グラント(Ulysses S. Grant, 1822–1885)は、アメリカ南北戦争で北軍(合衆国軍)を勝利に導いた将軍であり、第18代合衆国大統領として戦後復興と黒人市民権の保護に取り組んだ政治家です。素朴で無口、しかし決断は鋼のように固い—そんな人物像で語られることが多く、戦場では執拗な追撃と全軍協同のオペレーションで勝利を重ね、大統領としては再建期(リコンストラクション)の暴力に対し連邦権力を行使して公民権を守ろうとしました。他方で、政権周辺の汚職事件(ウィスキー・リング、クレディ・モビリエ等)や経済恐慌(1873年恐慌)への対応の難しさから長く評価を下げ、20世紀末以降、史料再検討によって軍事的・道徳的資質が再評価されるという揺れを経験しました。要するに、グラントは「勝つための執念」を国家統合に向けて使い切ろうとした希有な軍人・大統領であり、戦後社会の公正をどこまで国家が担保できるかという近代的課題を正面から引き受けた人物です。
生い立ちと形成:オハイオの家とウェストポイント、そしてメキシコ戦争
グラントはオハイオ州ポイント・プレザントに生まれ、皮革業を営む実直な家庭で育ちました。馬の扱いに長け、1839年に陸軍士官学校ウェストポイントへ進みます。成績は中位ながら数学と工兵科目に強く、規律正しい生活と堅実な判断力を身につけました。卒業後は砲兵から歩兵へ配属され、1846年の米墨戦争に従軍して実戦の洗礼を受けます。スコット、テイラー両将軍の指揮下で補給線の維持、偵察、強行偵察を経験し、前線の小隊・中隊規模の機動を体で覚えました。グラントはこの戦争で「勇気は派手な突撃ではなく、危険を承知で命令を遂行する冷静さだ」という信条を固め、のちの南北戦争での慎み深い勇戦に通じていきます。
戦後、彼は西部の僻地勤務や家族との分離、低賃金の生活に苦しみ、一時軍を辞めて商売に従事しますが成功せず、父の紹介でイリノイ州ガレナの皮革商で働きました。南北戦争勃発(1861)とともに州民兵の訓練を引き受け、志願兵大佐から短期間で准将へ昇進、ここから彼の軍歴の第二幕が始まります。
南北戦争:ドンネルソンからヴィックスバーグ、チャタヌーガ、そして終戦
グラントの戦争指揮は、(1)明確な目的、(2)単純だが徹底した実行、(3)補給と機動の一体運用、の三点で特徴づけられます。1862年、テネシー川・カンバーランド川の制圧作戦でフォート・ヘンリー、フォート・ドンネルソンを相次いで攻略し、降伏勧告で有名な「無条件降伏(Unconditional Surrender)」の頭文字から“US”=“Unconditional Surrender” Grantとあだ名されました。ドンネルソンの勝利はミシシッピ渓谷への扉を開き、西部戦線の主導権を北軍にもたらします。
同年のシャイローの戦いでは初日こそ奇襲で苦戦しますが、夜間に増援と兵站を立て直し、翌日反撃して戦場を確保しました。多大な損害に批判も高まりましたが、グラントは「ただ勝つまで戦う(I propose to fight it out on this line if it takes all summer)」という持久戦志向を崩しませんでした。1863年にはヴィックスバーグ包囲戦でミシシッピ川の要衝を陥落させ、合衆国は川を回復して南部を東西に分断します。河川艦隊・陸軍・工兵・諜報を連動させ、湿地と湾曲する河道を使った大胆な迂回機動—この総合オペレーションは、グラントの運用術の粋でした。
つづくチャタヌーガの戦いでは、開戦直後に窮地にあった北軍を再編し、「ミッション・リッジ」への予期せぬ歩兵突撃が勝敗を決しました。1864年、リンカン大統領はグラントを全軍の総司令官(中将)に任命します。彼はバージニア戦線でリー将軍と対峙し、ウィルダネス、スポットシルヴァニア、コールドハーバー、ピーターズバーグ包囲へと連続戦役を展開しました。これらは熾烈な消耗戦でしたが、グラントは戦場を移しても攻勢のテンポを切らさず、南軍の主力を常に拘束し続けました。並行して、シャーマン将軍のアトランタ遠征—海への進軍—を支援し、全戦区協同の同時圧力で南部の国力を摩滅させます。
1865年4月、ピーターズバーグ陥落後、グラントはアポマトックス・コートハウスでリーと会見し、寛大な降伏条件—兵の私有馬の持ち帰り許可、将兵への食料配給—を提示しました。これは内戦の「復讐の連鎖」を止め、農耕の再開を促す現実的配慮で、兵士や国民の記憶に長く残る所作でした。南北戦争における彼の強みは、「大目的のための持久」と「勝敗後の寛容」を同じ手で実行できた点にあります。
政治家グラント:再建と公民権、連邦の責務
戦後、グラントは国民的英雄として1868年大統領選に共和党から出馬し当選します。彼の政治理念は簡潔で、合衆国の統一を揺るがす暴力に対し、連邦政府は憲法に基づいて公民権を守る義務があるというものです。彼の任期(1869–77)に可決・施行された重要法のひとつが第14・15条修正(前者は市民権と法の平等、後者は人種による選挙権剥奪禁止)を実効化する執行法(いわゆるクー・クラックス・クラン法)でした。南部で黒人市民や白人共和党支持者に対する私刑・襲撃が多発する中、グラント政権は連邦軍と司法省を動員し、K.K.K.の指導者逮捕・起訴を進め、暴力の沈静化に一定の効果を上げます。
