サヴォイア – 世界史用語集

「サヴォイア(Savoy/Savoie/Savoia)」は、アルプス西部に起源を持つ諸侯家門と、その支配領域から派生した地名・国家を指す総称です。もっとも狭義にはフランス語圏のサヴォワ県などを含むアルプス山麓の地域名を指しますが、世界史で頻出するのは〈サヴォイア家(サヴォイ家)〉という君主家のことです。この家は中世にサヴォワ伯として出発し、のちにサヴォイア公へ昇格、さらにピエモンテとサルデーニャ島を基盤に「サルデーニャ王国(俗にサルデーニャ=ピエモンテ王国)」を築き、19世紀にイタリア統一を主導してイタリア王家となりました。領土はアルプスの峠と交通路の支配から始まり、時代とともに西はフランス王国、東はイタリア半島の政治と深く関わります。以下では、起源からイタリア王家への展開、統一運動における役割、20世紀の王制終焉、そして地名・文化に残る痕跡まで、誤解なくたどれるように整理します。

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起源と領域:アルプスの峠を握った伯から公へ

サヴォイア家の起点は、11世紀前後にアルプス西部で勢力を伸ばしたサヴォワ伯(Comtes de Savoie)です。初期の伯は、アルプスの峠(モン・セニ、プチ・サン=ベルナール等)と谷筋の交通を押さえ、巡礼・商隊・使節の通行から関税収入を得て財政を固めました。地理は政治の武器で、峠の安全保障と橋・宿駅の維持は領主の正統性を生む装置でもありました。やがて伯領は、現在のフランス側(サヴォワ、ブージュ、ブレス)からスイス(ヴァレー=ヴァリスの一部)を経て、イタリア側のピエモンテ平野にまで指を伸ばし、アルプスを跨ぐ連続領域を形成します。

14~15世紀、サヴォワ伯は神聖ローマ帝国の中で地位を高め、公爵位(Duc de Savoie)を獲得します。首都はシャンベリに置かれ、のちにトリノに重心が移りました。公国は、アルプスの峠支配に加えて、低地の農業生産と都市の手工業・金融を取り込みつつ、周辺大国(フランス王国、ミラノ公国、スイス同盟諸州、ハプスブルク)との間で巧みな均衡外交を展開しました。婚姻政策も積極的で、ヨーロッパ諸宮廷との姻戚関係を通じて威信を高めます。

しかし地理的優位は同時に脆さでもありました。近世の大戦(イタリア戦争、三十年戦争、ルイ14世期の対仏戦争)ではアルプス回廊が戦場になり、公国はたびたび侵攻と占領を経験します。それでもサヴォイアは屈伸しながら生き残り、トリノの城塞化・官僚制の整備・常備軍の育成を通じて〈小国の国造り〉を進めていきました。

サルデーニャ王国とピエモンテ:小国の「国家戦略」

18世紀初頭のスペイン継承戦争の結果、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世はシチリア王冠を得て王となり、まもなく交換によりサルデーニャ王冠へ移りました。以後、同家は〈サルデーニャ王国〉の王として国際社会で「王国」格を確定します。とはいえ実際の政治・経済の中心は、イタリア本土側のピエモンテと都トリノでした。海の彼方のサルデーニャ島は王号の根拠でありつつ、戦略的にはフランスとオーストリアという大国に挟まれた北西イタリアの〈緩衝国家〉としての役割が重視されました。

18~19世紀、サルデーニャ=ピエモンテは軍制・税制・道路網の整備、官僚制の合理化、工業育成に取り組みます。トリノは大学と新聞、官営工場と銀行が集積する中核都市になり、アルプス越えの道路・のちの鉄道(フレジュス鉄道トンネルなど)が経済空間をつなぎました。ナポレオン期には一時フランスに併合されますが、ウィーン体制下で王国は復帰し、保守的再編を経て、やがて自由主義改革へと舵を切ります。

決定的だったのは、19世紀半ばにおける宰相カヴールの登場です。彼は関税・財政・鉄道・軍備の近代化を進め、クリミア戦争に参戦して列強会議の席(パリ講和会議)を得るなど、〈小国が国際政治を動かす〉教科書のような戦略を展開しました。王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は立憲君主として議会政治を支え、王権と改革勢力の連携が、のちの統一運動の「北からの核」となります。

イタリア統一と王家の拡張:サヴォイア家が王冠を得るまで

1859年、サルデーニャ=ピエモンテはナポレオン3世のフランスと結び、第二次イタリア独立戦争を起こしてオーストリア帝国からロンバルディアを獲得しました(ただしヴェネトは後年まで残存)。その代償として、サヴォワ地方とニースが住民投票を経てフランスへ割譲されます。これは家名の故地を手放す決断でしたが、国家戦略としてはイタリア半島での伸長を優先した選択でした。続く1860年、ガリバルディの千人隊が南からシチリア・ナポリを制し、両シチリア王国はサヴォイア王のもとに編入されていきます。

