アルバニアの保護国化 – 世界史用語集

アルバニアの保護国化とは、1912年の独立宣言と1913年の列強による承認の後も、領域・政体・財政・軍事の各面で大国の監督・介入を受け、最終的にはイタリアの強い影響下に置かれていく一連の過程を指します。狭義には第一次世界大戦期のイタリア・オーストリア=ハンガリーによる保護国宣言、あるいは1939年のイタリアの占領後に整えられた「保護国/連合王冠」体制を指して用いられますが、広義には戦間期のティラナ条約(1926・1927)を通じた経済・軍事の従属化も含みます。アルバニアの場合、「保護国」と「併合」や「個人連合(連合王冠)」が複雑に交錯し、法形式と実態が乖離しがちでした。学習では、1914年の国際管理、第一次大戦中の占領下保護国化、戦間期の事実上の保護国化、1939年の占領後体制という四つの段階に分けて整理すると全体像が鮮明になります。

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概念と前史:独立承認と列強の監督、境界問題の遺産

1912年、ヴロラでアルバニアの独立が宣言され、1912–13年のロンドン会議で「アルバニア公国(Principality of Albania)」の成立が国際的に承認されました。しかし、その主権は出発点から脆弱でした。第一に、国境の確定は列強の裁定で進み、多数のアルバニア人が国境外(コソボ、マケドニア、モンテネグロ側)に残されました。第二に、政体の設計は列強の監督を受け、財政・治安・関税の運営は「国際管理委員会(International Control Commission)」による監督に置かれました。第三に、ギリシアやセルビアとの係争(北部・南部の帰属、エピルス問題)が続き、独立国家としての統治能力が問われ続けます。こうした構図のもと、1914年3月にはドイツ系のヴィルヘルム・ツー・ヴィートがアルバニア公として即位しましたが、国内秩序の動揺と第一次世界大戦勃発で政権は短命に終わり、公国は実質的に空洞化しました。

この段階から既に、アルバニアは「国際承認はあるが、列強による保護・監督のもと」という準保護国的な位置に置かれていたと言えます。財政・治安の外部依存は、のちの保護国化の素地となりました。

第一次大戦期:占領地政と保護国宣言(1914–1918)

第一次世界大戦期、アルバニア領は連合国・同盟国双方の軍が進出する縦横の舞台となりました。1916年にはオーストリア=ハンガリーが北部を占領し、行政・教育・軍務の枠組みを整え、併せて「保護」の名目で影響力を及ぼしました。他方、イタリアはアドリア海対岸からの橋頭堡として中南部に兵力を展開し、1917年6月にジロカストラでアルバニア保護国を宣言します。両者の宣言は互いに競合し、実効支配の範囲も限定的でしたが、国際法上の保護国概念(外交・防衛を保護国が担い、被保護国の内部自治を一定範囲で認める)を踏まえた言語で正当化が図られました。

もっとも、これらの「保護国」は連合・同盟両陣営の戦時政策の産物であり、広範な国際承認を得た恒久的体制ではありませんでした。1918年の休戦とパリ講和の潮流の中で、オーストリア=ハンガリーの崩壊により北部の占領は消滅し、イタリアの駐屯も国際的駆け引きの中で縮小・撤退を迫られます。戦後秩序の再設計は、アルバニアの主権回復と国境再確定をめぐる新たな争点を生みました。

戦間期の事実上の保護国化:ティラナ条約、金融・軍事の従属(1925–1938)

戦後混乱の後、アフメト・ゾグが政界で台頭し、1925年に共和国大統領、1928年にゾグ1世として国王に即位します。この間、国家の財政・軍備・制度を建て直す必要に迫られたアルバニアは、資金・軍事顧問・貿易でイタリアに深く依存するようになりました。1926年の第1次ティラナ条約(友好・安全保障条約)は、両国の政治的協力と治安協力を明文化し、続く1927年の第2次ティラナ条約(防衛同盟)は、軍事的な緊密化を一段と進めました。イタリア資本は国立銀行(後のアルバニア国立銀行)やインフラ、鉱山、港湾に浸透し、軍事顧問団・訓練・装備供与が常態化します。

