アケメネス朝 – 世界史用語集

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成立の背景とキュロス2世

アケメネス朝(Achaemenid Empire, 前550年~前330年)は、古代ペルシアにおいて成立した大帝国で、イラン高原を基盤としながら広大な領土を支配しました。王朝名は伝説的祖先アケメネスに由来します。アケメネス朝の実質的な建国者はキュロス2世(キュロス大王)であり、彼はメディア王国を滅ぼして前550年に王朝を樹立しました。

キュロス2世はその後、リディア王国や新バビロニアを征服し、西アジアから小アジア、さらには中央アジアにまで勢力を拡大しました。特にバビロン征服(前539年)は歴史的に有名で、ユダヤ人捕囚を解放したことから「寛容な王」として記憶されました。彼の死後もアケメネス朝は拡張を続け、古代世界最大級の帝国へと発展しました。

ダレイオス1世と帝国の最盛期

キュロス2世の後継者カンビュセス2世はエジプトを征服し、アケメネス朝の領域をナイル川流域まで拡大しました。その後、ダレイオス1世(在位前522~前486年)の時代に帝国は最盛期を迎えました。彼は行政改革と統治体制の整備に努め、巨大帝国を安定的に運営する基盤を築きました。

ダレイオス1世は広大な領土をサトラップ(総督)が治める州に分割し、中央から監視する「王の目・王の耳」を配置しました。また、王の道と呼ばれる幹線道路網を整備し、交易や軍事移動を円滑化しました。経済面では貨幣経済を推進し、金貨ダレイコスや銀貨シグロスを発行して国際的な商業活動を促進しました。

彼の時代にはまた、都スサやペルセポリスの壮麗な建築事業も行われ、アケメネス朝の栄華を象徴しました。

宗教と文化

アケメネス朝の主要な宗教はゾロアスター教であり、善悪二元論に基づく教えは後の西アジアやヨーロッパの宗教思想にも影響を与えました。しかし、アケメネス朝は支配下の多様な民族・宗教を尊重し、寛容な政策をとったことでも知られています。各民族の信仰や慣習を尊重しつつ、王権を「世界秩序(アシャ)」の守護者として位置づけることで正統性を維持しました。

文化的には、メソポタミア・エジプト・小アジア・イランなど多様な伝統が融合し、独特の「ペルシア風」の宮廷文化が形成されました。ペルセポリスの宮殿群に見られる浮彫は、その象徴的遺産として今日まで残されています。

ギリシアとの対立と衰退

ダレイオス1世の治世後半から、アケメネス朝はギリシア世界と対立するようになります。イオニア地方のギリシア人都市が反乱を起こすと、これを鎮圧したペルシアはギリシア本土へ進出しました。これが「ペルシア戦争」(前499~前449年)の発端です。

ダレイオス1世とその後継者クセルクセス1世は大規模遠征を行いましたが、マラトンの戦いやサラミスの海戦などでギリシア連合軍に敗れました。以後、アケメネス朝は地中海世界における影響力を限定的にしか及ぼせなくなります。

その後もアケメネス朝は広大な帝国を維持しましたが、各地で反乱や王位継承争いが相次ぎ、中央集権が弱体化しました。前4世紀にはギリシアで台頭したマケドニア王国のアレクサンドロス大王の侵攻を受け、前330年に最後の王ダレイオス3世が敗北・死去し、アケメネス朝は滅亡しました。

歴史的意義

アケメネス朝は、古代オリエント世界を統合した最初の「世界帝国」として重要な意義を持ちます。行政制度や交通網、貨幣制度などは後世の大帝国に大きな影響を与えました。また、宗教的寛容政策や多民族統治の方法は、後のイスラーム帝国やオスマン帝国に受け継がれる要素となりました。

その支配はわずか200年余りでしたが、アケメネス朝は古代世界の秩序を形作り、政治・文化・宗教の各面で人類史に深い痕跡を残した王朝であったといえるでしょう。