出生と幼少期
ルキウス・セプティミウス・ゲタは、189年5月27日、当時まだローマ帝国の一将軍であったセプティミウス・セウェルスと、その第二夫人ユリア・ドムナの次男としてローマのメディオラヌム(現在のミラノ)で生まれました。ゲタは生まれながらにして、当時のローマ社会における最上流階級の一員でした。父セウェルスはアフリカのレプティス・マグナ出身の有力者であり、母ユリア・ドムナはシリアのエメサ出身の名門の娘でした。兄のカラカラとは約一歳の年齢差がありました。
幼いゲタは、兄カラカラとともにローマの上流階級の子どもとして最高の教育を受けて育ちました。特に、ギリシャ語とラテン語の修辞学、哲学、文学において優れた教育を受けています。この時期、ゲタは温厚な性格で、学問を好む少年として知られていました。一方で、兄カラカラは幼い頃から激しい気性を持っており、兄弟の性格の違いは幼少期から顕著でした。
父の台頭と皇位継承者としての地位確立
193年、コンモドゥス帝の暗殺後の混乱期に、ゲタの父セプティミウス・セウェルスはパンノニア属州の軍団に担がれて皇帝となりました。この時、ゲタはわずか4歳でした。父の即位により、ゲタは突如として皇帝の息子という立場になりました。196年には、父セウェルスによってカエサルの称号を与えられ、正式な皇位継承者の一人となりました。
セウェルスは、息子たちの将来の皇位継承に向けて、二人に対して軍事訓練と政治教育を施しました。ゲタは兄カラカラとともに、父の遠征に随行し、軍事指揮官としての経験を積んでいきました。特に、ブリタニア遠征では、若くして実戦経験を積む機会を得ています。
兄弟の確執の深まり
成長するにつれて、ゲタと兄カラカラの関係は次第に悪化していきました。二人は性格も趣味も大きく異なっており、カラカラが粗野で軍人的な性格を持っていたのに対し、ゲタは教養があり、文化的な関心を持っていました。この違いは、二人の政治的な考え方の違いにも表れていました。
父セウェルスは、息子たちの不仲を憂慮し、二人の和解を何度も試みましたが、その努力は実を結びませんでした。特に問題となったのは、帝国の統治方針をめぐる意見の相違でした。カラカラが軍事力による支配を重視したのに対し、ゲタは文民政治と法による統治を重視する傾向がありました。
共同統治者としての地位
209年、ゲタは父セウェルスによってアウグストゥスの称号を与えられ、兄カラカラと同等の共同統治者となりました。これは、セウェルスが二人の息子に帝国を分割して統治させることを意図していたことを示唆しています。しかし、この決定は兄弟の確執をさらに深める結果となりました。
ゲタは共同統治者として、特に行政改革と法整備に力を入れました。彼は法学者たちを重用し、帝国の法体系の整備を進めようとしました。また、属州の統治においても、より公平な税制と行政システムの確立を目指しました。これらの政策は、帝国の安定的な統治を目指すものでしたが、軍事力による支配を重視するカラカラとの対立を深める原因ともなりました。
ブリタニア遠征と父の死
208年から211年にかけて、ゲタは父セウェルスと兄カラカラとともにブリタニア遠征に参加しました。この遠征は、北部ブリタニアの反乱鎮圧と国境防衛の強化を目的としていました。ゲタは遠征中、主に後方の行政を担当し、軍事作戦には直接参加しませんでした。
211年2月4日、父セウェルスはブリタニアのエボラクム(現在のヨーク)で死去しました。臨終の際、セウェルスは二人の息子に「互いに調和せよ、兵士たちを豊かにせよ、他人など気にするな」という有名な言葉を残したとされています。しかし、この遺言は守られることはありませんでした。
帝国分割統治の試み
