20世紀初頭、ポーランドは依然として列強による分割支配のもとにあり、国家の独立は失われたままでしたが、民族意識の高まりとともに独立回復への運動が活発化していきました。第一次世界大戦を機にポーランドは独立を果たしますが、その後も国際情勢の不安定さにより危機的な状況が続きました。特に第二次世界大戦の勃発とともにポーランドはナチス・ドイツとソビエト連邦の侵攻を受け、再び国家としての存続が脅かされました。占領下では多くの悲劇が起こり、ポーランドは激しい弾圧とホロコーストの犠牲にさらされることとなりました。
本記事では、独立運動の再燃から戦間期の混乱、さらに第二次世界大戦下の苦難と戦後の再建に至るまでのポーランドの歩みを詳細に解説します。
ポーランドの民族意識の高まりと独立運動の再燃
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポーランドはロシア帝国、ドイツ帝国(プロイセン王国を含む)、オーストリア=ハンガリー帝国という三大国によって分割された状態が続いており、国家としての独立は失われたままでしたが、ポーランド民族の独立への機運は着実に高まりを見せていました。特に19世紀後半からのナショナリズムの高まりは、ポーランド民族の団結を強く促し、知識人層や労働者層を中心とした独立運動が盛んになっていきました。ロマン主義の詩人や文学者が民族の誇りを訴え、歴史教育や文化活動を通じてポーランドのアイデンティティは保たれました。
この時期、ポーランドは三国の支配下で異なる状況に直面していました。ロシア帝国下のポーランド立憲王国では、アレクサンドル2世の農奴解放令を契機として農民層が社会的地位を向上させる一方、ツァーリ政府によるロシア化政策が進められ、ポーランド語やポーランド文化が抑圧されていました。ドイツ帝国下ではビスマルクの文化闘争(クルツカンプフ)が実施され、ポーランド系住民へのドイツ語教育の強制やカトリック教会への介入が強まり、ポーランド民族の結束が図られました。一方、オーストリア=ハンガリー帝国下のガリツィア地方では、自治権が一定程度認められ、ポーランド文化の発展が見られました。
ポーランド社会党(PPS)のユゼフ・ピウスツキは、特にロシア支配下のポーランドで社会主義運動と民族独立運動を融合させ、独立回復を目指して活動を展開しました。ピウスツキは武装蜂起や地下活動を通じてポーランドの独立意識を高め、第一次世界大戦を迎えるころには、ポーランド独立運動はより広範な支持を集めるようになっていました。
第一次世界大戦とポーランド独立の実現
1914年に勃発した第一次世界大戦は、ポーランド独立運動にとって大きな転機となりました。ポーランドは三大国に分割されていたため、ポーランド人はそれぞれの支配国の軍隊に組み込まれ、敵味方に分かれて戦わざるを得ない状況に追い込まれました。戦争の混乱の中で、ポーランド独立運動は武装闘争と外交戦術を両立させる方針に転換し、ピウスツキはポーランド軍団(レギオン)を率いてオーストリア=ハンガリー側で戦いながら、最終的にはポーランド独立の実現を目指しました。
戦争が長期化し、ロシア革命が発生してボリシェヴィキが政権を掌握すると、ロシア帝国の支配が崩壊し、ポーランドに独立の機会が訪れました。1918年11月、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が相次いで降伏し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位すると、ピウスツキはポーランドの国家元首に就任し、ポーランドは123年ぶりに独立を回復しました。
独立ポーランドの誕生と新国家の建設
独立を果たしたポーランドは、国家再建に向けて様々な課題に直面しました。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約により、ポーランドは西プロイセンやポーゼン地方などを獲得し、バルト海への出口としてグダニスク(ダンツィヒ)回廊が設置されました。しかし、東部国境は依然として不安定で、1920年にはソビエト・ポーランド戦争が勃発し、ポーランド軍はキエフ遠征を敢行するも赤軍の反撃により一時危機的状況に陥りましたが、ワルシャワの戦いで奇跡的な勝利を収め、ポーランドの独立は維持されました。
