商(殷) – 世界史用語集

「商(しょう)」または「殷(いん)」は、中国最古級の王朝として知られる政権で、周王朝に先立って黄河中・下流域を支配した国家です。伝統的な中国史では、夏(か)・商(殷)・周と続く三代王朝のうちの一つとされ、とくに甲骨文字(こうこつもじ)による占いの記録が大量に出土したことで、実在がはっきり確認された最初の王朝として位置づけられます。商は青銅器文化を高度に発展させ、王を中心にした宗教的・軍事的権威のもとで、周辺諸部族に対して強い影響力を持ちましたが、前11世紀ごろに周によって滅ぼされ、その中心地は「殷」と呼ばれたことから、後世には「殷」王朝という名前でも語られます。

世界史の学習では、「商(殷)」は中国文明の成立期を象徴する存在です。甲骨文字はのちの漢字の直接の祖先とみなされ、祖先神や自然神への祭祀(さいし)を重んじる宗教観は、その後の中国文化に大きな影響を残しました。また、商が支配したのは近代的な意味での「統一国家」ではなく、多くの邑(ゆう)や諸部族を従えたネットワーク型の支配だったことも、初期王朝の特徴として重要です。以下では、まず「商」と「殷」という名称の違い、次に商王朝の政治構造と社会、宗教と占い・甲骨文字の世界、そして周による滅亡と後世での評価という流れで整理していきます。

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商と殷――名称と成立の基本イメージ

最初に、「商」と「殷」という二つの呼び名がなぜあるのかを確認しておきます。中国の史書『史記』などでは、この王朝は基本的に「殷」と呼ばれますが、甲骨文字など当時の記録を見ると、自らを「商」と称していたと考えられています。そのため、現代の歴史学では、「商」がもともとの王朝名であり、「殷」は後半期の都の所在地(殷墟=いんきょ)に由来する呼び名、あるいは周が商を指して用いた呼称と理解されることが多いです。日本の世界史では、「商(殷)」と併記することで、両方の呼び名が使われることを示すのが一般的です。

商王朝の起源については、伝説と考古学的知見が入り混じっています。伝統的な物語では、契(せつ)という人物を始祖とし、夏王朝の末期に力を蓄えた商が、やがて夏を倒して自ら王朝を開いたとされます。この「夏→商→周」という三代の交替の物語は、中国古代から「王朝交替の典型例」として語られました。ただし、夏については考古学的に確定できない部分も多く、商以前の状況はなお研究が続いています。

一方で、商の後期、すなわち殷墟と呼ばれる時期については、河南省安陽市付近にある遺跡の発掘によって、かなり具体的な姿が明らかになりました。ここからは、宮殿跡・祭祀跡・住居跡・青銅器・玉器・骨製品など、多種多様な遺物が出土しており、王墓と思われる巨大な墓も見つかっています。中でも決定的だったのが、甲骨文字を刻んだ亀甲や獣骨の大量出土で、これにより商王たちが行った占いの内容や王家の系譜、戦争や狩猟、祭祀の記録が具体的に読めるようになりました。

年代については、研究によって多少の幅がありますが、おおよそ前17世紀ごろに商王朝の基盤が形成され、前13世紀ごろから殷墟期に入り、前11世紀の武丁(ぶてい)や帝辛(紂王=ちゅうおう)の時代を経て、最後に周の武王によって滅ぼされる、という流れが一般的に想定されています。世界史レベルでは、「前17〜11世紀ごろの黄河流域で栄えた青銅器文化の王朝」とイメージしておけば十分です。

政治構造と社会――王を中心とした邑のネットワーク

商王朝の政治構造は、のちの中央集権的な帝国とはかなり異なっています。当時の中国北方には、多数の「邑(ゆう)」と呼ばれる集落・都市が点在していました。邑は城壁や堀を備え、周辺の農村を従える中心地であり、それぞれが有力な氏族の拠点でもありました。商王は、その中で最も強大な支配者として、多くの邑や部族を従える立場にありましたが、すべての地域を直接官僚を派遣して統治していたわけではありません。