父の死後、ゲタとカラカラは形式的には共同統治を続けましたが、実質的には帝国を二分する動きを始めていました。計画では、カラカラがヨーロッパとアフリカ北部を統治し、ゲタがアジアとエジプトを統治することが検討されていたとされています。この分割案は、帝国の東西の文化的・経済的な違いを考慮したものでした。
しかし、この分割統治の構想は、帝国の統一性を重視する元老院や軍部の反対に遭いました。特に、軍団の指揮権や財政の分割をめぐって深刻な対立が生じました。また、分割統治は行政システムの複雑化を招く恐れがあり、実現可能性に疑問が投げかけられていました。
ローマでの対立激化
ブリタニアから帝都ローマに戻った後、兄弟の対立は極限に達しました。二人は別々の宮殿に住み、それぞれが独自の警備隊を持つようになりました。食事の際も毒殺を恐れて、同じ料理人や食材を使うことを拒否したといわれています。
この時期、ゲタは母ユリア・ドムナの支持を得ており、また元老院の多くの議員からも支持されていました。彼の穏健な政策と教養ある人柄は、ローマの伝統的な支配層に好まれていました。一方、カラカラは軍団と近衛兵の支持を固めており、軍事力による優位を確立していました。
最期とその影響
212年12月末、ゲタは母ユリア・ドムナの部屋で兄カラカラと会見中に、カラカラの刺客によって暗殺されました。伝えられるところによれば、ゲタは母の腕の中で息を引き取ったとされています。享年22歳でした。
カラカラは、ゲタの暗殺後、直ちに近衛兵に多額の報奨金を支払い、元老院にゲタの神格化を強要しました。その後、ゲタの支持者や友人たち、さらには彼と関係があった者たちに対する大規模な粛清が行われ、約2万人が処刑されたと伝えられています。また、カラカラはゲタの名前を公文書から抹消させ、彼の肖像が刻まれた貨幣や碑文を破壊させました。これは「記憶の抹消」(ダムナティオ・メモリアエ)として知られる処分でした。
政策と人物像
ゲタは短い生涯の中で、いくつかの重要な政策を推進しようとしました。特に、法制度の整備と属州行政の改革に力を入れ、より公平な統治システムの確立を目指しました。彼は、ギリシャ・ローマの古典的教養を身につけており、文化的な事業にも関心を示しました。
また、ゲタは経済政策においても、比較的穏健な路線を取りました。軍事費の抑制と民生の安定を重視し、過度な軍事支出を避けようとしました。これは、軍事力の増強を主張する兄カラカラとの大きな違いでした。
ゲタの治世は短く、その多くは兄との対立に費やされましたが、彼の政策構想の多くは、後の時代に影響を与えることになりました。特に、法制度の整備や属州行政の改革に関する彼の考えは、後のローマ帝国の統治システムに一定の影響を与えたとされています。
彼の人物像については、歴史家たちの評価は比較的好意的です。温厚な性格と教養の深さ、そして公正な統治を目指した姿勢は、同時代の記録にも記されています。しかし、権力闘争における政治的手腕の不足や、軍事指導者としての経験不足を指摘する声もあります。
文化的影響と評価
ゲタの死後、彼の存在は公式には抹消されましたが、民衆の間では彼の記憶は長く残りました。特に東方属州では、穏健な政策を支持していた人々の間で、彼の死を惜しむ声が長く続いたとされています。
考古学的な発見からは、ゲタの時代の文化的な繁栄の痕跡が見つかっています。彼が支持した芸術や建築の多くは、古典的な様式を重視しながらも、新しい要素を取り入れようとする試みが見られます。また、彼の時代に鋳造された貨幣や建てられた建造物の中には、後にカラカラによって破壊を免れたものもあり、それらは当時の芸術様式を知る上で重要な資料となっています。
歴史的な評価としては、ゲタは不運な皇帝の一人として見られることが多いですが、同時に、より穏健で文化的な統治を目指した改革者としても評価されています。彼の短い生涯は、ローマ帝国における権力継承の難しさと、軍事力と文民政治のバランスの重要性を示す象徴的な例として、歴史家たちによって研究され続けています。