アルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorraine, 独: Elsaß-Lothringen)は、1871年の普仏戦争後にドイツ帝国がフランスから割譲を受け、1918年まで帝国直轄領(Reichsland)として統治した歴史的領域を指します。おおまかに現在のフランス領アルザス(バ=ラン県・オー=ラン県)とロレーヌの一部(モゼル県)に相当し、首府はストラスブールでした。ここは中世以来、ライン川とロレーヌ台地の結節に位置する通商・文化の回廊であり、ドイツ語圏とフランス語圏の接点として複数言語・複数宗派・複数の法慣習が重層化していました。19世紀末の国家間競合の中で、この地域は主権の移動・国民国家形成・言語政策・都市計画・高等教育の実験場となり、20世紀の両大戦と欧州統合に至るまでヨーロッパ政治の焦点であり続けました。
この用語は厳密には1871–1918年の法的単位(帝国直轄領)を指しますが、フランス語圏では歴史記憶として広く〈アルザス=ロレーヌ〉という言い方が残り、とくに1940–45年のナチス・ドイツによる事実上の編入期の経験と結びついて想起されます。他方、現代フランスの行政では〈アルザス=モゼル(Alsace-Moselle)〉という法制度上の用語が用いられ、日曜休業や宗教・協会法など一部の特別法(ローカル法)が残置されています。したがって、歴史的単位としての「アルザス・ロレーヌ」と、現行制度や地域区分の語法はきちんと区別して理解する必要があります。
成立と範囲:普仏戦争から帝国直轄領へ
1870–71年の普仏戦争で第二帝政フランスが敗北すると、1871年5月のフランクフルト講和条約により、アルザス全域とロレーヌの一部(主としてモゼル地方)がドイツ帝国へ割譲されました。ドイツ側はこれを帝国の直轄領(Reichsland Elsaß-Lothringen)とし、当初は皇帝の名において任命される総督(のちの〈国家代弁者=Statthalter〉)が統治しました。行政上は、アルザスの北・南とロレーヌ(エルザス北県・南県・ロートリンゲン県に相当する三区分)に大別され、首府はストラスブールに置かれました。
割譲に際し、住民には一定期間内に国籍選択(オプタシオン)の機会が与えられました。ドイツ国籍取得か、フランス国籍を保持してフランス領内へ移住するかの選択です。多くの人が土地・職を離れがたい事情から残留を選び、他方で行政官・軍人・一部の市民はフランス側へ移りました。この「選択の記憶」は、以後の世代にわたり家族史の中で語られることになります。
政治制度は段階的に変化しました。はじめは中央からの官任統治の性格が強く、帝国議会(ライヒスターク)には選挙で代表を送る一方で、地域の自治機構は限定的でした。1902年の行政改革、つづく1911年憲法により、〈州議会(Landtag)〉が設置され、統治の自律性が一定範囲で拡大します。州旗・紋章の制定、司法・教育の整備など、地域的アイデンティティの公的表現も進みましたが、帝国の枠組みの中での自治にとどまり、対外政策や軍事は中央の専権でした。
社会・文化・経済:言語・宗教・都市整備・大学と産業
アルザス・ロレーヌの言語事情は複雑でした。アルザス側ではアレマン語系のアルザス語が、ロレーヌ側ではフランコニア系の方言(ロレーヌ・フランク語)が広く話され、都市部では標準ドイツ語とフランス語の双方が流通しました。ドイツ統治期には行政・教育でドイツ語が優越し、学校教育のカリキュラムや公文書の言語が整えられます。他方、宗教ではカトリックとプロテスタント(ルター派・改革派)が併存し、アルザスの教会音楽や合唱の伝統、ロレーヌの聖地巡礼文化など、多様な宗教実践が継続しました。宗教団体の法的地位は、ナポレオン期のコンコルダートの影響を受けて特例的な取扱いが残り、これが後の〈ローカル法〉の基屎となります。
都市計画では、ストラスブールのノイシュタット(新市街)の建設が象徴的です。旧市街(グラン・ディル)に隣接して行政庁舎・大学・官庁街・広い通りが配置され、石造の重厚な建築群が帝国の威信と近代都市の機能を体現しました。衛生・上下水道・公園・交通が整備され、鉄道路線はロレーヌの鉱業地帯やラインの港湾と結びつきました。こうした都市基盤の更新は、フランス復帰後の都市生活にも長期的な影響を与えています。
