自治領(じちりょう、Dominion)とは、主として大英帝国の内部で、宗主国(イギリス)への形式的忠誠と王冠(クラウン)共有を保ちながらも、内政では責任内閣制に基づく広範な自治、しだいに外交・軍事を含む対外権限まで獲得していった「半独立的」な政治単位を指す用語です。19世紀後半に白人入植地の「自営的支配」から始まり、第一次世界大戦や帝国会議を経て、1931年ウェストミンスター憲章によって法的に「英国と法上平等の共同体」へ格上げされました。第二次世界大戦後は、インドやパキスタン、セイロン(スリランカ)などアジア・アフリカの新独立国が一時期「自治領(コモンウェルス王国)」として独立し、その後共和国化へ進む例が相次ぎました。要するに自治領とは、帝国から主権国家群への漸進的移行を可能にした中間制度であり、立憲君主制・責任内閣制・連合王国との王冠共有・対外主権の分有という複合の仕組みだったのです。
定義と制度の骨格――責任内閣制、王冠共有、対外主権の漸進
自治領の出発点は、自営的支配(responsible government)と呼ばれる地方政府の成立です。これは議会の多数派が行政府(内閣)を担い、総督・副王は慣例上、地元内閣の助言に従って行動するという原理を指します。初期段階では、外交・通商条約・宣戦講和・最高裁判(枢密院への上訴)などはロンドンが握り、植民地は内政に限って自治を行いましたが、戦争動員や国際交渉の経験が積み重なるなかで、対外権限も現地政府へ移譲されていきました。
法的には「王冠(クラウン)」の観念が鍵になります。自治領は英国王(後の英連邦王)を共通の君主として戴きつつ、その王冠は各自治領で「別個・平等の王冠」として作用します。すなわち、同一人物がカナダ国王・オーストラリア国王・ニュージーランド国王…として〈複数の王冠〉を帯び、現地の総督(Governor-General)はその国王の代理として、現地内閣の助言にしたがって権能を行使します。この「同君連合」と「現地責任内閣」の組み合わせが、自治領の憲政的コアでした。
外交主権の拡張は段階的でした。カナダのハリバット条約(1923)は、英国の共同署名なしで自治領政府が単独署名した先駆的ケースとされ、カナダは自国名義の外交主体性を宣言しました。1926年バルフォア宣言(帝国会議決議)は、英国と自治領が「共同体の中で平等にして、いかなる形でも相互に従属しない」と原則化し、1931年ウェストミンスター憲章がこれを成文法化して、英国議会が自治領の同意なく立法しえないことを確定しました。こうして自治領は、法的にも実質的にも〈主権国家に準ずる〉地位へ到達していきます。
形成と展開(~1939)――白人入植地から「平等な成員」へ
自治領の原型は、英領北アメリカ法(1867)により成立したカナダ連邦に見られます。カナダは自治領(Dominion of Canada)として連邦政府・州政府の二層を持ち、議院内閣制の下で内政を担いました。オーストラリアは各植民地の連邦化(1901)で自治領となり、西敏憲章までは外交・軍事に関してロンドンの統制を受けつつも、第一次世界大戦で大規模な兵力を海外派遣し、国家としての自己意識を強めました。ニュージーランド(1907)、南アフリカ連邦(1910)、ニューファンドランド(1907、後に財政破綻で1934年から直轄の委員統治)、アイルランド自由国(1922、のち共和国へ移行)も同系列に並びます。
第一次世界大戦は自治領の地位上昇に決定的でした。自治領は帝国戦争内閣に参加して戦略決定に加わり、多大な犠牲(ガリポリ、ソンム、パッシェンデールなど)を負いました。その代償として、パリ講和会議では自治領各国が独自代表団を送り、国際連盟でも独自の議席を獲得します。これは「帝国の一部」でありつつ「国家として数えられる」という新しい二重性の公認でした。戦間期には、チュナク危機(1922、トルコ=英国間の緊張)で自治領が英国の対外強硬策に距離を置く姿勢を示し、帝国内の政策統一が難しいことが露わになります。
1926年の帝国会議(バルフォア宣言)は、上述のとおり英国と自治領の法的平等を確認しました。1931年ウェストミンスター憲章はこれを成文化し、自治領の立法が英国法に優越する範囲や、英国議会が自治領の同意なしに立法しえない原則を定めます。ただし、各自治領がいつ・どこまで採用するかは差があり、カナダや南アフリカは即時に適用、オーストラリアは1942年に遡及適用、ニュージーランドは1947年採用と段階差が生じました。アイルランドは1931年を足場に王権の役割を段階的に縮減し、1937年に新憲法(エール)で実質的共和国化、1949年に英連邦を離脱します。
