イーデン(Anthony Eden, 1897–1977)は、20世紀前半から中葉にかけてのイギリスを代表する外交政治家で、外相として二度、首相として一度政権の中枢を担った人物です。若くして国際連盟外交の最前線に立ち、第二次世界大戦ではチャーチルの右腕として対独戦と同盟外交を支えました。戦後は再び外相として西欧再編や冷戦下の枠組み作り(西欧同盟、ドイツ再軍備受け入れ、インドシナ停戦など)に関与し、1955年には首相に就任します。しかし、1956年のスエズ危機でフランス・イスラエルと共に軍事介入を選択し、米国・国連の強い反発と金融危機に直面して撤兵、翌1957年に退陣しました。イーデンは「宥和に批判的な国際主義者」と「帝国的利害を守ろうとした現実主義者」という二面を併せ持ち、その栄光と挫折は、イギリスが帝国から中堅国へ転じていく転換期の葛藤を映し出しています。
以下では、(1)生い立ちと国際連盟期の台頭、(2)第二次世界大戦と戦後外交、(3)首相期とスエズ危機、(4)評価と論点の四つの観点から、イーデンの軌跡とその歴史的文脈を具体的に整理します。
生い立ちと台頭――国際連盟の舞台から「反宥和」の象徴へ
イーデンは1897年、イングランド北部ダーラム州ウィンドルストン・ホールの地主家庭に生まれました。名門イートン校からオックスフォード大学(クライスト・チャーチ)に進む前に第一次世界大戦が勃発し、キングズ・ロイヤル・ライフル連隊の士官として西部戦線に従軍して武功を挙げ、軍功十字章(MC)を受けました。戦場で語学の重要性を痛感した彼はフランス語・ドイツ語に堪能で、のちにペルシア語やアラビア語の教養も買われます。
1923年に保守党から下院議員に初当選し、アースティン・チェンバレン外相の秘書役を経て、1931年には外務次官、1934年には「国際連盟担当相(ロード・プリヴィ・シール兼任)」となりました。若きイーデンは、連盟の場で多国間協調と集団安全保障を訴える「新しいタイプの保守政治家」として国際的に名が知られるようになります。1935年末に外相に昇格すると、イタリアのエチオピア侵略に対して経済制裁を主導しました。彼はヒトラー・ムッソリーニへ譲歩を重ねる宥和政策に懐疑的で、ホア・ラヴァル案(対伊妥協)が露見して撤回された後も、一貫して独伊の拡張主義を抑止すべきだと主張しました。
もっとも、宥和を国是とするネヴィル・チェンバレン首相の下では、イーデンの路線は次第に後景へ退きます。1938年2月、イタリアへの広範な譲歩と独自外交の推進に反発して外相を辞任し、「勇気ある辞任」として国内外の注目を集めました。この辞任は、のちに彼が「反宥和の象徴」とみなされる背景となります。
戦時と戦後の外相――チャーチルの片腕から西欧再編の現場へ
第二次世界大戦の勃発後、イーデンは1940年に陸軍大臣(戦相)として戦時内閣に復帰し、同年末には外相に再登板します(〜1945年)。チャーチルの信任厚く、米英関係の強化、ソ連との協調、連合国体制の構築に奔走しました。戦時会談(カサブランカ、テヘラン、ヤルタ)に随行・関与し、フランスや亡命政権との関係調整、ヨーロッパ秩序の見取り図づくりに深く関わります。イーデンは「戦時の国際主義者」であり、国連創設の議論にも参加しましたが、同時に大英帝国の利害を意識する古典的保守の側面も抱えていました。
戦後の総選挙で保守党は敗北し、イーデンは野党の重鎮として再編を待ちます。1951年の保守党政権復帰で外相に返り咲き、副首相も兼務しました(〜1955年)。この時期、彼は西欧の安全保障とドイツ問題の整理に大きく関与します。1954年のパリ協定で西ドイツの主権回復とNATO加盟を受け入れ、西欧同盟(WEU)という防衛枠組みの再構築を後押ししました。また、1954年のジュネーヴ会議では第一次インドシナ戦争の停戦とベトナムの暫定的南北分割を受容する現実的路線を取りました。中東では英軍のスエズ基地撤収(1954年協定)をまとめつつ、ソ連の影響拡大と民族主義の高まりに対抗する「バグダード条約機構(後のCENTO)」の形成を支援しました。
