ジハード(jihād)とは、アラビア語の語根 j-h-d(努力する・力を尽くす)に由来し、本来は「神への道のための最善の努力」を意味します。宗教的には信仰を守り高めるための内面的な自己修養から、共同体を防衛するための武力行使まで、多層の意味領域を持つ言葉です。日本語ではしばしば「聖戦」と訳されますが、これは歴史的な一側面に過ぎず、祈り・学び・慈善・社会改革など非暴力の実践も広く含まれるのが原義です。現代では政治的スローガンとしても用いられ、過激派がテロ行為を正当化する歪曲用法が国際的に問題となっていますが、それはイスラーム法学や古典的倫理に必ずしも合致しないことに注意が必要です。
本項では、(1)定義と語源、内的ジハードと外的ジハードの区別、(2)イスラーム史における展開と地域差、(3)法学(フィクフ)・倫理・戦闘規範の枠組み、(4)近現代の多義化とメディア言説・誤用の整理、という観点から、用語の幅と歴史的文脈を分かりやすく解説します。単純化を避け、宗教・社会・国際法の接点を見渡すことで、言葉が置かれてきた現実の幅をつかみます。
定義と語源:内的ジハードと外的ジハード
ジハードは広義に「神の御心にかない、善を勧め悪を禁じる(アムル・ビルマアルーフ、ナヒ・アニルムンカル)ための努力」を指します。これには信仰者の内面で行われる自己抑制・欲望との闘い・徳の涵養といった非暴力的な営みが含まれます。しばしば「大いなるジハード(al-jihād al-akbar)」という表現で内的修養を称える伝承が知られますが、文献学的にこの表現の出典には議論があるものの、自己規律・修養を尊ぶ倫理は古くから重視されてきました。
他方、狭義の「外的ジハード(al-jihād al-asghar)」は、共同体(ウンマ)を守るための武力の行使を含みます。ただし、これは無差別な暴力の許可を意味せず、イスラーム法学の長い議論のもとで、宣戦の理由、戦闘の対象、方法の制限、停戦の条件、捕虜・民間人の取り扱いなど、厳格な規範の枠に置かれます。クルアーンには、迫害される信者の防衛や宗教の自由を守るための戦いへの言及があり、また同時に、和解や約定の尊重、過度の報復の禁止、無辜の生命の尊重に関する句も反復されます。
ジハードは、祈り(サラート)や喜捨(ザカート)、断食(サウム)、巡礼(ハッジ)といった義務と対立するものではなく、むしろそれらの履行を支える「努力」の原理です。学問の追求、家族・隣人への責任、貧者の救済、正義のための言論も、古典解釈ではジハードの一形態として理解され得ます。したがって、単なる軍事概念に還元するのは不十分です。
翻訳上の問題として、「聖戦」という日本語は、キリスト教史のcrusade(十字軍)に付随する観念を連想させますが、ジハードは敵味方の宗教的属性そのものを基準にした殲滅戦を原理化する語ではありません。イスラームの伝統では、同盟・講和・保護(ズィンマ)など多様な関係が体系化され、単線的な宗教戦争の観念とは区別されます。
歴史的展開:初期共同体から帝国期、近世、植民地期へ
ムハンマド期(7世紀前半)、ムスリム共同体はメッカで迫害を受け、メディナ移住後に防衛戦を余儀なくされました。バドルやウフドの戦い、連合軍の攻囲などでの武力行使は、防衛と条約遵守の観念に基づき、同時に内部秩序の維持(争いの仲裁、部族間の契約)とも結びついていました。この時期の言説は、圧迫に対する抵抗と和解のバランス、約定の遵守を重んじる点に特徴があります。
正統カリフ時代からウマイヤ朝・アッバース朝にかけて、イスラーム世界の政治的拡大が進むと、ジハードは国家の軍事行動・辺境防衛(ribāṭ=国境守備)・海上警備と結びつきました。辺境の砦や隊商路の安全確保は、宗教的義務の遂行と同時に、市場経済・通商の保護という実利と不可分でした。ムスリム政権は、異教徒を被保護民(ズィンミー)として課税と引き換えに信仰・身分・財産の保護を約する枠組みを用い、必ずしも改宗を強制しませんでした。
中世以降、セルジューク朝・アイユーブ朝・マムルーク朝・オスマン帝国などの各政権は、対十字軍や対モンゴル、対サファヴィー、対ハプスブルクなど具体の脅威に対抗する文脈でジハードを布告し、民衆動員や財政措置(ワクフの活用、臨時課税)と連動させました。オスマンでは帝国イデオロギーの一部として用語が整えられつつ、外交上の講和・同盟も柔軟に運用され、現実政治の妥協と倫理の緊張が共存していました。
南アジアや東南アジアでは、ムガル帝国やスルタン国の文脈で、ジハードは反乱鎮圧や辺境経営、海賊対策といった治安の言語にもなりました。インド洋世界では、貿易の安全・航路の掌握が宗教・政治・経済を横断する課題であり、法学者は戦闘規範と商業倫理を併せて論じました。
