イェニチェリ – 世界史用語集

イェニチェリ(Yeniçeri, Janissaries)は、オスマン帝国の中核歩兵として14世紀後半から19世紀初頭まで機能した常備軍であり、宮廷直属の「戸口の奴隷(カプクル)」に位置づけられる職業軍人集団です。創設は一般にムラト1世(在位1362–1389)期とされ、宮廷家産の一部として組織されました。彼らは当初、禁欲・未婚・商売禁止を原則とする厳格な規律のもと、火器導入とともに帝国の拡張を支えましたが、17世紀以降は補充制度の形骸化と都市社会への浸潤を通じて政治勢力化し、たびたび反乱や宮廷クーデターに関与しました。19世紀の近代軍制改革に抵抗した末、1826年の「吉祥事件(ヴァカーイ・ハイリエ)」でムハンマド2世によって廃止されます。本稿では、成立と制度、補充・訓練・日常、軍事的役割と政治介入、変質と廃止の過程を整理します。

イェニチェリは、オスマンの地方封建的な騎士(ティマール保持のスィパーヒー)とは異なり、宮廷の財産に編入された常置歩兵として俸給(ウルフェ)を受ける集団でした。彼らは帝都と宮廷に近い位置に置かれ、皇帝の即応兵力として対外遠征・都市駐屯・宮廷儀礼の三機能を併せ持ちました。この「家産軍」的性格が、後に政治的介入を可能にする条件ともなりました。

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成立と制度:宮廷奴隷軍制と軍団の骨格

イェニチェリの母体は、オルハン期の歩兵(ヤヤ)・騎兵(ミュセッレム)といった初期兵力の常備化にあり、ムラト1世期に「新しい軍団(イェニ・チェリ)」として宮廷直属の歩兵コアが整えられました。制度上は「新軍団(イェニチェリ・オジャウ)」と呼ばれ、最終的には二百前後の中隊(オルタ)に編成され、各オルタは番号と専門に応じた役割を持ちました。軍団長はイェニチェリ・アーアで、宮廷の高官と直結し、参謀格のアガたちや太鼓隊メフテル、補給・砲兵・工兵と連携して作戦に当たりました。

軍団は宮廷奴隷制(クル制度)に基づき、法的には皇帝の私有民でした。この点は、領地に根ざす地方騎士と対照的で、皇帝が直接に俸給と昇進・懲罰を通じて統制できる利点を生みました。彼らの象徴的な被服であるフェルト帽(ボルク)や制服、儀礼に用いる大釜(カザン)と太鼓(メフテル)は、軍団の団結を示す標章であり、反乱時には「大釜を翻す」行為が集団の意思表示となりました。

宗教的には、ベクタシュ派のスーフィー教団との紐帯が有名です。入団儀礼や連帯の象徴にベクタシュの語彙が用いられ、精神的な結束と規律の内面化を支えました。もっとも、この関係は時代により濃淡があり、政治状況に応じて強調・抑制が繰り返されます。

補充・訓練・日常:デヴシルメからアジャミ養成、俸給と生活

イェニチェリの補充で最も知られるのが、キリスト教徒の少年を徴発してイスラームに回帰させ養成する「デヴシルメ(童子徴発)」です。これは主として15~16世紀にバルカン半島で実施され、村ごとに選抜された少年は帝都へ送られ、イスラームの基本とトルコ語を学んだのち、宮廷学校(エンデレウン)へ進む秀抜層と、歩兵養成の「アジャミ・オジャウ」に振り分けられました。前者は官僚・宮廷要員(内廷)へ、後者はイェニチェリの中核兵力へと成長します。

アジャミ段階では、体力鍛錬、隊列行進、射撃、工兵作業、城攻めの技術、兵站の基本が徹底されました。イェニチェリは欧州でも早期から火器の集団運用を取り入れ、15世紀後半から16世紀にかけて火縄銃の一斉射撃と防楯・砲兵の連携で威力を発揮しました。攻城戦では土木と火器の複合運用で、塹壕掘削や地雷・対地雷戦にも熟達しました。

俸給(ウルフェ)は四半期ごとに支給され、遅延はしばしば不満と動揺の原因となりました。兵籍証券(エサメ)は売買の対象となり、非現役者が俸給を受ける「幽霊兵」の温床にもなります。当初禁じられていた結婚や商売は、16世紀末から17世紀にかけて黙認・解禁が進み、イェニチェリは都市の同業組合やコーヒーハウスに出入りする市民層へと変質していきました。これは生活基盤の多角化をもたらした一方、軍団の即応性と規律を損なう要因ともなりました。

生活文化の側面では、太鼓・管楽による軍楽メフテルが軍の士気高揚と行軍統制を担い、衣装・鍋・食事規律などが強い象徴機能を持ちました。大釜は共同体の中心であり、これをひっくり返す行為は、統帥への反抗を明示する儀礼的ジェスチャーでした。イェニチェリは都市の祭礼や儀式にも参加し、宮廷の祝典で整然とした列を披露して帝国の秩序を演出しました。