商王の支配は、血縁関係や婚姻関係、軍事的優位、宗教的権威を通じて維持されていました。王族や有力氏族の一部は、地方に封じられて「方国」と呼ばれる半ば独立的な勢力を形成し、商王に従って軍事や祭祀に参加しました。甲骨文字の記録には、さまざまな方国の名が見え、商王が彼らを動員して周辺の敵対勢力と戦ったり、狩猟や遠征を行ったりした様子がうかがえます。

商王は同時に、「天下」と「祖先の霊」とをむすぶ特別な存在とみなされました。王は祖先神や自然神への大規模な祭祀を主宰し、その成功を通じて自らの正統性と権威を示しました。王位の継承は、基本的には父から子、あるいは兄弟間で行われましたが、内部の争いやクーデターもあり、王系譜は必ずしも一本の直線ではありません。甲骨文には、王が未来の吉凶や軍事行動の成功を占う様子だけでなく、ときに政治的不安や反乱の兆しを案じる内容も記されています。

社会構造の面では、商王と王族・貴族階層、祭祀を担う宗教的エリート、戦車を操る武人、職人、農民、奴隷といった階層が存在していたと考えられます。出土する青銅器や玉器は、高度な技術を持つ職人集団の存在を示していますが、それらは主に王や貴族のための祭器・権威の象徴として作られました。農民たちは、黄河流域の肥沃な土地で雑穀中心の農耕を行い、穀物や家畜を通じて王や貴族の生活と祭祀を支えました。

商の支配は軍事力にも大きく依存していました。戦車と歩兵からなる軍隊が周辺の部族に対して優位に立ち、捕虜を奴隷として連れ帰ることも多かったと考えられます。奴隷は、農作業や建築、祭祀における生贄などに用いられた可能性があります。こうした点から、商王朝は「宗教的王権」と「軍事的支配」が密接に結びついた国家だったと言えます。

宗教・祭祀と甲骨文字の世界

商王朝を特徴づける最大の要素の一つが、祖先崇拝と自然神崇拝を中心とする宗教体系、そしてそれと不可分な占いの実践です。商の人びとは、王家の祖先神(たとえば高祖・中祖など)や、自然現象・方位を司る神々(雨の神、風の神、山川の神)への祭祀を通じて、農作の豊凶、戦争の勝敗、王家の安泰などを祈りました。

こうした祭祀の前後には、しばしば占いが行われました。甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨は、この占いの記録です。具体的には、亀の甲羅や牛の肩甲骨の内側に小さな穴をあけ、加熱してひび割れを生じさせ、その割れ方から神意を読み取る「亀卜(きぼく)」が行われました。占いの際には、「雨が降るか」「狩りは成功するか」「某国を攻めてよいか」「王妃が男子を産むか」など、具体的な問いが刻まれ、占いの結果や後日の成否が後から書き加えられることもありました。

この占いの記録に使われた文字が、いわゆる甲骨文字です。甲骨文字は、現在の漢字と比べると図像的な要素が強く、「山」「川」「日」「月」「人」「馬」などの形が比較的わかりやすく表されていますが、すでに表語文字として高度に発達しており、多数の文字が使用されていました。甲骨文の研究により、商王たちの名前や在位年数、祖先名、諸侯国名、当時の暦や祭祀の日程など、具体的な情報が明らかになっています。

宗教実践の中には、生贄儀礼の存在も確認できます。王墓や祭祀跡からは、多数の人骨や動物骨が見つかっており、捕虜や奴隷、あるいは特定の身分の人びとが神への捧げ物として犠牲にされたと考えられています。これらは現代の感覚からすると残酷ですが、当時の商社会では、「神々と祖先の力を得るための重大な儀礼」として行われていたと推測されます。

商王は、占いと祭祀を独占的に主宰することで、「天と地の仲介者」としての地位を保ちました。後の周王朝やそれ以降の「天命思想」にもつながる、王権と宗教の密接な結びつきが、すでにこの時期に見られます。甲骨文字に見られる「帝」という語は、のちの「上帝」や「天」の観念と関連しており、「最高神的な存在」が想定されていたことをうかがわせますが、その具体的な像は諸説あります。

