抗租運動(こうそうんどう)は、地主に支払う小作料(地代)や家賃の引き下げ、契約条件の改善、あるいは租税・賦役の軽減を求めて、借地農民・小作人・都市の借家人が共同して行った抵抗・交渉・争議の総称です。狭義には農村の小作争議を指す場合が多く、広義には都市の家賃引き下げ運動(抗租)や利子率引き下げ運動(減息)を含めて語られます。東アジアでは、清末・民国期の中国、植民地期の朝鮮・台湾、日本本土の小作争議など、19世紀末から1930年代にかけて各地で高揚し、農地制度・小作慣行・家主—店子関係の見直しを促しました。本項では、発生の背景、主な展開(地域別の特徴)、運動の方法と組織、法制度・社会への影響を整理して解説します。
背景――高率小作料・寄生地主制・価格変動がもたらす圧力
抗租運動の起点には、構造的な負担の過重があります。第一に、小作料の高率固定です。米や綿などの商品作物の価格が変動しても、慣行的に定められた取り分(たとえば折半や六四、七三など)は容易に動かず、天候不順・不作期にも現物納が求められました。第二に、寄生地主制と小作地の細分化です。都市居住の地主や大地主家が多数の小作戸から地代を徴収し、灌漑・肥料・改良などの投資は十分になされませんでした。第三に、負債と高利です。種籾・肥料・租税の前納を高利貸しに頼る構図が広がり、凶作時や物価高騰時に利子が雪だるま式に膨らみました。
さらに、近代国家や植民地権力が導入した土地調査・課税の近代化は、名目上は権利関係の明確化を狙いつつ、実際には小作側に不利に働くことが少なくありませんでした。検地・地籍整備で名義が地主側に集中し、口約束や慣行に基づく耕作権が軽視されると、立退きや取り上げが増加します。市場統合と輸送の発達は、米価や綿価の世界的変動を直撃として農家に伝え、1920年代のインフレ・デフレの波が収入を揺さぶりました。こうした複合要因が、抗租という集団的な交渉・拒絶の技法を生みます。
展開(地域別)――中国・朝鮮・台湾と日本本土の比較
中国(清末〜民国)では、19世紀末から各地で抗租・減息が頻発しました。租税の追徴や塩・雑税の増徴に対する抗税と並び、地主への地代減免要求や高利貸しの利率引き下げ要求が農村の主要な争点となります。1920年代の国民革命期には、湖南・湖北・江西などで農民協会が組織され、地代の標準化(折半以下への引下げ)、年貢・附加の廃止、耕作権の保障などを掲げました。地域によっては、紛争調停・団体契約・土地委員会の設置が試みられ、交渉が制度化される芽も生まれます。一方、都市部では家賃高騰に対する借家人の抗租が起き、家主に対する集団不払い・値下げ要求・差押への抗議などが展開されました。
朝鮮(植民地期)では、1920年代に小作争議が急増しました。米価の高騰と下落、凶作、輸出主導の農政、地主制の強化が背景にあり、小作料の引下げ(折半・六四からの減歩)、肥料代・用水費の按分、収穫皆無時の小作料免除、契約書面化などが主な要求でした。争議は、耕作放棄・共同収穫拒否・嘆願・示威・法廷闘争を組み合わせ、地方の有力者・宗族との交渉も絡みました。行政は、一方で警察力で取り締まりつつ、他方で調停制度や契約標準の策定に動き、のちの法整備につながる枠組みが整えられました。
台湾(植民地期)でも、土地調査・地籍整備ののち、小作関係の明確化が進む一方で小作側の交渉力が弱く、1920年代に抗租・小作争議が頻発します。地方の名家・大地主と小作人の対立は、灌漑・用水の管理、賦課の按分、米の現物納の比率をめぐって顕在化しました。台湾では農民組織や文化協会系の活動家が、共同交渉・団体契約・調停申請を戦術として用い、一定の地域で地代引き下げや慣行の明文化に成功しました。官側は調停・仲裁の制度を整備して争議の行政処理を図る一方、政治運動化を警戒して弾圧も行いました。