軍事的役割と政治介入:征服の歩兵から「宮廷政治の担い手」へ

イェニチェリの軍事的威名は、1453年のコンスタンティノープル攻略に象徴されます。大砲による城壁破砕と歩兵突撃の連携は当時の最先端で、塹壕と掩体に守られた火器歩兵の継戦能力は、都市攻囲戦で大きな効果を発揮しました。以後、ハンガリー遠征や地中海岸の攻略でも、砲兵・工兵との複合兵種戦において中核を担います。

しかし、16世紀後半から17世紀にかけて欧州の軍制近代化が進む中で、イェニチェリも装備更新と訓練の再編を迫られました。マスケット射撃の訓練は続いたものの、軍団の膨張と規律の弛緩、地方軍(スィパーヒー)との連携不全が目立つようになり、対ハプスブルクやポーランド=リトアニア、サファヴィー朝との戦争では伸び悩みが見られます。1683年の第二次ウィーン包囲の失敗は、大規模攻囲戦の限界と補給の弱さを露わにしました。

政治史の側面では、イェニチェリはしだいに自律的な政治主体へと変貌しました。俸給支給の遅延、物価高、軍団内外の利権化が、彼らを宮廷の人事や財政に口を出す「圧力団体」へ変えます。1622年、若年のオスマン2世が近代化を志してアナトリア遠征と軍制改革を画策すると、イェニチェリはこれに反発して蜂起し、国王を廃位・殺害する事態に及びました(オスマン2世殺害)。1703年のエディルネ事件では、宮廷の移転と税負担に対する都市の不満と結びついてイェニチェリが動員され、政権交代を引き起こします。1730年のパトロナ・ハリルの反乱でも、チューリップ時代の贅沢批判と軍制改革反発が結合し、スルタン・アフメト3世が退位に追い込まれました。

このように、イェニチェリは軍事力を背景に宮廷政治の「拒否権」を持つようになり、改革のたびに抵抗の中心に位置しました。彼らのコーヒーハウスや行会は、都市社会の言論空間とも接続し、皇帝権力と官僚制の均衡を揺り動かす常在的要因となりました。

変質と廃止:近代軍制との衝突と「吉祥事件」

18世紀末、セリム3世は「新秩序軍(ニザーム・イ・ジェディード)」を創設し、西欧式訓練・装備の歩兵を別枠で育成しようとしました。これは歳入の新設や訓練場の整備を伴うもので、既得権を脅かされたイェニチェリは強く反発しました。1807年、カバックチ・ムスタファの蜂起によりセリム3世は退位・殺害され、改革は頓挫します。続くマフムト2世は、宮廷儀礼・衣制・官僚制の刷新を進めながら機をうかがい、近代軍創設の障害となるイェニチェリ排除の決断に向かいます。

1826年、イェニチェリは再び新式訓練への参加を拒否して蜂起の構えを見せました。マフムト2世は「神聖旗(スンマン・シェリフ)」を掲げて都市の宗教勢力と官僚・地方軍を糾合し、イェニチェリ兵舎を砲撃して鎮圧しました。この事件はオスマン史で「吉祥事件(ヴァカーイ・ハイリエ)」と呼ばれ、軍団は正式に解散、財産は没収、首謀者は処刑され、関連深いベクタシュ教団も抑圧されます。以後、近代的歩兵(後のアスアケリイェ)と砲兵・工兵を核とする正規軍が整備され、衣制・鼓笛・行進・訓練は欧州式に再編されました。

イェニチェリ廃止は、単に旧弊を一掃する出来事ではなく、帝国の軍事・財政・宗教・都市社会にまたがる大規模な制度転換でした。俸給台帳(エサメ)の整理、都市ギルドと軍団の関係断絶、宗教秩序の再配線、宮廷儀礼の更新など、多方面で連鎖的な変化が生じます。軍事的には、歩兵の訓練と指揮系統が整理され、火器運用や工兵技術は一段と標準化されましたが、人的損失とノウハウの断絶も小さくなかったため、実戦力の回復には時間を要しました。

歴史評価の観点から見ると、イェニチェリは二つの相反する像を併せ持ちます。一つは、火器の早期採用と常備化によって中世の軍事構造を更新し、オスマンの拡張を牽引した「革新の担い手」という像です。もう一つは、都市社会に根を張った既得権集団として改革を阻む「保守の象徴」という像です。両者は時代段階の違いを映すもので、制度は成功ののちに自己を硬化させ、変化のコストを恐れて抵抗勢力に転化しうる、という歴史の皮肉を体現しています。

最後に、イェニチェリ理解の要点をまとめます。第一に、彼らは「封建騎士」でも「単なる傭兵」でもなく、皇帝家産に直結する俸給歩兵でした。第二に、補充制度(デヴシルメ)と養成(アジャミ)によって文化的・宗教的な変換を伴う社会工学が行われ、その成功が帝国の行政・軍事エリート供給と連動しました。第三に、都市社会への浸潤と政治的自律化が軍団の性格を変質させ、宮廷と都市を結ぶ権力回路の中核となりました。第四に、近代軍制への転換局面では最大の抵抗勢力となり、1826年の武力的解体をもって歴史的役割を終えました。イェニチェリは、軍制の発達史と国家形成、都市社会、宗教運動の接合点に立つ、極めて複合的な歴史主体なのです。