十分の一税(じゅうぶんのいちぜい)とは、一般に農民や領民が自分たちの収穫や所得の約10分の1を、教会や領主などに納めることを義務づけられた税・貢納のことです。世界史でとくに意識されるのは、中世ヨーロッパのキリスト教社会における教会の十分の一税で、農民が収穫物の一部を教会に納め、その財源によって聖職者の生活や教会の維持、救貧事業などが支えられていました。「十分の一(タイス)」という言葉は、聖書に由来する宗教的な慣行であると同時に、封建社会の経済構造そのものを支える重要な仕組みでもあったのです。
ただし、十分の一税は単純な「寄付」ではなく、しばしば農民にとっては逃れることのできない重い負担でした。領主への地代・賦役・税金に加えて、教会にも十分の一税を納める必要があり、その負担が農民一揆や宗教改革の不満の背景となる場合もありました。また、徴収された十分の一税が本当に貧民救済などに使われたのか、それとも上層聖職者や修道院の贅沢を支えることになったのかという点でも、歴史上さまざまな議論や批判が存在します。世界史で十分の一税という用語に出会ったときには、「宗教的義務」と「封建的搾取」の両方の側面をあわせて考えることが大切です。
十分の一税とは何か:意味と基本的イメージ
十分の一税の基本的なイメージは、文字どおり「収穫や所得の10分の1を納める」というものです。キリスト教社会では、とくに農業生産が経済の中心にあったため、農民や地主は小麦やブドウなどの穀物・作物の一部を教会に差し出しました。このとき、「10分の1」という割合が象徴的に用いられ、神への感謝のしるしとして納めることが信仰上の義務とされました。
聖書の旧約・新約には、収穫物の十分の一を神に捧げるという記述があり、これが後のキリスト教世界で制度化された十分の一税のもとになったと考えられます。もともとは、神殿や聖職者、貧しい人々を支えるための宗教的な献げものという性格が強く、信仰と共同体を維持するための「聖なる負担」として理解されていました。それが中世ヨーロッパにおいては、教会法や世俗権力の後押しを受けて、ほぼ強制的な税として一般化していきます。
中世の村の姿を思い浮かべると分かりやすいです。農民たちは自分の耕作地から収穫した小麦やブドウの束を、村の教会の前に運び込んで十分の一税を納めます。教会の管理人や司祭がその量を確認し、一部は教会の倉庫に蓄えられ、一部は売却されて教会の収入となり、また一部は貧しい人や巡礼者への施しに回されることもありました。こうして、十分の一税は宗教儀礼と日常生活が交差する場面として、人々の生活の中に深く組み込まれていたのです。
世界史上では、キリスト教だけでなく、他の文化・宗教でも「十分の一」に近い慣行が存在することがありますが、教科書で「十分の一税」として特に取り上げられる場合は、多くが中世西ヨーロッパの教会十分の一税を指しています。したがって、この用語を理解するうえでは、「教会」「封建社会」「農民の負担」「宗教改革」といったキーワードと結びつけて考えると全体像がつかみやすくなります。
起源と制度化:聖書・教会法・封建社会
十分の一税の起源をたどると、古代イスラエル社会における「十分の一献げ」の慣行に行き着きます。旧約聖書には、農産物や家畜の十分の一が神殿にささげられ、祭司やレビ人(宗教職に仕える部族)、貧しい人びとを支えるために使われたことが描かれています。こうした宗教的献げは、神への感謝と従順のしるしであると同時に、共同体の中で宗教施設と弱者を支える再分配の仕組みでもありました。
キリスト教がローマ帝国の国教となり、さらにゲルマン社会へ広がるなかで、旧約の十分の一献げの発想は教会組織の中に受け継がれました。初期のキリスト教会では、信徒の自発的な寄付や献金が中心でしたが、中世に入ると教会法や公会議の決定によって、「信徒は収入の十分の一を教会に納めるべきだ」という原則が次第に明文化されていきます。やがて、王権や領主もこの慣行を認め、場合によっては法的義務として強制するようになります。
封建社会では、土地をめぐる支配関係が経済と政治の中心にありました。世俗の領主(貴族)と教会・修道院はそれぞれ大土地所有者として農民から地代や賦役を徴収しましたが、教会はそれに加えて、教区内の信徒一般から十分の一税を徴収する権利を持っていました。これにより、教会は領主とは別の形で農村社会の上部に位置し、精神的権威と経済的基盤を同時に確保することができました。
制度化された十分の一税には、いくつかのバリエーションがありました。たとえば、「大十分の一税」と「小十分の一税」の区別です。ある地域では、穀物など主要作物の十分の一を司教座教会や修道院が取り、それ以外の野菜や家畜などの十分の一を村の小教会や司祭が取る、といった分け方が存在しました。また、土地の所有形態や開墾の状況によって、十分の一税が課されるかどうかが異なる場合もあり、これが領主・教会・農民のあいだの紛争の種になることもありました。
教会側は十分の一税を「神によって定められた権利」とみなし、その支払いを拒むことは宗教的義務の放棄であり、場合によっては破門(教会共同体からの排除)の対象になると警告しました。一方、世俗の王や領主も、教会との協力関係を通じて、十分の一税の徴収を自らの支配秩序の一部として利用することがありました。このように、十分の一税は宗教的起源を持ちながらも、封建社会の政治構造に深く組み込まれていった制度だったのです。
十分の一税の徴収と農民社会:負担・紛争・レジスタンス
