世界史で使われる「周辺(しゅうへん)」という言葉は、単に「地図のはし」のような場所を指すだけではありません。ある時代・ある世界の中で、政治・経済・文化の主導権を握る「中心(コア)」に対して、その支配や影響を受ける側、資源や労働力の供給地として位置づけられる地域をまとめて「周辺」と呼ぶことが多いです。例えば、近代世界経済の中心がイギリスや西ヨーロッパであった時代、その植民地や原料供給地として扱われたアジア・アフリカ・ラテンアメリカの多くは「周辺」として把握されました。
この「周辺」という概念は、世界を「中心と周辺」の関係でとらえ、経済力・軍事力・技術力・文化的権威などが一方的に「中心」から「周辺」に流れるだけでなく、「周辺」からも原料・労働・文化などが中心に吸い上げられていく非対称な構造を説明するために使われます。とくに、資本主義世界経済論(ウォーラーステインの世界システム論など)では、「中核(コア)」「半周辺」「周辺」といった用語がセットで用いられ、世界史を一部の強国と多数の従属的地域の関係として描き出そうとします。教科書で「周辺」という言葉を見たときは、「どこかの国から見た遠い場所」という意味にとどまらず、「権力と富の分配において不利な位置に置かれた地域」というニュアンスを意識すると理解しやすくなります。
「周辺」という概念の基本:中心との関係で決まる位置
まずおさえておきたいのは、「周辺」とは絶対的な地理的場所ではなく、「中心」との関係で決まる相対的な位置だという点です。ある世界の中で、政治・軍事・経済・文化の影響力を強く持ち、多くの国や地域にルールや価値観を押しつける側が「中心」とみなされ、その中心に対して依存的な立場に置かれた地域が「周辺」と呼ばれます。地図の真ん中に描かれているから中心、はじに描かれているから周辺、という単純な話ではありません。
例えば、中世イスラーム世界を前提にすると、バグダードやダマスクス、カイロのような都市は「中心」であり、そこから遠く離れた辺境の遊牧地域や、イスラーム世界の外縁にあたる中央アジアや西アフリカの一部は「周辺」として位置づけられます。しかし、近代ヨーロッパ中心の世界観では、逆にロンドンやパリ、アムステルダムが中心となり、イスラーム世界の多くが「ヨーロッパから見ての周辺」「植民地・半植民地」として扱われました。このように、「どこが中心で、どこが周辺か」は、前提とする世界の枠組みによって変化します。
世界システム論などでは、近代以降、ヨーロッパ(のちにはアメリカ合衆国を含む西側諸国)が「中核(コア)」として、工業製品や金融を通じて世界経済を主導してきたとされます。その一方で、ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの多くの地域は、農産物・鉱物資源・労働力の供給地として組み込まれ、「周辺」として位置づけられました。ここで言う「周辺」とは、「中心に原料や安価な労働力を提供し、その代わりに工業製品や投資に依存する構造」を反映した用語です。
したがって、「周辺」とは単に「発展が遅れている地域」という意味ではなく、「他の地域との関係の中で不利な条件で結びつけられている地域」というニュアンスを含みます。周辺は、しばしば資源や市場として利用される一方で、技術革新や政策決定の場からは排除されがちです。「中心」と「周辺」の関係を問うことは、世界史の中で「誰が決め、誰が従ってきたのか」「誰が豊かになり、誰の犠牲によってそれが成り立ったのか」という問いにつながっていきます。
世界システム論と「中心・半周辺・周辺」
「周辺」という言葉が世界史の中で特に注目を集めるようになったのは、20世紀後半に登場した世界システム論や従属理論の影響が大きいです。イマニュエル・ウォーラーステインは、16世紀以降の資本主義世界経済を一つの「世界システム」としてとらえ、その内部を「中核(コア)」「半周辺」「周辺」に分けて分析しました。この枠組みでは、国家単位ではなく、国際分業と搾取の構造に注目して世界史を説明しようとします。
世界システム論における「中核」は、高度な工業と金融、軍事力を持ち、高付加価値の製品を輸出して利潤を獲得する地域です。歴史的には、オランダ、イングランド(イギリス)、ついでアメリカ合衆国などがこれにあたります。「周辺」は、農産物・鉱物・一次産品を主に輸出し、工業製品や資本を輸入する地域で、植民地や半植民地として支配されてきたアジア・アフリカ・ラテンアメリカの多くが該当します。中核は周辺から安価な資源と労働力を得ることで富を蓄積し、周辺は中核に対して従属的な立場に置かれ続ける、とされます。
この二分法の間に位置するのが「半周辺」です。半周辺は、中核のような高度な工業化の一部を持ちながら、同時に周辺に対しては搾取的な関係を持つような地域です。例えば、19世紀のロシアやオーストリア=ハンガリー帝国、20世紀の一部の新興工業国などが、ある時期には半周辺として解釈されることがあります。半周辺の存在は、「世界は単純な二極構造ではない」「ある地域は搾取されると同時に、別の地域を搾取する立場にも立つ」という複雑さを示しています。
世界システム論において、「周辺」という位置は固定されたものではありません。歴史の中で、ある地域が「周辺」から「半周辺」、あるいは「中核」に近づく場合もありますし、逆に後退する場合もあります。例えば、日本は19世紀半ば、欧米列強から見れば軍事的にも経済的にも「周辺」的な立場にありましたが、明治維新後の急速な工業化と帝国主義政策を通じて、20世紀初頭には東アジアにおける「半周辺〜中核的」な存在へと変化しました。このように、「周辺」はあくまで歴史的に変動する位置づけであり、その変化を追うことがダイナミックな世界史像につながります。
