ウィーン包囲(第2次)は、1683年にオスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャ率いる大軍が、ハプスブルク領の首都ウィーンを包囲した事件を指します。16世紀の第1次包囲から約150年後、オスマンが中央ヨーロッパへの影響力を最高潮に高めようとした挑戦であり、これに対して神聖ローマ帝国諸侯とポーランド王ヤン3世ソビエスキが連合して救援に向かったことで、9月12日のカーレンベルクの戦い(ウィーンの戦い)における大勝へと結びつきました。都市は落ちず、包囲軍は総崩れとなり、カラ・ムスタファは帰還後に失敗の責任を問われて処刑されます。この結果は、長く続く「大トルコ戦争」の転換点となり、ハプスブルクがハンガリーへと反攻して東中欧の主導権を握る流れが決定づけられました。ヨーロッパの勢力均衡のみならず、戦争のやり方(攻城・工兵・補給)や、宮廷宣伝・宗教観・都市記憶といった文化的側面にも深い爪痕を残した出来事です。以下では、なぜこの包囲が起こり、どう戦われ、何をもたらしたのかを、背景から余波まで丁寧に解説します。
事件の核心は、軍事力だけでなく政治と時間の使い方にありました。オスマンは圧倒的兵力を動員しながらも、攻囲の決定打を出せないまま夏を消費し、救援軍の到来を許しました。対する守備側は、少数ながら防御工学と市民の協力で粘り抜き、最後に大規模な連合軍の集中投入で局面を一気に覆しました。結果として、オスマンの中欧進出はここで頂点から下降に転じ、ハプスブルクはハンガリー全域の回復へ進みます。第2次包囲は「攻城と会戦」「補給と季節」「連合外交」の交点に位置する典型例でした。
背景――なぜ再びウィーンが標的になったのか
17世紀後半、オスマン帝国はバルカン・アナトリア・中東に広大な領域を保持しつつ、対ハプスブルク関係で優位を回復しようとしていました。ハンガリーでは、ハプスブルク支配への反感や宗教・身分をめぐる不満が複雑に絡み、反乱や貴族勢力の動揺が続いていました。オスマン宮廷にとって、ハンガリーは軍事的前衛であると同時に、ウィーンへ向けた戦略回廊でもありました。大宰相カラ・ムスタファは、宮廷内の競争と対外威信の強化を背景に、「短期決戦でウィーンを落とし、ハプスブルクに有利な講和を強いる」という青写真を描きます。
一方、ハプスブルク側では、神聖ローマ皇帝レオポルト1世がフランスとの対抗や帝国内の利害調整に追われ、主力軍の編成や防衛準備が遅れがちでした。オーストリアの防衛は、都市の外郭防御・要塞線・国境軍団の分散配備などに支えられていましたが、全面戦争に即応できる態勢ではありませんでした。さらに、ドナウ流域の交通と補給は、洪水や疫病、収穫状況といった自然要因に左右されやすく、長期攻囲への備蓄と輸送の確保が難題でした。この脆弱性を突く形で、1683年春にオスマン軍は大動員を開始します。
外交面でも、ウィーン包囲は「孤立させて落とす」試みでした。カラ・ムスタファは、クリミア・タタール軍の騎兵を遊撃として動員し、ポーランド・リトアニア共和国(連合王国)の内政不安につけ込み、救援連合の結成を遅らせようとしました。ところが、ポーランド王ヤン3世ソビエスキは、対オスマン抑止を自国防衛と結びつけて積極的に参戦を決断し、皇帝レオポルト1世と相互援助の取り決めを結びます。こうして、オスマンの「速攻・単独決着」構想に対し、ハプスブルク・帝国諸侯・ポーランドの「時間稼ぎと連合形成」が静かに進みました。
包囲の開始と都市防衛――防御工学と市民の持久
