ウィーン包囲(第1次)は、オスマン帝国のスレイマン1世が1529年にハプスブルク家の都ウィーンを取り囲んだ出来事を指します。コンスタンティノープルを拠点に急拡大したオスマンが、中欧の要であるウィーンに初めて本格的に迫った試みで、ヨーロッパとイスラーム世界の勢力争いが最前線でぶつかった象徴的事件でした。結果として包囲は失敗に終わり、オスマンの西進は一時的に止まりましたが、ハンガリーをめぐる支配を固定化し、以後150年以上にわたる国境戦争の幕を開けるきっかけとなりました。豪雨による補給難、重砲の遅延、秋の泥濘、城壁改修と守備側の奮戦など、軍事的・地理的・気象的要因が複雑に絡み合って勝敗を分けたことでも知られています。以下では、なぜこの包囲が起き、どのように進み、何を残したのかを、背景から余波までわかりやすく説明します。
ウィーン包囲は単発の事件ではなく、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国が瓦解し、その王位継承をめぐってオスマン・ハプスブルク・ザポルヤ(ヤーノシュ・ザポリャ)勢力が交錯した長い危機の一場面でした。都市そのものは陥落しませんでしたが、「なぜ敗けなかったのか」よりも「なぜ攻め落とせなかったのか」を考えることで、当時の軍事技術・補給・外交のリアルな限界を理解できる出来事です。
背景――なぜウィーンが狙われたのか
16世紀前半、スレイマン1世(「壮麗者」)のもとでオスマン帝国は地中海・バルカン・中東にまたがる大帝国へと成長しました。1517年にマムルーク朝を倒してエジプトとシリアを手中に収め、アナトリアとバルカンの支配を固めると、バルカンの北に位置するハンガリー王国が次の焦点となりました。ハンガリーはオスマンの北上を防ぐ緩衝地帯であると同時に、ドナウ川水系を通じて中欧へ通ずる回廊の鍵でもありました。
1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍は壊滅し、ラヨシュ2世が戦死しました。王位は空位となり、ハンガリー貴族の一派はトランシルヴァニアの有力者ヤーノシュ・ザポリャを推し、他方でオーストリア大公であり神聖ローマ皇帝カール5世の弟フェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)が自らの妃アンナ(ボヘミア=ハンガリー王家の娘)を通じて王位継承権を主張しました。スレイマンはザポリャを庇護してハプスブルクの拡張を牽制し、ハプスブルクは逆に王位継承を口実としてバルカンへの足場を固めようとしました。この継承争い・勢力争いの延長線上に、1529年のウィーン包囲があります。
地政学的にも、ウィーンはドナウ川流域の交通と商業の結節点であり、アルプスとパンノニア平原をつなぐ扉でした。ここを制すれば、ボヘミアや南ドイツへの圧力が容易になります。逆にいえば、ウィーンを守れれば、ハプスブルクは中欧の心臓部を保ち続けられるのです。こうして、オスマンの「威力偵察」と拡大の意思表示、そしてハプスブルクの威信と安全保障が正面から衝突する舞台が整いました。
戦役の経過――行軍、包囲、総攻撃、撤退
スレイマンは1529年春、コンスタンティノープルを発して大軍を率い、バルカンからドナウ沿いに進撃しました。随行したのは大宰相イブラヒム・パシャをはじめ帝国の精鋭で、近世最強格と評された歩兵〈イェニチェリ〉と騎兵〈スィパーヒー〉、そして攻城戦に不可欠な砲兵隊でした。しかし、戦役の初動から深刻な問題が発生します。異常な長雨が続いたことで道路は泥海と化し、重い攻城砲の多くが遅延・損耗し、渡河や馬匹の補給も滞りました。長大な補給線は伸び、秋の短日が近づく中で時間との競争が始まったのです。
9月中旬、オスマン軍はウィーンに到達しました。城内の防御を統括したのは高齢の将グラーフ・ニコラウス・フォン・ザルムとヴィルヘルム・フォン・ログゲンドルフで、守備兵の数はオスマンに比べてはるかに少数でしたが、モハーチ後に急ピッチで補強された城壁と堀、木柵、胸壁、城門前の前衛堡塁が稼働していました。市民や周辺農民も動員され、家屋の解体で見通しを確保し、郊外に迫る敵の接近を阻む障害物を築きました。火縄銃と小型砲の集中運用、夜間の巡邏と火線の調整など、守勢の定石が徹底されました。
オスマン軍は塹壕を掘り、地雷(地中爆薬)による破壊を試み、城壁への接近を図りました。砲の不足を補うため、坑道戦と梯子攻めの比重が大きくなります。守備側は逆坑を掘って爆薬坑を発見・無力化し、たびたびの城外出撃(ソーティ)で工兵隊や築営を襲いました。名高いのは10月14日ごろの総攻撃で、イェニチェリが城壁への突入を試みたものの、狭所での白兵戦と集中射撃、焙烙玉によって退けられました。雨と泥に悩まされる中で攻囲線の衛生状態は悪化し、病死・脱走も増えました。さらに、ドナウの増水で舟艇輸送が難しくなり、馬飼料と糧秣の確保も危うくなります。