同時に、世界システム論や従属理論には批判もあります。すべてを「搾取する中核」と「搾取される周辺」の対立で説明しようとすると、各地域の内部の多様性や主体性が見えにくくなるという指摘です。それでも、「周辺」という概念が、世界経済や帝国主義の中で構造的な不平等がどう作られてきたかを考えるうえで強力な道具であることは確かであり、歴史教育や国際関係論の中で広く用いられています。
帝国主義と植民地支配の中の「周辺」
19〜20世紀の帝国主義の時代、「周辺」という言葉は特に、ヨーロッパ列強やアメリカ・日本と、それらが支配した植民地・半植民地との関係を説明するために使われます。ここでの「中心」は帝国主義列強の本国であり、「周辺」はその経済・軍事・政治的影響を強く受ける植民地・保護国・勢力圏の地域です。周辺は、中心にとって原料供給地であり、製品の市場であり、軍事基地や移民先としても利用されました。
例えば、イギリス帝国を考えてみましょう。19世紀のイギリスは世界最大の工業国・貿易国であり、ロンドンは世界金融の中心でした。イギリスはインドやエジプト、アフリカや東南アジア、カリブ海の植民地などから綿花・茶・ゴム・砂糖・穀物・鉱物資源などを輸入し、その原料を使って工業製品を大量生産し、再び世界中に輸出しました。インドの綿作農民やプランテーションで働く労働者たちは、イギリス本国の産業と消費を支える「周辺」の担い手でしたが、自国で産業を育てる余地は大きく制限されていました。
このような構造の中で、「周辺」はしばしば経済的にも政治的にも脆弱な立場に置かれます。原料価格の変動は周辺経済を直撃し、本国の景気や政策の影響を強く受けます。また、周辺での社会改革や工業化の試みは、しばしば中心の利害と衝突しました。インドでの自治運動や中国の近代化、アフリカでの民族運動などは、「周辺」が自らの位置を変えようとする努力であり、帝国主義の世界秩序に対するチャレンジでもありました。
こうした植民地支配の経験は、周辺にとって単なる経済的な従属だけでなく、文化的・心理的な影響も残しました。教育制度や行政、言語、宗教など、多くの面で「中心」の価値観や制度が周辺に押しつけられ、現地の伝統や社会構造が変容させられました。独立後も、旧宗主国の言語や法律、経済システムが残り続けることは少なくなく、それがポストコロニアルな不平等の一因にもなっています。
帝国主義の歴史を「中心と周辺」という視点から見ると、「どのようにして一部の国々が世界の富と権力を集中させたのか」「その過程でどのような地域が周辺として位置づけられ、どのような影響を受けたのか」が見えやすくなります。同時に、周辺の側から見た抵抗・交渉・協力の多様なあり方にも目を向けることで、一方的な被害者像ではない、より立体的な歴史像を描くことができます。
「周辺」から見る世界史:内部の周辺と視点の転換
「周辺」という概念は、単に国際的な中心と周辺の関係だけでなく、一つの国や帝国の内部にも応用できます。例えば、近代日本の中でも、東京や大阪のような大都市・工業地帯は「国内の中心」として政治・経済・文化をリードし、地方の農山村や植民地であった台湾・朝鮮・南洋などは「国内外の周辺」として資源や労働力を提供する立場に置かれました。同じ国籍を持ちながらも、中心と周辺の間には、賃金や教育機会、政治参加の権利、インフラ整備などの面で大きな格差が存在しました。
このような「内部の周辺」を意識することで、世界史や日本史の中で見えにくくなっていた人びとの経験が浮かび上がります。例えば、産業革命期のイギリスでは、首都ロンドンや工業都市マンチェスターが「中心」である一方で、ハイランド地方の農民やアイルランドの貧民は「周辺」として扱われました。アメリカ合衆国においても、東海岸の工業地帯や西海岸のテクノロジー拠点が「中心」である一方で、先住民居留地や黒人の多い南部農村、ラテン系移民の集中する地域などは「国内の周辺」として周縁化されてきました。
近年の歴史学や社会科学では、「中心の歴史」だけでなく、「周辺の視点から歴史を語り直す」試みが盛んになっています。従来、国民国家の首都やエリートの視点から書かれてきた歴史を、周辺地域の住民、植民地出身者、少数民族、女性や労働者などの立場から再構成しようとする動きです。このような試みでは、「周辺」は単に受け身の被害者ではなく、固有の文化や抵抗、創造性を持つ主体として描かれます。
「周辺」という言葉には、「中心から見て遠く、弱く、遅れている」というイメージがまとわりつきがちですが、歴史を学ぶうえでは、そのような価値判断をそのまま受け入れるのではなく、「なぜその地域が周辺とみなされたのか」「周辺とされることによってどんな影響と可能性が生まれたのか」を問い直すことが重要です。周辺は、しばしば多文化が交差する場であり、新しい文化や運動が生まれる土壌でもあります。
世界史で「周辺」という用語に出会ったときには、「中心のまわりの弱い場所」という固定観念を少し脇に置き、「誰から見た周辺なのか」「どのような力関係のなかでそう呼ばれているのか」「その周辺からは世界がどう見えているのか」といった問いをあわせて考えてみてください。そうすることで、教科書の一文にとどまらず、世界史そのものを多方向から眺める視点が身についていきます。