青銅器文化と物質文明

商(殷)はまた、「青銅器文明」の代表としても重要です。遺跡からは、多数の青銅製の祭器や武器、車具が出土しており、その鋳造技術の高さは世界的にも注目されています。商の青銅器には、鼎(かなえ)・爵(さかずき)・方彝(ほうい)など様々な形式があり、表面には怪獣文や雷文といった独特の文様が刻まれています。

これらの青銅器は、単なる調理器具や酒器というだけでなく、「祖先への供物を盛る器」「王や貴族の権威を示す宝物」として宗教的・政治的意味を帯びていました。特に大型の鼎は、「国家の重器」として象徴的な価値を持ち、「鼎を問う」「鼎を覆す」といった熟語や故事となって後世に語り継がれました。青銅器には、献上者や王名を刻む銘文がある場合もあり、のちの歴代王朝にとって重要な史料となります。

青銅器の製作には、高度な金属精錬技術と鋳造技術、そして多くの労働力と資源が必要です。商王や貴族は、銅や錫を遠方からも集め、王都やその周辺に工房を置いて青銅器を生産させました。これは、資源と労働力を動員できる政治力を持っていたことの証でもあります。青銅武器や戦車は軍事力を支え、青銅祭器は宗教儀礼を支え、二つが連動することで王権が維持されていた、と見ることができます。

さらに、商の遺跡からは、骨や玉、陶器、漆などの工芸品も多数発見されており、当時の都市生活や貴族文化の一端を知ることができます。これらの物質文化は、「農耕社会」としての側面だけでなく、「手工業や工房生産がすでに発達していた文明」であることを示しています。

周による滅亡と後世の評価

商王朝は最終的に、周によって倒されました。伝統的な物語では、商の最後の王・帝辛(ていしん)が「紂王(ちゅうおう)」として暴君視され、酒池肉林や妲己(だっき)との放縦な生活、忠臣の比干を殺すなどの暴虐を行ったため、天命が商から去り、周の武王が牧野の戦いでこれを討った、と語られます。この物語は、儒教的な価値観から見た「徳のない王朝は滅び、徳のある王朝に天命が移る」という教訓を象徴するものとして、長く語り継がれました。

実際の歴史的経緯は、必ずしもこの物語どおりではありませんが、商の後期に内部の権力争いや周辺勢力との対立が激化し、周が力を蓄えていく中で、最終的に支配権が移行したことは確かとみられます。周は商を倒した後、自らの正統性を主張するために、「天命」という概念を発展させました。つまり、「天(上帝)は徳のある王朝に命を与え、徳を失えばその命を奪って新たな王朝に与える」という思想です。これは、商が夏を倒した時の正当化にも遡って適用され、「夏→商→周」という一連の王朝交替が、道徳的な筋書きの中に位置づけられました。

周は、倒した商の王族の一部を「宋」などの形で封じて存続させ、同時に商の祭祀を一定程度受け継いだとされます。これは、前王朝の祭祀を尊重することで、自らが「天下の秩序を継承した存在」であることを示す意図があったと考えられます。商出身の人びとや文化も、完全に消え去ったわけではなく、周王朝の中に組み込まれていきました。

後世の儒家にとって、商(殷)は「暴君に堕して滅んだ王朝」というネガティブなイメージと、「先行文明の担い手としての敬意」というポジティブなイメージの両方を持つ存在でした。『尚書(書経)』などには、商王朝に関わる文書が含まれ、そこでは商の王が天命や民心について語る場面も描かれます。こうした古典は、周の立場から整理されたものでありつつも、商の政治と思想がどのように記憶されたかを伝える重要な手がかりです。

近代以降、殷墟の発掘と甲骨文字の解読により、商王朝は伝説ではなく実在の歴史王朝として、具体的な姿を取り戻しました。これにより、古代中国史の研究は大きく前進し、「文字によって検証できる歴史」(有文字史)の出発点が商に置かれるようになりました。世界史の学習において「商(殷)」という用語を見かけたときには、黄河文明の成熟した段階を担った青銅器王朝であり、祖先神と自然神への祭祀、甲骨文字による占い、邑を基盤にしたネットワーク支配といったキーワードを結びつけてイメージしておくと、後に続く周や春秋・戦国時代、さらに中国文明全体の理解がスムーズになります。