スレイマンは継戦の採算を検討し、冬営に入る前に撤退を決断しました。10月半ば、攻囲兵器の一部を放棄し、捕虜を引き連れて軍はドナウ下流へと退きます。包囲が解かれると、ウィーンの鐘が鳴り続け、市民は防壁の修理と郊外の再建に取りかかりました。軍事的には、守備側の人的損害も軽くはありませんでしたが、都市は持ちこたえ、戦略目標は達成されました。オスマンにとっても、全くの徒労ではありませんでした。彼らはハンガリーの内政へ影響力を強め、ザポリャを通じて王位争いを自陣営に引き寄せ、次なる遠征への足がかりを保ちました。
勝敗を分けた要因――軍事技術、地形、補給、季節
ウィーン包囲(第1次)が失敗した理由は単一ではありません。第一に、重砲の不足と到着遅延が決定的でした。16世紀の攻城戦では、分厚い石造城壁に対して大口径の攻城砲で「破口」を開け、そこへ歩兵を突入させるのが常道でした。ところが、1529年は異常気象と道悪により、移動式の大砲が十分に運び込めず、効果的な集中射撃が成立しませんでした。第二に、ウィーン側の防御準備が想定以上に整っていました。城壁の土塁化や稜堡化の初期的工夫、外壕の浚渫、火力の集中運用は、近世初期の防御学の成果を取り入れたものでした。
第三に、補給線の脆弱性です。オスマン軍は長距離行軍に耐える機動力を持っていましたが、秋口のバルカンからパンノニア平原にかけての降雨と冷え込み、湿地化に直面すると、馬匹と荷駄の消耗が激しくなります。ドナウ水運は強力な支えでしたが、増水・寒冷・逆風が重なると輸送効率が低下し、継続的な弾薬・糧食の補充が難しくなりました。第四に、時間との闘いです。ヨーロッパ中部で攻城戦を遂行するには、夏季に包囲を開始して秋雨と初雪の前に決着をつける必要がありました。1529年は出陣自体が遅く、準備不足のまま秋に突入したことが致命傷となりました。
最後に、指揮統制と情報の問題が挙げられます。ウィーン側は市民・傭兵・諸侯部隊を一体化し、夜襲・逆坑・出撃を組み合わせて柔軟に対応しました。対するオスマン側は、イェニチェリや工兵の技能こそ高かったものの、広域の攻囲線で局所的な成功を全体決着に転化させることができませんでした。気象・地形・補給という「外部条件」が悪化すると、いかに強兵でも成果を持続できないことが露呈したのです。
余波と歴史的意義――ハンガリー分割と第二次包囲への道
包囲の失敗は、ただちにオスマンの衰退を意味しませんでした。むしろハンガリーでは、王位をめぐる二重権力が固定化し、実質的な分割が進みます。ハプスブルクは「王領ハンガリー」(西・北部)を保持し、オスマンは中部平原の広い帯を支配下に置き、トランシルヴァニアはザポリャ家を基軸とする従属公国として存続しました。この構図は16世紀後半から17世紀にかけて続き、国境地帯には要塞と駐屯地が連なる「軍事的フロンティア」が形成されました。
ウィーンは包囲の記憶を教訓として防御を強化し、城壁の稜堡化や外縁部の再設計が進みました。工学と財政の協働によって都市は「落ちにくい」城へと刷新され、商人・職人・移住者を引きつける安全の象徴となりました。また、ハプスブルク宮廷は対外宣伝を通じて「キリスト教世界の盾」としてのイメージを高め、諸侯や都市からの支持を集めました。宗教改革が広がる同時代にあっても、対オスマン防衛という大義は、一定の結束をもたらす物語として機能しました。
一方、オスマン側もドナウ防衛線の整備と要塞網の改修を進め、バルカンにおける徴税・補給体制を調整しました。海上ではコルドバ出身の改宗者バルバロス・ハイレッディンらが地中海で活躍し、帝国の威信は依然として高水準を保ちます。つまり、1529年は「転機」であると同時に「持久戦の序章」でもありました。最終的にウィーンが再び大包囲を受けるのは1683年、いわゆる第二次ウィーン包囲で、ここで初めてオスマンの西方進出は大きく後退に転じます。両者のあいだに横たわる150年は、まさに国境戦争と外交交渉の積み重ねの時代でした。
歴史的意義を整理すると、第一に、ヨーロッパの国際政治の重心が「防衛同盟・要塞線・補給」の三点セットに基づく長期均衡へと移行したことが挙げられます。第二に、都市攻囲戦をめぐる技術・工学・財政の連動が決定的となり、城壁の設計(稜堡式)、砲兵の運用、坑道戦の技術が制度化されました。第三に、ハプスブルク帝国の自己認識と対外イメージが再構築され、オスマン帝国もまたバルカンへの統治の在り方を見直しました。第四に、ハンガリー社会は長期の境界地域化の中で宗教・民族・身分の配置が組み替えられ、近世中欧の多層的なアイデンティティの原型が形づくられました。
ウィーン包囲(第1次)は、勝者の圧倒的勝利でも、敗者の決定的敗北でもありませんでした。むしろ、自然環境・軍事技術・政治判断の三要素が絶妙に絡み合うことで「攻め落とせない城」と「引き際を見極めた軍」が向き合った稀有な事例でした。城壁の石と泥、塹壕の土と火薬、秋雨の冷たさまでが、歴史の帰趨を左右する要因となったのです。16世紀ヨーロッパの大国間関係を理解するうえで、この包囲戦が投げかける示唆は今なお豊かです。