近世から近代、ヨーロッパの帝国主義的進出と植民地化の過程では、ジハードは反植民地抵抗のスローガンとして再解釈される場面が多く見られます。北アフリカのスーフィー教団が主導する抵抗運動、西アフリカのジハード国家形成、コーカサスや中アジアでの武装抵抗などがその例です。ここでは、宗教的動員と民族・地域の自立志向、社会改革のアジェンダが複合して表れました。
20世紀以降のナショナリズムやイスラーム主義の高まりのなかで、ジハードは国家の独立運動、社会正義の要求、反占領の抵抗において、平和的・暴力的双方の手段をめぐる論争の中心語となりました。国家主権・国際法・人権の言語と、宗教倫理の言語が交差し、ときに緊張・混乱を生みます。
法学・倫理・戦闘規範:条件・限界・公共善
イスラーム法学(フィクフ)は、ジハードを個人義務(ファルド・アイン)と集団義務(ファルド・キファーヤ)に区別して論じます。一般に、共同体全体として遂行されれば個々人の義務が解除される「集団義務」とされ、国家の指導者や正当な権威のもとで秩序だった形で行われるべきだと整理されました。自発的・私的な暴力は逸脱と見なされ、掟に従わない者は処罰対象となります。
宣戦の正当化事由については、防衛(侵略への対処、聖域・礼拝の自由の保護)、条約違反・攻撃への応答が重視されます。攻勢的拡大をめぐる古典的議論もありますが、歴史的現実の運用は多様で、講和・休戦条約・同盟・通商条約の締結は広く実践されました。現代の法学者の多くは、国際法の枠組み—国家主権の尊重、戦争犯罪の禁止、テロの不法性—との整合を重視し、ジハード概念の再解釈を進めています。
戦闘規範では、民間人(女子供・老人・修道者・農民)の殺傷禁止、作物・家畜・井戸・宗教施設の破壊禁止、裏切りや死体損壊の禁止、捕虜の適正待遇と釈放・身代金・交換の選択、約束の遵守などが古典的に説かれます。これらは「戦わない者を守る」「過度の破壊を慎む」という倫理を表し、今日の国際人道法と相通じる部分が少なくありません。
ズィンマ(被保護民)や安全保証(アマーン)に関する制度は、宗教的多数派と少数派の共存を法的に調整する仕組みでした。課税(ジズヤ)や兵役免除と引き換えに、生命・財産・信仰の自由を保護するという構図は、現代の市民権概念とは異なるものの、同時代の他地域と比べた際の共存の枠組みとして理解されます。
非暴力のジハードについては、支配者への「真実の言葉」を述べる勇気、腐敗を糺す市民的実践、教育・学問・慈善の奨励などが、説教集や法学書に繰り返し現れます。スーフィーの伝統では、心の浄化、自己中心性との闘い、社会奉仕が「大いなる努力」として強調され、共同体の倫理資本を養う営みこそがジハードの中心だと説かれました。
近現代の多義化と誤用の整理:テロとの区別、翻訳とメディア
現代の言説空間では、「ジハード=テロ」という短絡化が広く流布しました。しかし、古典的規範の観点からは、民間人無差別攻撃、自爆による集団殺害、捕虜虐待、約定破りは明確に禁じられます。非国家主体が宗教語彙を用いても、その行為が法と倫理の枠から外れる限り、ジハードとはみなされません。多くの法学者・宗教指導者は、テロ行為の否認と、社会改革や貧困軽減、教育・医療といった平和的「努力」をジハードの名で再定義する試みを続けています。
また、植民地時代の反乱、民族解放運動、現代の抵抗の言語としてのジハードは、国際法(自決権、占領地住民の権利)との接点で評価が分かれます。国家の自衛権と住民の抵抗権、武力と非暴力の境界、正当防衛の範囲と比例性、停戦監視や和平合意の履行など、具体的事例ごとに慎重な分析が必要です。用語の宗教性が議論を感情化させるため、法的・事実的論点と宗教的レトリックを切り分ける姿勢が重要です。
翻訳とメディア表象の問題も看過できません。欧語の「holy war」を機械的に日本語へ「聖戦」と移し、そのままジハードに当てはめると、歴史的ニュアンスが欠落します。報道や娯楽作品では、暴力的場面だけが強調され、祈り・学び・慈善・自己規律といった非暴力の側面が影に隠れがちです。教育や解説では、語源・文献・法学・歴史社会の文脈を示し、多義性をそのまま伝える工夫が求められます。
誤解の整理として、第一に「ジハード=侵略戦争」という決めつけは不正確です。防衛的性格や条約遵守、民間人保護の規範が古典から存在します。第二に「ジハード=ムスリム対非ムスリムの宗教戦争」という理解も単純化です。歴史上、ムスリム同士の内戦においても、秩序回復の「努力」という意味で語が用いられ、また非ムスリムとの同盟・講和は一般的でした。第三に「ジハード=暴力」という等置も誤りです。内面的修養・社会奉仕・知の追求はジハードの中心的領域の一つです。
総じて、ジハードは「神の御心に適う正しさを社会に実装するための努力」という広い枠を持ち、歴史の中で軍事・政治・経済・文化・倫理の場面に姿を変えて現れてきました。現代においてこの語を理解するには、宗教内部の多様な声に耳を傾けるとともに、国際法・人権・市民社会の普遍的規範と照らし合わせ、暴力の正当化に用いられないよう概念の再確認を続けることが重要です。