高等教育では、1872年にストラスブール帝国大学(Kaiser-Wilhelms-Universität)が再編・拡充され、研究志向の講座と施設(図書館・研究所)が整いました。医学・法学・神学・理学に強く、欧州各地から学者が集まりました。大学の国際性は、戦後に体制が変わっても地域の知的基盤として生き続けます。
経済の柱は、アルザスの繊維(綿織物・染色:とくにミュルーズ)、ロレーヌのミネット鉄鉱の採掘と製鉄、ライン舟運・鉄道による物流、葡萄栽培とワイン、醸造などでした。国境という位置は市場の拡大と関税の壁という両義性をもたらし、産業はドイツ帝国市場へのアクセスを得る一方で、フランスとの商流を組み替える必要に迫られました。
1918年のフランス復帰、ローカル法、そして1940–45年の記憶
第一次世界大戦の終結により、1918年11月にアルザス・ロレーヌはフランスへ復帰し、1919年のヴェルサイユ条約で確定しました。復帰後、行政・司法・教育のフランス化が進められましたが、すべてを一挙に切り替えることは現実的でなく、住民の権利保障や社会制度の継続性を考慮して、ドイツ統治期の一部制度が存置されました。これが今日まで続くアルザス=モゼルのローカル法です。具体的には、宗教法人の地位・聖職者給与・学校の宗教授業(公教育における宗教授業の取扱い)、日曜休業の強化、1908年協会法などが全国一般法と異なる形で適用されます。ローカル法は歴史の遺産であると同時に、地域の生活文化・宗教と国家の関係の独自性を反映する制度的特色となりました。
第二次世界大戦期、1940年のフランス敗戦後にアルザス・モゼルはドイツに法的手続きなしで事実上編入され、バーデンやザールプファルツと結びついたガウ体制の下で強制的ドイツ化が進められました。言語・教育・姓名のドイツ化、抵抗運動への弾圧に加え、多くの若者がドイツ軍に「マルグレ=ヌ(望まぬがゆえに)」として徴兵され戦地へ送られました。さらに、アルザスの山地にはナッツヴァイラー=シュトルホフ強制収容所が設置され、占領・迫害の記憶が深く刻まれました。1944–45年に連合軍が地域を解放し、フランスへの帰属が回復されますが、家族ごとに異なる体験を抱えた社会の再統合は容易ではありませんでした。
戦後、ストラスブールは欧州評議会・欧州人権裁判所・欧州議会などの機関を擁する欧州統合の象徴都市となり、国境の固定と越境協力の両立が進みました。アルザス・ロレーヌの歴史は、対立の記憶を保ちつつ協働の制度を育むための基盤として位置づけ直されています。
用語と現在の位置づけ:アルザス=ロレーヌ/アルザス=モゼル/グラン・テスト
学習上の要点として、用語の整理が不可欠です。第一に、「アルザス・ロレーヌ」は1871–1918年のドイツ帝国の帝国直轄領という法的・歴史的単位を指す名称です。第二に、フランスにおける現行の制度用語「アルザス=モゼル」は、アルザスの二県とロレーヌのモゼル県を指し、ローカル法の適用対象地域を表します(ロレーヌ全域ではありません)。第三に、現代の行政区分としては2016年にグラン・テスト圏(アルザス・ロレーヌ・シャンパーニュ=アルデンヌを統合)が発足し、2021年にはアルザスの二県が統合されてアルザス欧州共同体となりました。したがって、「アルザス・ロレーヌ」は現在の正式な行政単位ではなく、歴史用語として用いるのが妥当です。
また、1871年の割譲・編入で線引きが変わった結果、フランス側のロレーヌでは、旧ムルト県とモゼル県の一部が再編されてムルト=エ=モゼル県が成立するなど、地図の読み方にも注意が必要です。歴史年表を整理するときは、〈1871フランクフルト講和→帝国直轄領発足〉、〈1902行政改革・1911憲法で自治拡大〉、〈1918–19フランス復帰とローカル法の存置〉、〈1940–45事実上の編入と強制同化〉、〈戦後の欧州機関立地〉という節目を押さえると、地域の変化が立体的に見えてきます。
総括すれば、アルザス・ロレーヌは、ヨーロッパにおける境界の政治学を象徴する地域です。国家・言語・宗教・法の境界が重なり合うことで葛藤と創造が生まれ、結果として現在のローカル法や越境協力という二つの〈遺産〉が残りました。資料や用語を厳密に扱いながら、住民の生活世界と大国政治の交錯を読み解くことが、この地域を理解する最短コースです。