日本本土でも大正期を中心に小作争議が各地で高揚し、地代引下げ・小作権保護・契約の書面化を求める動きが広がりました。農会・青年団・労働農民党系の支援や、社会運動弁護士の関与が進み、調停法制の整備とあいまって争議の制度的処理が一般化していきます。これらは東アジア各地の抗租運動と同時代的に呼応し、相互に情報と経験を共有しました。
方法と組織――不払い・共同交渉・法廷闘争・調停の四本柱
抗租運動の戦術は、概ね四本柱にまとめられます。第一に不払い(ボイコット)です。収穫時の地代現物を共同で供出しない、家賃を集団で留保する、納期限に一致して保留するなど、一斉行動で交渉のテコを作ります。第二に共同交渉です。村落・町内で抗租同盟・農民協会・借家人組合を組織し、代表を立て、要求条項を定式化して地主・家主に提示します。第三に法廷闘争です。契約の有効性、追い立て・差押の違法性、慣行の確認などを争点に訴訟を提起し、法の言葉に乗せて争議を可視化します。第四に調停・仲裁です。行政・民間の調停機関に申請し、地代標準・分担の基準・耕作権保護などの合意形成を図ります。これらに、デモ・嘆願・世論戦が付随し、都市の新聞・雑誌・演説会が世論を動員しました。
組織面では、宗族・郷紳・寺社・講組などの伝統的ネットワークと、近代的な社団(農民協会・労農組合・文化団体)が重なり合いました。識字と訴訟技術に通じた知識人・弁護士・学生が仲介役となり、条文化(条項化)された要求が各地で共有されていきます。女性・労働移民・小作兼業者の参加も無視できず、生活全体の再分配をめぐる運動として広がりました。
影響と評価――契約の近代化、調停制度の整備、農政・都市政策への射程
抗租運動は、すべてが勝利したわけではありませんが、複数の重要な変化を促しました。第一に契約関係の近代化です。口約束や慣行に頼っていた小作・賃貸借を、書面契約・標準条項へと移行させ、地代率、費用負担、免除条件、更新・解約のルールが明文化されました。第二に調停・仲裁制度の整備です。行政による争議処理機関、民間の調停会、土地・家屋委員会などが整備され、紛争の暴力化をある程度抑える枠組みが生まれました。第三に農政・都市政策への反映です。用水路の共同管理、肥料・種籾の共同購入、農会の金融機能(信用組合)など、生産基盤の共同化が進み、長期的には小作関係の縮小や自作農育成、宅地供給の拡大、家賃統制といった政策の基礎が形成されました。
他方で、抗租運動は分断や弾圧にも直面しました。地主・家主側の黒白名簿化、雇用・融資の締め付け、警察・軍の動員による鎮圧、指導者の検挙は各地で繰り返され、地域社会の対立は長く尾を引きました。政治運動との接続は、運動に広がりを与える一方、権力側の弾圧を激化させる要因にもなりました。さらに、世界恐慌期の価格暴落や戦時動員は、地代引下げの成果を帳消しにする圧力として働きました。
それでも、抗租運動が残したものは小さくありません。弱い立場の借り手が、集団と制度を武器に交渉力を獲得するという技法は、その後の農地改革・都市住宅政策・労働運動に継承されます。今日の視点から見れば、住まいと土地が単なる私的な契約対象ではなく、生活権・生存権の基盤であるという認識を、草の根の実践が早くから示していたことに意味があります。
総じて、抗租運動は、価格・契約・権利の非対称に対する歴史的な応答でした。高率地代・不透明な慣行・強い貸し手という三重の不均衡に対し、借り手側は不払い・共同交渉・法廷・調停という四つの回路で挑み、部分的ながら秩序の再設計を勝ち取りました。地域差と時代差を踏まえれば、抗租は単独の事件ではなく、近代東アジアの社会契約を書き換える連鎖だったと位置づけることができます。