実際の徴収の場面に目を向けると、十分の一税は農民にとって非常に具体的な経験でした。収穫期には、決められた日に村ごとに穀物の束や家畜が集められ、司祭や教会の代理人がその量を測って「十分の一」を取り分けました。十分の一税は必ずしもきっちり10パーセントではなく、交渉や慣行によって多少の幅があったものの、農民にとっては「また持っていかれる」という感覚を生む負担であったことは確かです。
とくに小農や貧しい農民にとって、十分の一税は生活を圧迫する要因の一つでした。彼らは領主に地代や賦役を納めたうえで、自家消費と翌年の種もみを確保しなければならず、その残りからさらに十分の一税を差し引かれることになります。不作の年や災害時には、そもそも食べていくだけで精一杯でありながら、教会側は原則として徴収を求め続けるため、農民の不満が蓄積していきました。
当然ながら、十分の一税をめぐる紛争も頻繁に起こりました。農民が収穫を隠したり、少なく申告したりすることは珍しくなく、教会側は監視や制裁を通じてこれを防ごうとしました。ある村がどの教会や修道院に十分の一税を納めるべきかをめぐって、複数の聖職者や修道院が争うこともありました。また、新たに開墾された土地や移住者の多い地域では、「十分の一税の対象かどうか」をめぐる解釈の違いが複雑な訴訟の原因となりました。
農民の側から見れば、十分の一税は「神への献げ」という宗教的意味を持つ一方で、「上層の聖職者の贅沢な生活や壮麗な聖堂建築を支える負担」というイヤな一面もありました。教会や修道院が巨額の富を蓄え、豪華な祭服や建物を誇る様子は、貧しい村人の目には矛盾として映ったはずです。このようなギャップは、中世後期以降、とくに都市や知識人の間で教会批判の言説を生み出す一因となりました。
宗教改革期には、十分の一税への不満が、プロテスタント運動や農民反乱と結びつく場面も見られます。例えば、ドイツ農民戦争(1524〜25年)では、農民たちの要求の中に、十分の一税の軽減や廃止が含まれていました。ルター自身は社会秩序の急激な破壊には反対しましたが、聖職者や修道院の世俗化・富裕化に対する批判は、十分の一税のあり方への疑問を増幅させました。カトリック側も、トリエント公会議以降、聖職者の規律を引き締め、十分の一税を含む教会財政の見直しを行わざるをえなくなります。
このように、十分の一税は農民社会の日常に深く根を下ろしつつも、同時に「社会的不平等」「教会への不信」「政治的抵抗」の火種を内包していました。宗教・経済・政治の三つの次元が交差する場所として、十分の一税は中世から近世にかけてのヨーロッパ社会を理解するうえで重要な鍵となります。
変質と衰退:宗教改革以降から近代国家へ
宗教改革と対抗宗教改革の時代を経て、十分の一税の位置づけは地域や宗派によって大きく変化していきました。プロテスタント諸地域では、カトリック教会の権威とともに十分の一税制度の正当性も問われ、多くの地域でカトリック的な意味での十分の一税は廃止されるか、別の形に変えられました。代わりに、国家や領邦君主が教会財産を掌握し、教会や牧師の給料を税金から支払う仕組みが発達していきます。
一方、カトリック地域では、十分の一税は基本的には存続しましたが、その運用や意味は徐々に変化しました。近世になると、ヨーロッパ各地で貨幣経済が発達し、農業生産も商品化が進みます。それに伴い、十分の一税も現物ではなく貨幣で支払われるケースが増えました。また、国家権力が強化される中で、王権が教会財政に介入し、十分の一税をめぐる権限をめぐって王権と教会が対立する場面も存在しました。
啓蒙思想の広がりとともに、18世紀以降、十分の一税は「不合理で古い封建的負担」として批判の対象になることが多くなります。啓蒙思想家たちは、宗教と政治の分離や、合理的な税制の構築を掲げ、教会の特権的な収入源である十分の一税に疑問を投げかけました。とくにフランスでは、農民や第三身分にとって、国王への税・領主への地代・教会への十分の一税という三重の負担が重くのしかかっており、これはフランス革命前夜の不満の大きな要因の一つとなりました。
フランス革命が始まると、国民議会は教会財産の国有化や聖職者の国家公務員化を進め、伝統的な十分の一税は廃止されます。これは、教会の経済的基盤を国家の管理下に置くと同時に、農民の封建的負担を軽減することを目的とした措置でした。こうした動きは、他のヨーロッパ諸国にも影響を与え、19世紀には多くの地域で十分の一税が廃止されるか、大きく縮小されていきます。
ただし、十分の一税に由来する慣行は完全に消えたわけではありません。一部の国や宗派では、現在も信徒が自発的に所得の一定割合を教会に献げる「十一献金」などの形で伝統が続いています。ただしこれは、法律によって強制される税というよりは、信仰にもとづく任意の献金として位置づけられることが多く、封建社会の十分の一税とは性格が異なっています。
近代国家の成立とともに、税の中心は国家が徴収する所得税・地租・消費税などへと移り、宗教組織が公的に税を徴収する仕組みは大幅に縮小しました。この意味で、十分の一税の衰退は、宗教と国家の関係の変化、封建的秩序から市民社会への移行を象徴する出来事でもあります。世界史の文脈で十分の一税を学ぶときには、中世ヨーロッパの教会制度や農民の生活に根ざした具体的な負担であると同時に、宗教・経済・政治の長期的な変化を読み取る手がかりであることを意識すると、その意味がより豊かに見えてきます。

