットワークが戦時意思決定の基盤となったことは、帝国会議の「目に見えにくい成果」と言えます。

参加・運営・限界:誰が出席し、何ができ、何ができなかったか

参加者は原則として、英本国首相・外相・植民地相と、ドミニオンの首相・外相・防相などでした。インドは長く英国のインド相(Secretary of State for India)やインド庁官僚により代表され、現地の自代表は限定的でした。クラウン・コロニー(官治植民地)や保護領の多くは直接参加せず、帝国会議の議論は主として「自治領と本国」の二者関係に偏りがちでした。このため、アジア・アフリカの植民地社会の声が制度的に反映されにくいという限界があり、帝国会議が生んだ「平等」はドミニオン(白人定住植民地)中心であった点には注意が必要です。

運営上、議題はあらかじめ各政府間で調整され、会期中は全体会合と分科協議、共同声明案の起草が並行して進みました。決定はあくまで「合意の確認」であり、対外拘束力を持つ条約や法は各国の憲政手続に委ねられます。この非拘束性は、柔軟さの代償として、通商の深掘りや防衛義務の明確化を先送りにする効果も持ちました。関税同盟化や移民に関する厳格な共通ルールは合意に至らず、各国の国内事情—産業保護、労働市場、人種政策—がしばしば優先されたのです。

用語上の注意として、「帝国会議」は狭義には1907年以後の名称であり、それ以前は「植民地会議」と呼ばれます。また、1917年の「帝国戦時内閣/戦時会議」、1932年の「オタワ帝国経済会議」は近接の別枠会議です。戦後の「コモンウェルス首相会議(のちのCommonwealth Heads of Government Meeting)」は、帝国会議の「政府首脳による協議体」という性格を引き継ぎつつ、加盟国の多様化と対等性を強めた枠組みで、1965年以降はコモンウェルス事務局が支える常設の制度へと移行しました。

総じてイギリス帝国会議は、帝国を「単一の国家」に統合する発想ではなく、自治政府の連合として運営するための政治技法—首脳協議・共同声明・各国法制の調整—を磨いた場でした。そこでは、忠誠の象徴としての君主は共有しつつ、政府は並列でありうるという新しい原理が時間をかけて定着し、帝国からコモンウェルスへの橋が架けられたのです。