オスマン軍は1683年7月中旬にウィーンを包囲しました。兵力は史料によって幅がありますが、歩騎兵・砲兵・工兵に加えて多くの補助部隊と補給隊列を伴う大集団でした。彼らは都市の外周に攻囲線(壕・胸壁・砲座)を築き、塹壕をジグザグに伸ばして射撃線を短縮し、坑道を掘って城壁基部を爆破する「地雷戦」で破口を作ろうとしました。攻城砲の射撃は続きましたが、近世の成熟した稜堡式要塞を崩し切るには、破城砲の集中と継続的補給が不可欠です。時間が経つほど、攻囲側の補給・衛生の問題が重くのしかかります。
守備側は、総司令官エルンスト・リューディガー・フォン・シュターレンベルク(スターレンベルク)の下、常備兵・傭兵・市民・職人・修道士を広く動員し、城壁の補修、胸壁の築造、外壕の浚渫、砲床の増設を昼夜なく続けました。工兵は逆坑を掘って敵の地雷を探知・処理し、ときに城外に打って出て工事線を破壊する「ソーティ(出撃)」を敢行しました。女性や子どもも弾薬運搬や傷病者の看護にあたり、都市共同体の総力戦となりました。都市内部では火事と疫病の危険が常にあり、配給と秩序維持が防衛の成否を左右します。守備隊は弾薬と食糧を節約しながらも、市門や稜堡に火力を集中して要所を死守しました。
包囲戦では、日々の小競り合いと坑道戦が積み重なり、城壁の局地に「蚕食」のような破壊が進みます。オスマン側は城壁の突角を重点に圧力をかけ、夜明けや薄暮に突撃を繰り返しました。いくつかの稜堡や外作は深刻な損傷を受け、守備側は内側に新たな胸壁を築いて二重防御を形成します。都市は極限状態に近づき、降伏勧告も繰り返されましたが、シュターレンベルクは拒否を貫き、救援軍の到着まで耐える戦略に賭けました。
救援連合とカーレンベルクの戦い――「時間」を奪い返す一撃
ウィーン救援の連合軍は、帝国軍を率いるロートリンゲン公カール(カール5世、しばしばロレーヌ公と表記)と、ポーランド王ヤン3世ソビエスキを中心に編成されました。バイエルン・ザクセン・フランケン・シュヴァーベンなどの諸侯部隊が合流し、総兵力は十万に満たない規模ながら精鋭が揃いました。統一指揮の問題はしばしば連合軍の弱点になりますが、この戦役では皇帝レオポルト1世がソビエスキに総指揮権を委ね、山地機動と会戦の設計を一任したことが決定的でした。連合軍はドナウ北岸を進み、ウィーン北西の高地カーレンベルクを押さえて攻囲軍の側背に出る運動を成功させます。
9月12日早朝、連合軍は山地から一斉に前進し、まず帝国歩兵と砲兵が攻囲線の外側と高地を奪回しました。森林と斜面が歩兵戦に適していたこと、地形を読んだ分進合撃が奏功したことが功を奏します。午后になると、オスマン側は主力を転用して連合軍の圧力を受け止めようとしましたが、長期の攻囲で疲労し、塹壕と砲座の配置が「包囲向け」に固着していたため、野戦での柔軟な展開に遅れが出ました。連合軍は徐々に平地へと押し出し、オスマンの左翼・中央に楔を打ち込みます。
夕刻、ソビエスキは温存していた騎兵を総動員し、カーレンベルクからの大規模な下り斜面突撃を命じました。ポーランドの翼騎兵(フサリア)を含む騎兵群が一斉に展開し、帝国諸侯の騎兵もこれに続きます。これが会戦の決定打となり、オスマン軍の戦列は崩壊、指揮命令系統は混乱に陥りました。包囲線に残置された陣営や補給物資は放棄され、夜陰に紛れて退却が始まります。都市側も門を開いて外へ打って出て、押し寄せる包囲線を内外から圧迫しました。ここに、二カ月に及ぶ包囲は劇的な形で終曲を迎えます。
勝敗を分けたのは、単純な兵力差ではありませんでした。第一に、連合軍が「地形・時間・指揮の統一」をうまく組み合わせ、攻囲軍の側背を衝く運動戦に成功したことです。第二に、オスマン軍の作戦目的が長期包囲に偏り、野戦への即応態勢が手薄になっていたことです。第三に、守備側の粘りと救援側の到着タイミングがぴたりと噛み合い、「時間」を連合軍が取り戻したことでした。軍事史的に見れば、攻城工学と野戦機動のせめぎ合いが、ここで連合軍に軍配を上げたと言えます。