1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が「イタリア王」を称し、統一王国(イタリア王国)が成立します。首都はトリノ→フィレンツェを経て1871年にローマへ移り、教皇領は「ローマ問題」を残しつつも国家の核に統合されました。サヴォイア家は王家として立憲君主制を担い、議会と内閣が政策を主導しつつ、国王は軍の総帥であり国家統合の象徴として振る舞います。エマヌエーレ2世の後はウンベルト1世、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と続き、王家は近代イタリアの栄枯盛衰をともに歩みました。

統一後のイタリアは、未開発地域の多さ、南北格差、農民問題、移民流出など課題が山積でした。サヴォイア王家は、国威発揚のための植民地獲得(エリトリア・ソマリ・リビア)や第一次世界大戦への参戦を承認し、国家の拡大と動員に象徴的役割を果たします。同時に、労働運動・都市化・カトリック政党の台頭という新しい社会力が政治空間に入り、王家は宰相任命権と解散権をめぐる「調整者」として難しい舵取りを迫られました。

20世紀の試練:ファシズム、戦争、王制の終焉

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の時代、イタリアはファシズムの台頭を経験します。1922年のローマ進軍後、国王はムッソリーニを首相に任命しました。これは内戦回避・秩序回復を名目にした政治判断でしたが、結果として独裁の道を開く決定となります。王は立憲君主として形式的権限にとどまりがちでしたが、1938年の人種法の公布、第二次世界大戦への参戦など、重大な局面での統治責任は免れません。

1943年7月、連合軍のシチリア上陸と戦局の悪化を受け、国王はムッソリーニを解任・逮捕し、バドリオ政権に切り替えました。しかしイタリアは南北に分断され、ドイツの占領とイタリア社会共和国(サロ政権)の樹立を招きます。戦後、王制の戦争責任を問う声が高まり、1946年6月の国民投票(制度選択国民投票)で王制廃止・共和国移行が決定。王家は退位・国外退去を余儀なくされ、サヴォイア家の男子直系は長くイタリアへの帰国を禁じられました(21世紀に入って法規が改められ帰国が可能に)。

こうして、サヴォイア家は〈イタリア王家〉としての役割を終えましたが、家門としては現在も存続し、文化財保護や慈善活動、王朝史の記憶継承に関与しています。王制廃止後のイタリアは共和制の下で欧州統合に加わり、王家の名は歴史・文化の領域で語られる対象となりました。

地名・文化・用語整理:サヴォワ/サヴォイア/サヴォイ、そして周辺

名称について整理します。フランス語では Savoie(サヴォワ)、イタリア語では Savoia(サヴォイア)、英語では Savoy(サヴォイ)と表記されます。日本語史学では、家門は「サヴォイア家」、地域・旧公国は「サヴォワ(公国)」と区別することが多いですが、教科書や研究書によって揺れがあります。1860年の割譲で、故地サヴォワとニースがフランスに移ったため、以後のサヴォイア王家の政治的中心はピエモンテ(トリノ)側に固定されました。

文化面では、サヴォイアの紋章(赤地に白十字)は、ピエモンテやスイスのサヴォワ系地域の旗章にも影響を残し、イタリアの勲章・軍旗にも長く用いられました。建築では、トリノの王宮群やサヴォイア家の離宮(ヴェナリア・レアーレなど)が世界遺産に登録され、18世紀の芸術・狩猟文化・庭園美学を伝えます。料理では、サヴォワ地方のチーズやフォンデュ、ピエモンテのワインや菓子が名高く、アルプスの物産と王侯文化の趣向が混じり合う食文化を形作りました。

近代の軍事・産業では、トリノを中心に自動車・機械・航空が発達し、サヴォイア家の名を冠した航空機メーカー〈サヴォイア=マルケッティ〉が有名です(SM.79など)。この「サヴォイア」は王家に由来するブランド的用法で、国家のモダン化に王家の象徴性が利用された一例です。

最後に、サヴォイア家は「イタリア統一=王家がすべてやった」という単純図式では理解できません。実際には、都市ブルジョワ・農民・秘密結社(カルボナリ)・革命派(マッツィーニ)・実力行動家(ガリバルディ)・外交官(カヴール)など、複数の主体の相互作用が統一を生みました。王家はその中で、〈立憲君主〉として正統性と継続性を提供し、軍事・外交・象徴の三つで「接着剤」の役割を果たした、と捉えるのが適切です。

小括:峠の領主から王国、そして統一国家の象徴へ

サヴォイアは、アルプスの峠を握る地域領主から出発し、近世の外交と軍事の荒波をくぐり抜け、ピエモンテとサルデーニャを核に〈王国〉へと上り詰め、ついにはイタリア統一の冠を得ました。故地サヴォワとニースの割譲という痛みを引き受けつつ、〈アルプスの回廊国家〉が〈半島の立憲王国〉へ姿を変えた過程は、地理と政治、象徴と実利が交錯するダイナミックな歴史でした。20世紀に王制は幕を閉じましたが、サヴォイアの名は、ヨーロッパの一体化と国民国家の形成を考える上で欠かせない手がかりとして今も生きています。地図の上で峠を探し、トリノの街区を歩き、ヴェナリアの回廊を思い浮かべるとき、峠の小さな伯がどのようにして国家の形を変えたのか—その物語が立ち上がってくるはずです。