アルバニア併合とは、1939年4月にイタリア王国がアルバニアへ軍事侵攻し、短期間で政権を崩壊させたのち、同年4月12日にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を「アルバニア国王」として戴く体制を整え、外交・軍事・経済を実質的にローマの管理下へ置いた出来事を指します。形式上は両王冠の個人連合(連合王冠)という法装置が用いられ、アルバニアの法主体が名目上は存続しましたが、行政・治安・対外政策はイタリアの総督・軍司令部と官僚機構により掌握され、実態としては従属的な統合でした。1930年代のティラナ条約を通じた依存深化の帰結として理解される一方、第二次世界大戦の拡大と結びつき、対ギリシア戦・バルカン再編・レジスタンスの形成を誘発した転回点でもありました。
本項では、1939年の侵攻から連合王冠体制の確立、統治の仕組みと社会経済政策、対外戦争と領域再編、抵抗と崩壊、そして用語と記憶の整理という順に、アルバニア併合の全体像をわかりやすく解説します。併せて「保護国」「併合」「個人連合」という近似概念の違いにも注意を払い、法形式と現実の統治のズレを明確にします。
成立の経緯:1939年の侵攻と連合王冠の設定
1930年代のアルバニアは、アフメト・ゾグ(ゾグ1世)による王制の下、近代化と秩序の回復を掲げつつも、資金・軍備・貿易でイタリアへ強く依存していました。1926年と1927年のティラナ条約は、友好・安全保障・防衛協力を段階的に強化し、イタリア資本は銀行・港湾・鉱山・インフラへ浸透します。ムッソリーニ政権は、アドリア海の対岸支配という地政上の野心から、アルバニアを橋頭堡として確保する方針を固めていきました。
1939年4月7日、イタリア軍はドゥラスやヴロラなどの港湾に上陸し、短期間の戦闘で軍事拠点と首都ティラナを制圧しました。ゾグ1世は王妃とともに国外へ退去し、政権中枢は瓦解します。ムッソリーニは迅速に政治的正当化の装置を用意し、4月12日、ティラナの議会は王位の廃位とイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世への王位奉呈を決議しました。これにより、イタリア国王がアルバニア国王を兼ねる連合王冠(個人連合)が成立し、ローマは「併合ではなく王冠の統合」と説明しました。
統治の現場では、国王代理(ルオゴテネンテ、一般に総督に相当)としてフランチェスコ・ヤコモーニが任命され、アルバニア政府の首班にはシェフチェト・ヴェルラチ(のちムスタファ・メルリカ=クルヤら)が就きました。もっとも、政策決定の主導権は在地政府よりもイタリア官僚・軍指揮部にあり、治安・外交・財政の中核はローマの統制下に置かれました。法形式は「王国の連合」でしたが、機能的には保護国化+占領統治に近い体制だったと言えます。
統治の仕組みと社会経済:行政・治安・経済の一体化
連合王冠体制の下で、アルバニアの行政機構はイタリアの官僚制度に準拠して再編され、中央省庁の上位に総督府とイタリア顧問団が配置されました。治安はイタリア軍と憲兵組織(カラビニエリ)の統制に入り、反体制活動の監視と弾圧が強化されます。都市部では、道路・橋梁・港湾・学校・病院などの公共事業が推進され、目に見える近代化が進みましたが、その費用と設計はイタリアの軍事・経済戦略に従属していました。
経済面では、リラ建ての信用供与、国立銀行の支配、鉱山(クロム、銅、石油)・電力・港湾の経営権掌握を通じて、アルバニアは原材料供給地・軍事物流の拠点として組み込まれました。農業では穀倉地帯の改良や灌漑が進められたものの、価格と輸送の決定権はローマ側にあり、農民の負担は必ずしも軽減されませんでした。教育・文化政策では、イタリア語教育の拡大とファシズムの青年組織の導入が進められ、象徴空間(記念碑・儀礼)は新体制のプロパガンダに用いられます。
社会の反応は一様ではありませんでした。公共事業や就業機会の増加を評価する声がある一方、地方では徴発・統制・文化的押しつけへの反発が蓄積し、旧王党派・民族主義者・共産主義者など多様な反体制ネットワークが地下で形成されました。併合は、外からの統合であると同時に、内側からの離反を呼び込む契機にもなったのです。
対外戦争と領域再編:対ギリシア戦と「大アルバニア」構想
併合体制は、イタリアの膨張戦略と密接に連動しました。1940年10月、イタリアはアルバニア領内からギリシアへ侵攻しましたが、山岳戦で苦戦し、逆にギリシア軍が北上してアルバニア南部へ進出する局面も生じました。1941年春、ドイツの介入によりギリシアは降伏し、バルカン全域の占領秩序が再編されます。この過程で、イタリアはユーゴスラヴィア分割に伴いコソボの大部分と西マケドニアの一部をアルバニア行政下に編入し、いわゆる「大アルバニア」の枠組みが形成されました。
領域拡大は一部の民族主義層に支持されたものの、治安・行政の負担は重く、民族間緊張や報復の連鎖を生みました。対外戦争の泥沼化は、イタリア本国の戦局悪化と国内不満を増幅し、アルバニアにおける統治の正当性をさらに損ないました。結果として、併合体制は拡張によって安定するどころか、支配のコストと摩擦を増やし、レジスタンスの土壌を広げることになりました。
抵抗・崩壊と戦後の位置づけ:独占領への移行、記憶と用語の整理
1942年以降、アルバニアでは共産党系の民族解放運動(指導者エンヴェル・ホジャ)と、王党派・民族主義者に連なる勢力が各地で武装抗争を展開し、山地の拠点と都市の地下組織がイタリア軍・警察と衝突しました。1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊し、9月にイタリアが連合国へ降伏すると、ドイツ軍が直ちにアルバニアを占領し、イタリアの連合王冠体制は消滅します。以後、ドイツはアルバニアに形式的な独立政府を設けつつも、軍事占領のもとで資源と治安を直轄しました。
1944年末、ホジャ率いる民族解放軍がティラナを掌握し、戦後は社会主義体制へ移行します。1939年の併合は、戦後の記憶において「ファシズムによる隷属と抵抗」の物語の起点に位置づけられ、ゾグ体制の失敗とイタリア依存の代償として語られました。他方で、公共事業の遺構や都市改造の一部は、戦後も実用上継承され、近代化の痕跡として複雑な評価を受けます。
用語上の注意として、アルバニアの1939年体制は、イタリア側の法説明では「連合王冠(個人連合)」であって直接の併合ではないとされました。しかし、外交・軍事・経済の実権がローマに集中し、総督が統治の要を握った現実からすれば、歴史叙述上は「事実上の併合」と呼ぶのが一般的です。これを、第一次大戦期の一時的な「保護国」宣言や、戦間期の事実上の保護国化(ティラナ条約を通じた依存)と区別して理解することが、年表上の混乱を避ける鍵になります。
まとめると、アルバニア併合は、イタリアの地中海戦略とバルカン政策の一部であると同時に、アルバニア国家の未成熟な財政・軍事基盤、地域社会の複雑な利害、国際秩序の激変が交差した結果でした。法形式と実態のズレ、拡張による統治コストの増大、レジスタンスの形成と勝利という三つの点を押さえると、この併合が短期の軍事勝利からいかにして長期の政治的敗北へ転じたのかが見えてきます。学習では、①1939年4月の侵攻・4月12日の連合王冠決議、②総督支配と経済編成、③1940–41年の対ギリシア戦と領域再編、④1943年の体制崩壊と独占領、⑤戦後の記憶と用語整理、の五本柱で構成すると理解が安定します。