余波――大トルコ戦争、国際政治、記憶の形成
ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国にとって重大な政治的結果をもたらしました。カラ・ムスタファ・パシャは遠征の責任を問われ、帰還後に処刑されます。宮廷内部では権力バランスが揺らぎ、対外攻勢の路線は再検討を余儀なくされました。一方、ハプスブルク側では、勝利の勢いに乗ってハンガリーへの反攻が本格化します。1684年には教皇庁の仲介も得てオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアが神聖同盟(いわゆる「神聖同盟」だが1815年の欧州版とは別物)を結成し、1686年のブダ奪回、1687年のモハーチ会戦での勝利など、東中欧の勢力図は急速に塗り替えられました。最終的に1699年のカルロヴィッツ条約で、ハプスブルクはハンガリーの大半とトランシルヴァニアへの優越を確立し、オスマンの中欧における後退は国際的に承認されます。
この転換は、ヨーロッパの勢力均衡を大きく動かしました。ハプスブルクはドナウ上流から下流へ伸びる防衛線を前進させ、帝国内の威信を高めます。ポーランド王国はソビエスキの武名で国際的評価を高めましたが、国内政治の構造的問題(貴族共和政の自由拒否権など)は解決されず、長期的には国力の伸長に結びつかなかった側面もあります。ヴェネツィアはアドリア海・ギリシア方面での利権を追求し、ロシアはやや遅れて参戦して黒海方面への足がかりを狙うなど、「大トルコ戦争」は欧州列強の多方面的な勢力再配置の舞台となりました。
軍事技術・後方支援の面では、ウィーン包囲は攻城工学の成熟と限界を同時に示しました。稜堡式要塞に対する塹壕の階梯(アプローチ)、地雷と逆坑、砲兵の集中運用、夜間の修築と出撃――いずれも高度に制度化された技術でしたが、これらを持続させるには、同じく制度化された補給・衛生・冬営計画が不可欠でした。1683年は、攻囲軍の膨大な兵站需要が会戦への即応力を削ぎ、救援軍の地形優位を許す形になりました。以後の欧州戦争では、攻城戦だけでなく野戦での統一指揮・情報・地形認識がより重視され、参謀的思考の基盤が形づくられていきます。
文化記憶の領域では、ウィーンの勝利は宗教的・宮廷的な祝祭として記憶され、記念碑・絵画・音楽・説教が「都市の救済」を語り継ぎました。ポーランドではソビエスキが国家的英雄として称えられ、ウィーンでは守備司令シュターレンベルクの像や記念銘板が設置されます。コーヒーや菓子(クロワッサン)をめぐる民間伝承も生まれましたが、これらの多くは後世の脚色を含みます。重要なのは、都市共同体が包囲の経験を自らのアイデンティティに織り込み、外敵に対する結束と近代都市としての自負を育てた点でした。
外交思想の面でも、1683年は示唆に富みます。ウィーンの危機を単独で乗り切るのではなく、諸侯・諸国が権限と栄誉を調整しながら統一指揮の下に会戦を組み立てたことは、連合戦の運用モデルを提示しました。指揮権委譲の決断、地形を活かした接近、決戦のタイミングの選択など、連合運用の「最小限の条件」はここで具体化されたと言えます。これはのちの対フランス戦争やナポレオン戦争、ひいては19世紀の会議外交にも通じる経験知でした。
総じて、第2次ウィーン包囲は、オスマン帝国の中欧における攻勢の頂点と、その反転の発端を同時に刻印した出来事でした。攻城工学の粘着力と野戦機動の決定力、宮廷政治の野心と都市共同体の持久、補給線の脆弱さと連合外交の巧緻――これらが一つの都市をめぐる戦いの中で交差し、近世ヨーロッパの秩序を長期にわたって揺り動かしました。1683年のウィーンは、単なる一都市の攻防戦ではなく、ユーラシア規模での勢力再配置と記憶の政治学の出発点でもあったのです。

