核実験(核保有)(中国) – 世界史用語集

中国の核実験と核保有とは、冷戦期の安全保障上の脅威と大国としての自立志向のなかで、核兵器を「最後の保険」として整備し、その後も抑止力として維持・近代化してきた歩みを指します。1950年代にソ連の技術援助を受けつつ出発し、中ソ対立で援助が打ち切られると独自開発に切り替え、1964年に初の核実験、1967年に熱核(いわゆる水爆)実験に成功しました。実験の主舞台は新疆ウイグル自治区のロプノール(羅布泊)周辺で、以後1996年までに多様な形式の実験を重ね、弾頭の信頼性・小型化・多様化を進めました。配備面では、陸上発射の弾道ミサイルを軸に、空軍と海軍を加える三本柱(トライアド)へと段階的に拡張し、国家の核戦略は「先制不使用」と「最小限抑止」を基本原則として語られてきました。

核保有は単なる兵器の所有ではなく、外交・同盟関係、産業・科学技術、国内政治や世論の動きと密接に結びついています。中国の場合、周辺の核保有国(当初の米ソ、のちにインド・ロシア・米国など)との関係、インドや台湾海峡の危機管理、ミサイル防衛や宇宙・サイバー領域の進展といった要素が、核ドクトリンと装備の選択に影響を与えてきました。実験は1996年のモラトリアムにより停止しましたが、計算機シミュレーションや非核実験、材料評価などを活用した信頼性維持に移行し、運搬手段や指揮統制の近代化とともに、抑止の安定性を高める方向へ進んでいます。本稿では、核計画の出発から実験の展開、ドクトリンと装備、国際条約や環境問題まで、基礎から分かりやすく整理します。

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援助から自立へ:核計画の出発と初期実験

中華人民共和国の核計画は、建国直後の安全保障環境と大国化の目標のもとで始まりました。朝鮮戦争や台湾海峡危機を通じて、アメリカの核優位が中国指導部に強い圧力として意識され、核抑止の必要性が議論されるようになります。1950年代半ばにはソ連の援助によって、原子炉・同位体分離・計測技術などの基礎が整えられ、研究者の養成や工業基盤の拡充が進みました。しかし、1959年頃からの中ソ関係の悪化により援助は打ち切られ、中国は独自開発に舵を切ります。この転換は、政治的自立と技術的自立を同時に達成するという大きな挑戦でした。

初の核実験は1964年10月、新疆のロプノール試験場で実施されました。装置は核分裂型で、起爆系と爆縮レンズの信頼性確認、核物質の品質評価、爆風・熱線・放射線の効果測定など、兵器化に不可欠なデータが収集されました。続く1965年以降、空中投下や塔上爆発、地下実験など形式を変えながら試験が重ねられ、弾頭の小型化・量産性の向上、安全装置の実装などが段階的に実現していきます。わずか3年後の1967年には熱核実験に成功し、核分裂起爆段階と熱核段階の二段階設計の成立が確認されました。これは核技術の成熟と産業動員能力を内外に示す象徴的な出来事でした。

この時期の国内環境は政治的に不安定であり、文化大革命の混乱が科学技術体制に影響を与えましたが、核・宇宙・ミサイルの一群は「国家の根幹」を支えるプロジェクトとして優先が保たれます。研究拠点と工場は分散配置され、原材料の確保、化学分離、冶金、精密爆薬の生産体制が確立され、秘密性の高いサプライチェーンが築かれました。これにより、外部依存度を下げつつ、長期の開発継続が可能になっていきます。

熱核到達と運搬手段の発展:ミサイル中心の抑止へ

熱核兵器への到達は、爆発出力の飛躍だけでなく、弾頭の重量当たり出力や設計の柔軟性の向上を意味しました。中国はこれを背景に、運搬手段の主軸を陸上発射の弾道ミサイルへと据えます。初期の中距離弾道ミサイルから、より長射程で生存性の高いシステムへと発展し、固体燃料化と移動式発射機(TEL)の採用によって、先制攻撃への脆弱性を低減しました。可動性の向上は「第二撃能力」の確実性を高め、抑止の信頼性を上げるうえで重要でした。

空軍の役割は、当初は自由落下爆弾の投下能力に限定されましたが、のちには巡航ミサイルや精密誘導兵器との連携が検討され、柔軟な選択肢が模索されました。海軍では、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)による海中抑止の確立が大きな課題でした。早期の原子力潜水艦は騒音や信頼性の面で困難を抱えたものの、世代更新を重ねることで、静粛性と作戦回数の向上が図られ、海中発射系は核トライアドの重要な柱へと育ちました。海上からの発射能力は、敵の監視網をかいくぐって配備できるため、陸上・航空戦力が攻撃を受けても抑止を維持する保険になります。