イラン問題では、英領益の大きかったアングロ・イラニアン石油会社の国有化(モサッデク政権、1951年)に対し強硬姿勢をとり、1953年の政変(英米情報機関の関与で知られる)をめぐる英国側の対応にも深くかかわりました。彼の外交は、戦後国際主義と帝国利害の維持という二つの目標の間で絶えずバランスを探るもので、その緊張が後の首相期に噴出します。
首相イーデンとスエズ危機――秘密合意、武力介入、撤兵と退陣
1955年4月、チャーチルの引退によりイーデンが首相に就任しました。戦時・戦後を通じて外相としての実績を重ね、満を持しての登板でしたが、在任はわずか約20か月で終わります。決定的な転機は、1956年7月、ナセル政権のスエズ運河国有化です。イーデンはナセルを「第二のヒトラー」と見なし、封じ込めと体面の維持を最優先に構えました。フランスとイスラエルも各自の安全保障上の理由から強硬で、10月末、三者はセーヴルの秘密合意で共同行動を取り決めます。筋立てはこうでした——イスラエルがシナイへ進攻し、英仏が「停戦の名目」で運河地帯へ出動し、エジプト軍を排除して運河を「国際管理」する。
作戦(英名「マスキテア」)は軍事的には実施されましたが、国際政治上の計算は大きく外れました。アメリカのアイゼンハワー政権は、選挙戦の最中であることに加え、中東での反西側感情の激化とソ連の干渉を警戒し、英仏の単独行動に強く反対しました。国連総会は停戦を要請し、米国は国庫券売り圧力など金融面でもロンドンを追い詰めます。英国内でも野党・世論の反発が広がり、英連邦諸国の支持も割れました。イーデン内閣はわずか数日で停戦・撤兵へと追い込まれ、作戦目的は頓挫します。
この過程で、政府が事前の秘密合意の存在を否認・隠蔽しようとしたこと、国会と同盟国への説明責任を軽視したことは、イーデンの政治的信頼を大きく損ないました。彼自身、胆管手術後の体調不良や薬剤使用の問題を抱えており、危機対応の判断に影を落としたとも言われます。1957年1月、イーデンは健康上の理由を前面に出して辞任し、後継には財務相のハロルド・マクミランが就きました。スエズ危機は、イギリスが帝国的軍事力だけでは国際秩序を動かせないことを露呈し、米国との同盟調整と国際協調の重要性を突きつける事件となりました。
評価と論点――「反宥和の理想」と「帝国の現実」のねじれ
イーデンの長い政治人生は、しばしば二つの像に引き裂かれて語られます。第一は、1930年代に宥和政策へ批判を投げかけ、戦時にはチャーチルの忠実な外相として独裁に対抗した「国際協調の理想主義者」という像です。彼は連盟の舞台で協調外交を学び、戦後も西欧の集団安全保障や国連の枠内で問題を処理しようと努めました。第二は、帝国的利害と地位の維持に固執し、中東での主導権喪失に強い危機感を抱いて強硬手段に訴えた「旧来型の帝国現実主義者」という像です。スエズでの秘密合意と武力行使、米国とのすれ違いは、その負の側面を凝縮しています。
近年の研究は、イーデンの判断を単純な道徳的失敗として片付けるより、1950年代の国際環境——反植民地主義の高まり、冷戦構造、核抑止の出現、国際経済の相互依存——の中で英仏が直面した戦略的錯覚を検討する方向に進んでいます。彼は米国との同盟を重視しつつも、米国が必ずしも欧州植民帝国の利害を肩代わりしない現実を読み切れず、「ナセル=ヒトラー」という歴史連想に頼って過剰な脅威認識を抱いた節がありました。逆に言えば、スエズ危機は、英外交の基準点が帝国から大西洋同盟・欧州協力へと収斂していく転換点を早撮りした事件でもあります。
イーデンは退任後、回顧録を著し、上院議員(アヴォン伯)として文化活動や大学に関わりました。私生活では、女優出身のクラリッサ・チャーチル(チャーチルの姪、後の作家クラリッサ・イーデン)との再婚も話題となりました。1977年に死去。彼に対する評価は、スエズ危機の失敗が大きな影を落としつつも、戦時・戦後の外相としての手腕、言語運用能力、交渉術を高く評価する見方も根強いです。イーデンを理解する鍵は、理想と現実、同盟と自主、帝国の記憶とポスト帝国の戦略という四つの軸の交差点に、彼の選択が置かれていたことを丁寧に読み解く点にあります。

