後唐 – 世界史用語集

後唐(こうとう、923–936)は、中国五代十国時代に華北を支配した王朝で、沙陀(シャトー)突厥系の武人勢力を基盤にした李氏(唐の皇室姓を称す)が建てました。建国者の李存勖(りそんくつ/李存勗、廟号・荘宗)は、父の李克用(晋王)の遺領と軍団を継ぎ、923年に大梁(後梁)を滅ぼして即位しました。都は洛陽に置かれ、唐王朝の正統を継ぐという象徴操作が意識的に行われました。925年の前蜀征服で領域は最大化しますが、926年の軍乱で荘宗が崩ずると、同族・重臣間の抗争が激化します。後を継いだ明宗(李嗣源、在位926–933)が小康を回復したものの、皇位継承をめぐる混乱の末、936年に石敬瑭が契丹(遼)の支援を受けて挙兵し、後晋を樹立。後唐は滅亡し、燕雲十六州の割譲という地政学的大転換を招きました。本稿では、成立と展開、統治の性格と社会、対外関係と地政学、歴史的意義の四点から整理して解説します。

スポンサーリンク

成立と展開――沙陀軍閥の「唐」再興、前蜀征服から宮廷内乱へ

後唐の前身は、唐末の節度使・晋王であった李克用と、その軍団(河東の沙陀・漢人混成の騎兵・歩兵)です。五代最初の王朝である後梁(大梁、907–923)は開封(汴州)を都として華北を支配しましたが、李存勖は河北・河東・関中の諸鎮を糾合し、923年に汴州を攻略して後梁を滅ぼしました。新王朝は国号を「唐」とし、都を洛陽に遷すことで、安史乱以前の盛唐への復古的正統性を演出しました。これは、沙陀系の出自を漢地の政治文化へ編入する象徴的手続きでもありました。

荘宗期の最大の軍事成果は、925年の前蜀(907–925)の征服です。蜀は豊かな物資と文化を蓄えた地域でしたが、軍政の弛緩・宮廷の腐敗が進み、後唐の電撃的遠征に抗しきれませんでした。これにより、後唐は関中—四川—華北の広域を掌握し、租税・銅銭・塩鉄などの財源を拡充しました。

しかし、急膨張の代償は大きく、功臣間の利害対立、宦官・女伎・近侍への恩寵、軍団への恩賞不足が重なって、926年に鎮州(趙在)方面の軍が反乱。荘宗は潞州で殺害され、政権は動揺します。これを収拾したのが義兄の李嗣源(明宗)で、926年に即位後は、苛政の是正、税の軽減、恩賞の公平化、官人登用の正常化など安撫的施政を行い、小康を取り戻しました。明宗期には内政の立て直しとともに、北辺への警備、河東・河北諸鎮の調整が進み、五代の中では比較的安定した局面を実現します。

しかし、933年に明宗が崩ずると、幼主の閔帝(李従厚)と義子の末帝(李従珂)の間で主導権争いが勃発し、河中・鳳翔・魏博などの諸鎮が割拠。宰相・近臣・外戚の連携は脆弱で、皇権の私的継承が軍団の自律性を抑えきれなくなりました。こうして、後唐は節度使国家の限界に直面していきます。

統治の性格と社会――節度使国家の構造、唐的制度の再利用と再編

後唐の統治は、唐末来の節度使体制を前提にしています。各地の軍鎮(藩鎮)は独自の財源・兵力・官僚を抱え、中央の詔令は必ずしも末端まで徹底しませんでした。後唐は、唐の官制・礼制・科挙を基本的に踏襲しつつ、実務は枢密院(軍政)・三司(財政)・尚書省(行政)の三本柱を軸に運営されました。明宗期には、租税の軽減や塩鉄専売の調整、兵農の区別・屯田の整理など、財政・軍政の再編が試みられています。