この間、核弾頭の設計は小型化・多様化が進み、出力可変(ダイアル・ア・ールド)や多弾頭化(MIRV)に向けた研究が蓄積されました。再突入体の熱防護材、姿勢制御、誘導系の高精度化、デコイや複合誘導による突破能力の強化など、弾頭とミサイルの結合設計は、相手のミサイル防衛の発達をにらんで更新されていきます。結果として、抑止は「量」ではなく「生存性と到達確率」を重視する方向に洗練されました。

ドクトリン・条約・運用:先制不使用と最小限抑止の枠組み

中国の核ドクトリンは、伝統的に「先制不使用(No First Use, NFU)」と「最小限抑止(Minimum Deterrence)」を標榜してきました。すなわち、自国が核攻撃を受けない限り核兵器は使用しないと宣言し、相手に許容しがたい損害を与え得る範囲で戦力規模を抑えるという立場です。この原則は、核戦争のエスカレーションを抑える政治的メッセージであると同時に、経済資源と軍事負担のバランスを取る現実的な選択でもありました。ただし、ミサイル防衛や高精度通常兵器の発展、宇宙・サイバー領域での新たな脅威は、抑止の安定性に新しい課題を投げかけ、運用細則や配備態勢の調整が継続的に検討されてきました。

国際条約の枠組みでは、中国は1992年に核不拡散条約(NPT)に核兵器国として加盟し、包括的核実験禁止条約(CTBT)には1996年に署名しました。CTBT発効には至っていませんが、中国側は署名後、爆発を伴う核実験を停止するモラトリアムを表明し、以後は非爆発的手法での信頼性維持に取り組んでいます。部分的核実験停止条約(PTBT)に基づく大気圏内実験の停止は早い段階で受け入れられ、以後の試験は地下に限定されました。こうした流れは、フォールアウトへの国際的懸念と科学的検証体制の発展に呼応するものでした。

運用・統制の面では、核戦力の発射権限は厳格に集中管理され、二重承認や安全装置、通信の冗長化が重視されます。早期警戒のための地上レーダーと衛星監視、指揮統制通信(C3)の暗号化と多重化、分散配置と迅速な移動能力の確保など、偶発的な誤作動や先制攻撃下の麻痺を避けるための体制が整えられました。定期的な演習は、危機時の意思決定や各部隊の連接を検証し、抑止の信頼性を支える役割を果たします。

ロプノール試験場、環境と社会:実験の影と情報公開

核実験の多くが行われたロプノール試験場は、乾燥した内陸の砂漠地域に位置し、塔上・空中投下・地下坑道など多様な実験形式が採られました。大気圏内実験期には、爆風・熱線・初期放射線・フォールアウトの広がりを実地に測定し、地下化以降は地震学・坑道工学・ガス封じ込めの技術が蓄積されました。試験は兵器の信頼性向上に不可欠でしたが、放射性物質の拡散や土壌・地下水への影響、作業員と周辺住民の健康問題など、長期的な課題も伴いました。これらに対し、環境モニタリング、医療調査、浄化事業、立入制限区域の管理などが進められてきましたが、詳細データの公開や第三者検証のあり方をめぐっては議論が残ります。

実験の歴史はまた、国家安全保障と情報公開のバランスをどう取るかという問題を浮き彫りにしました。軍事機密の保護は不可欠ですが、被害の評価や環境修復には一定の透明性が求められます。国際的にも、監視・検証の枠組みが整うことで懸念の緩和が進み、信頼醸成の基盤が築かれます。中国の事例は、核をめぐる情報と科学データの管理が社会的信頼と直結することを示しており、これは他の核保有国にも通じる教訓です。

今日、核実験は停止されていますが、核戦力の近代化は続いています。陸上の機動式長射程ミサイル、潜水艦発射システム、航空戦力の更新、衛星航法や慣性誘導の統合、複合的な突破手段の研究などは、抑止の生存性と確実性を高める方向で進んでいます。計算科学と材料工学の進歩は、実爆を伴わずに弾頭の健全性を評価する道を広げ、実験停止と抑止維持の両立を可能にしています。核抑止は使わないために持つ能力であり、持つ以上は安全性・統制・透明性の水準が問われ続けるという点で、中国の経験は現在進行形の課題でもあります。