出自と若年期
プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスは、紀元193年頃、ローマの有力な元老院議員の家系に生まれました。彼の家族は代々ローマの政治において重要な役割を果たしてきた名門で、特に父親は執政官の経験を持つ高位の政治家であったとされています。幼少期から優れた教育を受け、古典文学や修辞学、軍事学を学んだとされていますが、この時期の具体的な記録は限られており、多くは後世の歴史学者による推測に基づいています。
若きウァレリアヌスは、ローマの伝統的なクルスス・ホノルム(政治的な野心を持ったローマ人が、最高の官位であった執政官(コンスル)に就任するまでの取るべき進路のこと)に従って政治キャリアを開始し、まず下級の公職から着実に経験を積み重ねていきました。20代後半には騎兵指揮官として軍務に就き、その後クァエストル(財務官)やアエディリス(按察官)などの公職を歴任したと考えられています。
政治的台頭
セウェルス朝期における彼の活動は、主にローマ元老院での政治活動と地方総督としての行政経験に集中していました。特に230年代には、アレクサンデル・セウェルス帝の治世下で重要な役職を務め、その実務能力と誠実な人柄が高く評価されていたことが記録に残されています。この時期、彼は既に執政官職を経験しており、ローマ帝国内での政治的影響力を確実に拡大させていました。
ゴルディアヌス1世と2世の短い治世、そしてその後のプピエヌスとバルビヌスの共同統治期においても、ウァレリアヌスは慎重に立ち回りながら、自身の政治的地位を維持することに成功しています。特にゴルディアヌス3世の治世(238-244年)では、若い皇帝を支える重要な助言者の一人として、帝国の政策決定に大きな影響力を持っていたとされています。
デキウス帝期の活動
デキウス帝の治世(249-251年)において、ウァレリアヌスは帝国の東部方面における軍事指揮官として重要な役割を担うようになりました。この時期、彼は既に50代後半という年齢でしたが、豊富な行政経験と軍事的才能を買われ、特にペルシャのサーサーン朝との国境地域の防衛に関して重要な任務を任されています。
デキウス帝がゴート族との戦いで戦死した後、トレボニアヌス・ガッルス帝の治世(251-253年)でも、ウァレリアヌスは引き続き東部方面軍の指揮官として活動を継続しました。この時期、彼は軍隊の統制と国境防衛において優れた手腕を発揮し、軍の信頼を大いに獲得することになります。
皇帝即位への道
253年、エミリアヌスによるトレボニアヌス・ガッルス帝打倒の動きが始まると、ウァレリアヌスは当初、合法的な皇帝を支持する立場を取りました。しかし、事態が急展開し、トレボニアヌス・ガッルス帝が暗殺され、エミリアヌスが新たな皇帝として即位すると、状況は一変します。
ライン川とドナウ川沿いに駐屯していた軍団は、経験豊富で信頼できる指揮官としてウァレリアヌスを推戴し、彼を新たな皇帝として擁立することを決意します。この動きは急速に拡大し、ウァレリアヌスの息子ガッリエヌスも、父の即位を支持する軍事行動を開始しました。
エミリアヌスの治世はわずか3ヶ月ほどで終わりを迎え、彼自身の部下たちによって殺害されました。こうしてウァレリアヌスは、混乱する帝国の新たな支配者として、253年の後半に正式に即位することになります。即位時、彼は既に60歳を超えており、当時としては高齢での即位でした。しかし、その豊富な行政経験と穏健な性格は、混乱する帝国の統治者として相応しいと考えられました。
即位後、ウァレリアヌスは息子のガッリエヌスを共同皇帝として指名し、帝国の統治体制を強化しています。父子による共同統治という形態は、帝国の安定性を高めるための戦略的な判断でもありました。ガッリエヌスは主に西部地域の統治を担当し、ウァレリアヌス自身は東部地域の問題に対処することになります。
初期の統治政策