人事・社会面では、沙陀系・漢人系の将校・文官が混在する折衷的人材構成が特徴です。沙陀の王室・軍閥が最高指導層を占める一方、関中・河北・河東の士人・胥吏が行政を担い、科挙(進士科)は細々と継続されました。荘宗期の伶人・宦官の政治介入は混乱の一因とされ、明宗はこれを抑制しようとしましたが、後宮・近侍・外戚の影響力は最後まで無視できませんでした。

経済社会では、戦乱による人口移動と市場の再編が顕著です。前蜀の併合は銅銭・塩・茶の流通を活発化させ、洛陽・開封・長安・成都といった大都市間の交易は復調しました。他方、河北・河東の農村では佃戸化・兼併が進み、豪族・軍戍所の経済支配が強まりました。五代の王朝としては、後唐は文化保護に一定の余力を持ち、寺院の修造・経書の校勘・学問の後援が散見されますが、長期安定には至りませんでした。

対外関係と地政――契丹(遼)との角逐、南方諸国との相剋

後唐の対外関係で決定的に重要なのは、北方の契丹(遼)との関係です。明宗期には辺境での小競り合いと抑止の均衡が保たれましたが、宮廷内の継承抗争が激化するにつれ、諸節度使は外援を求めるようになります。河東の将石敬瑭は、明宗の娘婿でありながら末帝と対立し、契丹の太宗に援軍を請いました。936年、契丹軍の支援で石敬瑭が勝利し、国号を後晋と改めて開封に即位。見返りとして燕雲十六州(幽州・代州・寧州など)を契丹へ割譲しました。この割譲は、華北の防衛線を大きく北から南へ後退させ、以後の宋—遼—金—元の地政学を規定する重大事件となります。言い換えれば、後唐の滅亡は「華北の北門」を恒久的に失った転換点でした。

南方との関係では、江淮以南の十国(呉・南唐・楚・呉越・閩・南漢・荊南など)と抗争と交易が併存しました。前蜀征服で西南を押さえた後唐は、長江中流の荊南・楚と緊張し、江南の呉・呉越とは外交・商業での駆け引きを続けました。後唐の海上権益は限定的で、江南の塩・茶・絹の富は依然として南方諸国が握り、五代十国の南北分断構造は解消されませんでした。

歴史的意義――「唐」名の再演、節度使国家の限界と宋代秩序への橋渡し

後唐の歴史的意義は三つに要約できます。第一に、唐の名の再演が持つ象徴政治です。沙陀系王朝があえて「唐」を名乗り、洛陽に都したことは、草原系軍事勢力が漢地の正統文化を積極的に取り込んで支配の正当性を獲得するモデルを示しました。これは、遼・金・元と続く多民族帝国の文化受容と統治正統化の先例でもあります。

第二に、後唐は節度使国家の頂点と限界を体現しました。強力な軍功と人望を持つ君主(荘宗・明宗)の下では短期的安定が可能でしたが、継承時には軍団と諸鎮の自律性が暴発し、中央集権は崩壊しました。これは、後晋・後漢・後周、ひいては趙匡胤の宋建国(960)において、禁軍・文官官僚制の再編、節度使権限の剥奪へとつながる制度的教訓となりました。

第三に、燕雲十六州の割譲を含む対遼関係の失敗は、宋代以降の北辺外交・軍事の構図を決定づけました。宋が北方回復に苦心し、最終的に金・元との主従関係や二重体制に追い込まれた遠因には、後唐滅亡時の地政学的後退が横たわっています。後唐の短い支配は、五代十国の北半を統合したという達成と、以後の千年を左右する境界の変動という陰影を同時に残したのです。

総じて、後唐は、唐の威名を掲げた沙陀軍閥の王朝であり、五代のなかで最大規模の版図と復古的象徴政治を実現しましたが、節度使体制の内在的矛盾と継承危機、対外関係の誤算によって短命に終わりました。その経験は、宋による文治的再編と北辺地政学の長期的課題へと受け継がれ、東アジア中世政治史の重要な転換点として位置づけられます。