また、選挙監視・連邦巡回検事の配置、陪審の人種差別是正など、法執行の細部に目配りしたのがグラントの実務家としての持ち味でした。1875年の公民権法(公共施設での人種差別禁止)は、のちに最高裁に退けられるものの(1883年公民権事件)、国家が人種平等を保障しようとする原則の宣言として重要です。グラントの「自由の保護」は、軍事力で勝った後に法と行政で秩序を変える—という一貫した戦略でした。
対外政策では、英米関係の懸案であったアラバマ号問題で仲裁裁判(1872年ジュネーブ仲裁)を受け入れ、賠償金支払いにより長年の怨恨を法で解消しました。キューバ問題やサントドミンゴ併合構想では拙速さや議会の反発も招きましたが、総じて武力より仲裁・条約を重視する「秩序志向」を示しています。先住民政策では、平和政策を掲げつつも、条約破りと西部開拓の圧力を止められず、ブラックヒルズをめぐる対立などで悲劇を防ぎきれませんでした。ここは評価の分かれる難所です。
汚職・恐慌・政権運営の難しさ:評価を曇らせた影
グラント政権を語るとき避けられないのが、側近や政党機構に絡む汚職事件です。ウィスキー・リングでは酒税の脱税ネットワークが摘発され、政権中枢に近い人物の関与が問題化しました。グラント自身は親族や友人を庇う忠誠心の強さが裏目に出て、「人を見る目が甘い」と批判されます。鉄道建設をめぐるクレディ・モビリエ事件は実行時期が前政権期に遡るものの、国民の政治不信を増幅しました。
経済面では、投機熱と紙幣問題(グリーンバック)を背景に1873年恐慌が発生、長期不況へと拡大します。グラントは通貨の健全化(緊縮)を志向し、銀貨復活論に慎重でしたが、失業と賃下げの中で労働争議が広がり、政権の求心力は低下しました。再建政策への北部世論の関心も薄れ、南部から連邦軍が順次撤退すると、「救国派(レディーマー)」の白人政権が復活して黒人の政治参加を圧迫します。1877年妥協(ハイズ政権発足と連邦軍撤退の取引)で再建は事実上終わり、ジム・クロウ法時代へと傾きます。ここに、グラントの理念—国家による平等の保障—が制度として定着しきれなかった限界が表れています。
退任後と『回想録』:借財、病、そして文章による勝利
退任後、グラントは投機家の友人に騙されて財産を失い、借財を抱えて困窮します。不運がつづく中で喉頭がんを患い、余命いくばくもない状況で『グラント回想録』の執筆に着手しました。作家マーク・トウェインの支援で出版された二巻本は、簡潔で率直、数字と地形と意思決定の連関を淡々と描く異色の軍人回想録として高く評価され、家族に経済的安定をもたらしました。死の直前まで書き続けた彼の文体は、戦場での冷静さと人間観察の誠実さをそのまま紙上に移したようで、今日まで米国文学の古典として読まれています。
『回想録』は自己弁護にとどまらず、敵将リーや多くの将兵への敬意を忘れない点が特徴です。勝者の驕りを排し、誤りは誤りとして記す。「正直さ」が彼の晩年のもう一つの勝利でした。
史学上の評価の変化:無能の神話から再評価へ
20世紀前半、グラントはしばしば「粗野で無学、消耗戦でしか勝てない将軍、汚職に甘い大統領」と描かれました。これは敗者側の「失われた大義(Lost Cause)」叙述や、再建期への反感が強かった時代の空気を反映しています。後半以降、作戦研究・兵站史・政治史の進展、黒人史・公民権史の観点の導入により、彼の作戦術(多戦区同時作戦、鉄道・河川の統合運用、攻勢持続の意義)や、公民権擁護の政策的意志が再評価されました。今日では、将軍としては最上位の一群、大統領としても再建の憲政的価値を守ろうとした点で中位から上位へと位置づける見解が広がっています。
評価の鍵は、「勝利のコスト」をどう捉えるかにあります。グラントは人的損耗を厭わなかったのではなく、目的達成に必要な最短経路を選び、散発的な敗北や停戦がもたらす長期的犠牲を回避しようとした—という読解が浸透しています。彼の攻勢持続は「血に飢えた攻撃」ではなく、「戦争の総費用を最小化する計画」だったのです。
総括:執念と寛容、法の名における統合
グラントの生涯は、戦場の執念と終戦の寛容、そして法に基づく統合の三本柱で理解できます。ドンネルソンやヴィックスバーグで示した粘り強い攻勢、アポマトックスでの寛大な降伏条件、そして大統領としてK.K.K.の暴力を抑えるため連邦の警察力を行使した決断—これらは互いに矛盾せず、むしろ戦争を終わらせ社会を再建するための連続した意思でした。人を見る目の甘さや経済政策の限界、先住民政策の挫折といった陰も確かにありますが、国家が公民権を守る責務を実行した最初期の大統領という位置づけは揺らぎません。
要は、グラントは「勝ち方」と「終わらせ方」を知る指揮官であり、その知を政治に持ち込んだ統治者でした。剛毅と率直—その平明な美徳は、きわめて米国的でありながら、普遍的な統治の作法でもあります。彼を学ぶことは、暴力の後に法をどう立て直すかという、近代史の根本問題に向き合うことなのです。