第二次大戦後の変容――アジア・アフリカの独立と英連邦の再編
1947年、インドとパキスタンは「自治領」として独立しました。両国は英国王を国家元首とする同君連合の枠に入り、総督(副王の後継)が国王の代理を務めましたが、インドは1949年、パキスタンは1956年に共和国化します(インドは国王に代えて大統領を元首としつつ英連邦に残留)。セイロン(1948)は自治領として独立し1972年にスリランカ共和国へ、ガーナ(1957)は1960年に共和国化、ナイジェリア(1960)は1963年に共和国化しました。これらは形式上「ドミニオン」の名を明示しないこともありますが、〈英連邦王国=コモンウェルス・レルム〉として王冠共有・総督制度を採った点で機能的には自治領期を経験しています。
この時期の大きな転機は、1949年ロンドン宣言です。英連邦は、君主への忠誠を共通条件としない「自由な国家連合」へ再定義され、共和国も加盟可能となりました。こうして英連邦(Commonwealth of Nations)は、王冠共有よりも協議・技術協力・価値規範(民主主義、人権、法の支配)を重んじる緩やかな枠組みに変わります。カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなどは、のちに「王冠の国内化」をさらに進め、カナダは1982年の憲法愛国法で英国議会の関与を断ち、オーストラリアは1986年オーストラリア法で同様の効果を確定させました。ニュージーランドも1986年法で王権と内閣・議会の関係を国内法化しています。
一方、南アフリカ連邦は自治領から出発しつつ、アパルトヘイト体制の確立とともに英連邦の価値観と衝突し、1961年に共和国宣言と同時に英連邦離脱、その後1994年に民主化ののち復帰という曲折をたどりました。ニューファンドランドは例外的経路で、経済危機のため自治領としての自己統治を停止(1934)し、戦後の住民投票を経て1949年にカナダへ編入されています。こうした事例は、自治領が万能ではなく、財政・社会統合・多民族関係の難題に直面したことを示しています。
論点と学習のコツ――「中間形態」の力学、比較、用語整理
第一の論点は、自治領が「帝国の延命策」か「平和的独立の回廊」かという評価です。批判的視点では、自治領は白人入植植民地を中心に特権的地位を与え、先住民の権利やアジア・アフリカの非白人地域には同等の地位が遅れて与えられた、と指摘されます。他方、漸進主義の視点では、自治領という緩衝形態があったからこそ、武力衝突を比較的抑えた移行が可能だった、と評価されます。どちらにも根拠があり、事例ごとの検討が求められます。
第二は、法技術と政治実務のズレです。ウェストミンスター憲章は平等をうたいましたが、実務では駐英高等弁務官の設置、帝国会議・首脳会議の慣行、王室と総督の関係など、慣習法的運用が重視されました。カナダのキング=ビング事件(1926)やオーストラリアの総督解任権をめぐる1975年の憲政危機は、王冠の残余特権と民主的責任政治の境界をめぐる調整の難しさを示す教材です。
第三は、外交・軍事の自律化の歩幅です。ハリバット条約、チュナク危機、二度の大戦での志願制・徴兵制の採否など、自治領それぞれの決定は、国内世論・地域安全保障・対米関係の影響を受けました。第二次大戦では、自治領は国王を元首としながらも独自に参戦を宣言し、連合国の中で国家としてカウントされました。これらは「同君連合=連邦国家ではない」ことの帰結であり、〈王冠の人格=各国別〉という理解が助けになります。
用語整理のポイントは次の通りです。(1)自治領(Dominion)は歴史的概念で、今日の英連邦王国(Commonwealth realm)と必ずしも同義ではありません。(2)自営的支配(responsible government)は内政の自治原理で、自治領の前提段階です。(3)バルフォア宣言(1926、帝国会議)は「平等の共同体」を原則化、(4)ウェストミンスター憲章(1931)はその法制化、(5)ロンドン宣言(1949)は共和国加盟を可能にして現代英連邦を確立、です。地図学習では、1867年のカナダ連邦、1901年豪州連邦、1907年NZ・ニューファンドランド、1910年南ア、1922年アイルランドの時間軸を並べ、1931年の法的転換線を引くと全体像が掴みやすいです。アジア・アフリカでは、1947年インド/パキスタン、1948年セイロン、1957年ガーナ、1960年ナイジェリアなどを「一時的自治領期→共和国化」のシークエンスとして押さえると整理が進みます。