形式上、アルバニアは主権国家であり続けましたが、金融・関税・軍備の中核がイタリアの影響下に置かれ、外交面でもイタリアの方針と歩調を合わせる局面が増えました。これをもって「事実上の保護国化」と捉える見解は少なくありません。ゾグはバランス外交で英仏やユーゴとの関係改善を模索しましたが、イタリアの梃子は年々強まり、1930年代後半には独立維持の余地が細っていきます。

1939年:占領と「保護国/連合王冠」体制の成立、法形式と実態

ムッソリーニ政権の膨張政策の下、1939年4月7日、イタリア軍はアルバニアに上陸・占領しました。ゾグ1世は国外へ退去し、4月12日にティラナの議会は王位の廃位とイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世への王位奉呈を決議、イタリア王が「アルバニア国王」を兼ねる形の連合王冠(個人連合)が宣言されました。併せて、外交・軍事・経済政策はローマの監督下に置かれ、総督・高等弁務官・軍司令官が実権を握ります。法形式上は「併合」ではなく、アルバニアの法主体を維持したままイタリア王冠と結びつける体裁が採られましたが、実態はイタリアの保護国的支配—むしろ従属的併合に近い統合—でした。

占領後、イタリアは道路・港湾・行政機構の再編を進め、対外的にはバルカン政策の一環としてアルバニアを橋頭堡化しました。第二次世界大戦が拡大すると、アルバニア社会では共産党系・民族主義系の抵抗運動が広がり、1943年にイタリアが降伏するとドイツ軍が占領を引き継ぎます。1944年末にエンヴェル・ホジャ率いる勢力が政権を掌握し、戦後の社会主義体制へと移行しました。1939年の「保護国/連合王冠」体制は、戦後の記憶では「ファシズムによる隷属」として位置づけられ、独立の連続性は抵抗運動の正統性と結び付けられました。

用語と学習の要点:保護国・併合・個人連合の区別、年表の骨格

用語の整理が重要です。第一に、保護国は、国際法上、外交・軍事など外部主権の一部を保護国に委ね、内部自治を残す関係を指します。アルバニアでは1917年のイタリア宣言・1916年の墺洪の統治がこの語に近い事例です。第二に、併合は被併合国の法主体を消滅させる強い統合を意味します。1939年のアルバニアは法形式上は「個人連合・保護国的統合」に近い体裁でしたが、実態は併合に匹敵する従属でした。第三に、個人連合(連合王冠)は、一人の君主が複数国家の王位を兼ねる関係で、国家は別個の法主体を保ちます。1939年の体制はこの形式を採り、イタリアの支配を正当化しました。

年表の骨格は、①1912独立・1913承認、国際管理委員会による監督、②1914ヴィード公即位と退去、③1916–18占領と伊・墺洪の保護国宣言、④1925–28ゾグの台頭と王制、⑤1926・27ティラナ条約と依存深化、⑥1939占領と連合王冠=保護国的支配、⑦1943伊の降伏と独軍占領、⑧1944政権掌握と戦後体制、という流れです。この骨格に、地名(ヴロラ、ティラナ、ジロカストラ)、人物(ゾグ1世、ヴィルヘルム・ツー・ヴィート、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、ムッソリーニ)、条約名(ティラナ条約)を紐づけると、叙述が安定します。

総括すれば、アルバニアの保護国化は、バルカンの地政と列強の均衡、国内国家建設の遅れと財政基盤の脆弱性が絡み合った帰結でした。1910年代の戦時的保護、戦間期の事実上の保護国化、1939年の占領下の「保護国/連合王冠」体制は、形式は異なりますが、いずれも外部の権力がアルバニア国家の主権を骨抜きにした点で一貫しています。用語の精密さ—保護国・併合・個人連合の峻別—を保ちながら、各段階の実態に目を向けることが、歴史の理解を深める最短距離です。