ウァレリアヌス帝の治世初期における最大の課題は、帝国の行政機構の立て直しと軍事的防衛体制の確立でした。特に253年から254年にかけて、彼は様々な行政改革を実施し、税制の見直しや通貨制度の改革に着手しています。具体的には、デナリウス貨の純度を改善し、帝国財政の立て直しを図ろうとしましたが、継続的な軍事支出の増大により、その効果は限定的なものに留まることになります。
この時期、帝国各地で深刻化していた疫病の流行に対しても、ウァレリアヌスは積極的な対策を講じようとしました。キプリアヌスの疫病として知られるこの伝染病は、帝国の人口に大きな打撃を与え、特に都市部における労働力の減少と経済活動の停滞を引き起こしていました。ウァレリアヌスは、疫病対策として公衆衛生の改善や医療従事者の支援などを行いましたが、当時の医学的知識の限界もあり、効果的な対策を打ち出すことは困難でした。
キリスト教徒への迫害
ウァレリアヌスの治世で特筆すべき出来事の一つが、257年から258年にかけて実施されたキリスト教徒に対する大規模な迫害です。この迫害は、帝国の伝統的な宗教文化を守り、社会的統一性を強化するという目的で行われましたが、その実施方法は極めて組織的かつ体系的なものでした。最初の勅令では、キリスト教の聖職者たちに対して、ローマの神々への供犠を強制し、従わない者たちは追放刑に処されることが定められています。
翌258年には、さらに厳しい第二の勅令が発布され、従わない聖職者たちに対する死刑の適用や、上流階級のキリスト教徒の財産没収が命じられました。この迫害により、当時のローマ教皇シクストゥス2世を含む多くのキリスト教指導者が処刑され、カルタゴの司教キプリアヌスも殉教しています。この迫害政策は、後の歴史家たちによって、帝国の統治における重大な政策判断の誤りの一つとして評価されることになります。
東方遠征と捕虜
259年、ウァレリアヌスは東方における深刻な軍事的危機に対応するため、大規模な軍事遠征を開始します。サーサーン朝ペルシャのシャープール1世が、メソポタミア地域に侵攻し、重要な都市アンティオキアを含む多くの地域を占領したためです。ウァレリアヌスは、可能な限りの軍事力を結集して東方に向かい、当初はある程度の成功を収めます。
しかし、260年にエデッサ近郊での戦闘において、予期せぬ事態が発生します。疫病の蔓延により軍の戦力が著しく低下していた状況下で、シャープール1世との直接対決を強いられたウァレリアヌスは、戦況の打開を図るため、ペルシャ側との交渉を試みます。しかし、この交渉は罠であり、会見の場でウァレリアヌスとその側近たちは捕らえられてしまいました。
捕囚と最期
捕虜となったウァレリアヌスの処遇については、様々な記録が残されています。ペルシャの首都クテシフォンに連行された彼は、シャープール1世によって意図的に屈辱的な扱いを受けたとされています。具体的には、シャープール1世の乗馬用の踏み台として使われたという記録や、最終的には剥製にされたという伝承まで存在していますが、これらの記録の信頼性については、現代の歴史学者たちの間でも議論が分かれています。
より確実な史料によれば、ウァレリアヌスは捕虜として過酷な環境下に置かれ、おそらく疫病か過労により、捕虜となってから程なくして死亡したとされています。死亡時期は260年から261年の間と推定されていますが、正確な日付は不明です。ローマ皇帝として初めて敵国の捕虜となり、そのまま捕囚の身で死亡したという事実は、当時のローマ帝国に大きな衝撃を与えました。
シャープール1世は、自身の偉業を記念するため、イランのナクシェ・ロスタムにおいて、ウァレリアヌスの捕縛場面を描いた大規模な浮き彫りを制作させています。この浮き彫りは現在も残されており、ローマ皇帝の悲劇的な最期を今に伝える重要な歴史的証拠となっています。ウァレリアヌスの遺体がローマに返還されることはなく、彼の最期の地となったペルシャの地に埋葬されたと考えられています。
ウァレリアヌスの死後、息子のガッリエヌスが単独で帝位を継承することになりますが、父の捕虜という事態は帝国の威信に大きな打撃を与え、その後の「軍人皇帝時代」における帝国の混乱をさらに加速させる要因となりました。また、シャープール1世による勝利は、ペルシャの威信を大いに高め、東方における勢力バランスに大きな影響を与えることになります。