キリスト教布教の禁止 – 世界史用語集

「キリスト教布教の禁止」とは、国家や地域権力がキリスト教(カトリック・プロテスタント・正教の別を問わず)による改宗活動・宣教活動を法令によって制限または禁圧した政策の総称です。単に信仰の私的保持を黙認する場合と、公的・私的を問わず信仰実践全体を犯罪視する場合があり、禁止の射程は歴史と地域によって大きく異なります。背景には、宗教秩序の保全、主権や礼制の防衛、治安・徴税・兵役など統治上の配慮、そしてしばしば対外関係(植民地拡張や外交圧力)への警戒が重なっていました。本項では、概念と類型、古代から近世・近代にかけての主要事例(ローマ帝国、日本、朝鮮、清・中国、ベトナムなど)、近現代の変容、禁止が社会と国際関係にもたらした影響を、分かりやすく整理して解説します。

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概念と類型:何が禁じられ、なぜ禁じられたのか

布教禁止は、しばしば次の三段階に分けて理解できます。第一は「公的布教の禁止」です。教会堂の新設・集会・改宗勧誘・出版・教職者の任命や移動など、可視的な宣教活動を制限します。第二は「信仰実践の制限」です。洗礼・聖餐・聖像・聖職者との交わりなどの宗教行為を罰則対象にします。第三は「信仰そのものの刑罰化(背教強要)」で、踏み絵・改宗誓約・礼拝強要といった行為で信者の内心変容を迫ります。各国はこの三層を組み合わせ、時々の政治事情に応じて強弱を調整しました。

禁止の論理は大きく四つに整理できます。(1)宗教秩序と礼制の保全:在来宗教や国家祭祀(祖先祭祀、皇帝崇拝、王朝儀礼)に対する不参加を「反秩序」と見なす論理です。(2)主権と文化の防衛:外国勢力の内政干渉・植民地化の前段と疑う論理で、宣教師を外交・軍事の尖兵と見る視線が含まれます。(3)治安・徴税・兵役への配慮:宗教共同体による自治や相互扶助が、国家の戸籍・租税・兵役制度と衝突するという懸念です。(4)法と共同体の一体性:家父長制や村落結合、身分秩序をゆるがす「改宗の自由」への抵抗です。これらの理由は単独ではなく、しばしば複合して動きました。

古代ローマ:皇帝礼祭と市民秩序の枠内での禁圧

ローマ帝国におけるキリスト教禁圧は、今日の意味での「布教の禁止」と「宗教の非合法化」がほぼ重なります。とくにデキウス(249–251年)の「犠牲証明書」政策は、帝国臣民に皇帝・ローマ神々への祭儀参加を義務付け、キリスト者の拒否を処罰しました。ヴァレリアヌス(257–258年)は聖職者と富裕信徒を標的化し、ディオクレティアヌス(303年以降)の「大迫害」では聖書焼却・教会破壊・礼拝禁止が全帝国的に断行されました。ここで禁じられたのは、単なる改宗勧誘にとどまらず、全てのキリスト教的礼拝と結社活動でした。313年の寛容化(いわゆるミラノ勅令)まで、この体制が断続的に続きます。

近世東アジア①:日本における禁教体制(16~19世紀前半)

日本では、16世紀後半にカトリック宣教が急速に広がりましたが、豊臣政権下の伴天連追放令(1587年)を嚆矢として、徳川幕府が禁教を制度化しました。1612年・1614年のキリシタン禁制令は、公的布教を全面禁止し、宣教師追放・教会資産没収を命じました。1630年代の島原・天草一揆(1637–38年)は、宗教と年貢・飢饉・領主支配が絡んだ蜂起として幕府の警戒を決定的にし、以後の鎖国令と連動して禁教は徹底されます。

幕府は「踏み絵」「宗門改」「寺請制度」という三つの装置で信仰を可視化・抑圧しました。踏み絵は毎年、キリスト・マリア像を踏ませることで内心の信仰を測る試験として機能し、寺請制度は全国民に寺院発行の身分証(寺請証文)を強制することで、仏教寺院を行政補助機関に組み込む措置でした。宣教師・信徒は摘発され、殉教・改宗・隠匿の三つの選択に追い込まれます。長崎・五島・外海・対馬などでは「潜伏キリシタン」が、洗礼・祈祷・祖先儀礼を折衷させつつ、数世代にわたり信仰を秘匿して継承しました。19世紀後半、浦上での信徒発見と弾圧(浦上四番崩れ)を経て、明治政府は禁教を撤回し、解禁・信教の自由へと転じますが、それは近代国家の条約改正・欧米対応とも密接に結びついていました。

近世東アジア②:朝鮮(李氏朝鮮)の迫害と禁教

朝鮮では、18世紀末に自発的な書物伝道(実学者層のカトリック受容)を契機として信徒共同体が生まれ、19世紀前半にはフランス宣教師の地下活動が加わりました。王朝は儒教的礼制(祖先祭祀)を国家秩序の基礎とみなし、カトリックの祭祀拒否を「不孝・不忠」と断じました。1801年の辛酉迫害、1839年の己亥迫害、1846年の丙寅迫害、1866年の丙寅迫害(大院君期)など、断続的に大規模な禁教・弾圧が行われ、多数の殉教者を出しました。1866年にはフランス軍の報復遠征(丙寅洋擾)を招き、禁教は対外関係とも直結しました。朝鮮における禁教の特徴は、村落共同体の連座と儒礼秩序の防衛、そして外国勢力の内政干渉への恐怖が重なっていた点にあります。

中国(清朝)とカトリック禁制:儒礼・典礼・主権の問題

中国では、明末清初にイエズス会が学術・天文・製図の知を携えて宮廷・士大夫と交流し、当初は一定の寛容がありました。しかし、祖先祭祀や孔子崇敬を「宗教行為か社会礼儀か」をめぐるいわゆる「典礼論争」でローマ教皇庁と清朝の理解が対立し、康熙帝はローマの禁令に反発、雍正帝(1724年)はカトリックを邪教として全面禁制としました。布教は地下化し、宣教師の拘束・追放、教会堂の没収・転用が進みます。19世紀のアヘン戦争以降、不平等条約で宣教の自由が認められると、禁教は逆に列強の内政干渉の通路となり、地方社会での摩擦(教案事件)を引き起こしました。すなわち、禁教→地下化→条約での再合法化→社会対立という振幅が、中国では顕著でした。

東南アジア:阮朝ベトナムの禁教と仏軍介入

ベトナムでは、阮朝の明命帝(在位1820–1841)以降、キリスト教禁制が強化されました。祖先祭祀・王朝儀礼への不参加、村落秩序の攪乱、外国勢力との結託の疑いが理由とされ、宣教師追放・信徒摘発・拷問・遺体損壊など苛烈な弾圧が繰り返されました。自国の主権と文化秩序を守るための政策でしたが、フランスは禁教を口実に軍事介入を進め、19世紀後半の保護国化・植民地化へつながります。布教禁止は、対外政治と国内の宗教政策が絡み合う典型例でした。

近代・現代:世俗国家・全体主義・安全保障の名の下で

近代以降、明文で「キリスト教布教」を禁ずる条項は国際的には減少しますが、別の形の制限が現れます。ロシア帝国やソ連は、正教の国家宗教としての優位(帝政期)や無神論的政策(ソ連期)の下で、他教派(とくにプロテスタントなど)の宣教を制限・監視し、ソ連では宗教活動全般が厳しい統制を受けました。東欧の社会主義諸国、中国の中華人民共和国でも、宗教活動は登記・公認宗教団体の枠内に限定され、未登録の家庭教会や海外宣教師の活動は処罰対象となることがありました。ここでの論理は、国家安全保障・社会安定・外国勢力の影響排除という近代的言語で語られます。

中東・北アフリカの一部国家では、ムスリムに対する改宗勧誘(プロソリティズム)が刑法・宗教法で禁じられ、他宗教からイスラームへの改宗は容易でも、逆方向の改宗やそれを促す布教は厳しく制限されます。インドやネパールの州法・国法には、改宗に関する規制(詐欺・強制・誘導による改宗の禁止)を名目としつつ、実際にはキリスト教宣教を萎縮させる形で運用される例が見られます。いずれも、名目的には「自由な意思」を守るとしながら、特定宗教間の力学や民族政治が背景にあります。

禁止の手段と運用:法・儀礼・登録・空間管理

布教禁止の実務は、多層的な装置の組み合わせで運用されました。(1)法令と刑罰:禁教令、布教罪、治安条例、出版規制、外国人管理法などで、宣教師の入国・滞在・移動・出版・集会を制限します。(2)宗教登録と監督:寺請制度・教会の公認登録・宗教局による管理など、信仰共同体を行政の視野に入れます。(3)儀礼的強制:踏み絵・祖先祭祀への強制参加・国家儀礼の義務化など、日常の中で信仰の可視化と「逸脱」の摘発を可能にします。(4)空間と記号の管理:教会堂の取り壊し・転用、象徴物の撤去、殉教地の封鎖など、宗教景観を再設計します。これらの手段は、強制だけでなく、懐柔・分断(改宗者優遇、共同体内対立の利用)といった統治技法と併用されました。

社会・文化・国際関係への影響:地下化、抵抗、外交介入、文化の混淆

禁教は、しばしば「地下化」と「抵抗」を生みます。日本の潜伏キリシタン、朝鮮の隠れ信徒、中国の地下教会、東欧のカタコンベ的ネットワークなど、非公開の礼拝・秘跡・教育が独自の文化(口伝、祈祷文、象徴の変容)を育てました。他方、禁教は国際政治の口実となり、列強の軍事的・外交的介入を招くことも多々ありました。ベトナム、清朝末期の中国、李氏朝鮮などはその典型です。

文化の面では、禁教下でも相互影響は止まりません。信徒は在来宗教・民俗と折衷し、祭祀や年中行事にキリスト教的意味を忍ばせました。迫害の記憶は、文学・美術・巡礼として記憶化され、解禁後の宗教復興や観光資源に転化する例もあります。さらに、禁教体制が解けた後、法制度は信教の自由や政教分離を明文で保障する方向に振れ、逆に宗教間対話と市民宗教の形成が進むこともあります。

視点のまとめ:布教禁止を歴史の中でどう位置づけるか

キリスト教布教の禁止は、単なる宗教弾圧史ではなく、国家・社会・国際秩序の変動と連動する統治の選択の歴史でした。布教の何が問題とされたかは、祖先祭祀と国家礼の優先、主権と植民地化への恐怖、治安と経済統制、共同体倫理の維持など、各社会の「中核規範」を照らし出します。その結果として現れたのは、地下化と抵抗の文化、外交介入の回路、そして解禁後の宗教政策と市民社会の再設計でした。今日、信教の自由は多くの国で権利として宣言されていますが、改宗・布教・未登録宗教の扱いをめぐる緊張は絶えません。歴史の事例を比較して学ぶことは、宗教の公共性と国家の権限、社会の多元性をどう両立させるかを考えるための有効な視座を与えてくれるのです。