この戦争後、リガ条約によりポーランドはウクライナやベラルーシの一部を獲得し、東方国境を確定しました。内部的には、ピウスツキが強力な指導力を発揮して政局を主導し、経済危機や社会不安を乗り越えながら国家の安定化を進めましたが、政治体制は次第に独裁色を強め、サナツィア体制と呼ばれる権威主義的な体制が確立しました。
第二次世界大戦直前の緊張とポーランドの孤立
1930年代後半、ヨーロッパ情勢は急速に悪化し、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが領土拡張政策を推し進める中で、ポーランドは再び大国間の緊張に巻き込まれることとなりました。1938年のミュンヘン会談でチェコスロバキアが解体されると、ポーランドはナチス・ドイツとソビエト連邦の脅威に直面しました。
1939年8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結され、その秘密議定書においてポーランドの分割が取り決められました。同年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、これに対抗してイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。ポーランド軍は勇敢に抗戦しましたが、ドイツ軍の電撃戦(ブリッツクリーク)戦術の前に各地で包囲され、9月17日にはソビエト連邦も東部から侵攻し、ポーランドはわずか数週間で完全に占領されました。
ドイツとソ連による占領とポーランドの悲劇
1939年9月、ナチス・ドイツとソビエト連邦によってポーランドは再び分割され、ドイツ軍はワルシャワを占領し、ソ連軍はポーランド東部を支配下に置きました。ドイツ占領下では、ポーランド総督府が設置され、ナチスの残虐な支配が行われました。ポーランド人に対する弾圧は苛烈を極め、知識人や指導者層は虐殺の対象とされ、カティンの森事件ではポーランド軍将校や知識人が大量に虐殺される悲劇が発生しました。
さらにナチスはユダヤ人に対するホロコーストを開始し、ワルシャワ・ゲットーをはじめとするユダヤ人隔離区が設けられ、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所などで数百万ものユダヤ人が命を奪われました。ポーランドはユダヤ人の人口が多かったため、その犠牲は計り知れないものとなりました。
一方、ソ連占領下のポーランド東部ではスターリン主義体制のもとで強制移送や粛清が行われ、多くのポーランド人がシベリアや中央アジアに追放されました。このような過酷な状況下でも、ポーランドの人々は独立回復のための抵抗を続けました。
カティンの森事件とは
カティンの森事件は、第二次世界大戦初期の1940年春に発生した悲劇的な大量虐殺事件です。この事件では、ソビエト連邦の秘密警察NKVD(内務人民委員部)の指示により、約22,000人のポーランド人捕虜が処刑されました。
1939年9月、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランドが分割占領された後、ソビエト支配地域で多数のポーランド軍将校、知識人、警察官が捕らえられました。1940年3月5日、スターリンを含むソ連指導部は処刑命令に署名。捕虜たちはカティンの森(スモレンスク近郊)、ハルキフ、トヴェーリなどで処刑されました。
1943年4月、ナチス・ドイツ軍がカティンの森で大量の遺体を発見し公表。ソ連はこれをドイツの犯行だと反論し、冷戦期を通じて真実は隠蔽されました。
1990年になってようやく、ゴルバチョフ政権下のソ連が自国の責任を認め、2010年にはロシアが関連資料をさらに公開しました。
この事件はポーランドとロシアの歴史認識をめぐる深い傷跡として残り、両国関係に長く影響を与え続けています。
ポーランド国内軍(AK)とレジスタンス運動
ポーランドの地下組織である国内軍(Armia Krajowa, AK)は、亡命政府の指導のもと、各地でゲリラ活動や破壊工作を展開しました。特に1944年のワルシャワ蜂起はその象徴的な出来事であり、国内軍はナチスに対して勇敢に立ち上がりましたが、ソ連軍がワルシャワ近郊で進軍を停止する中、ナチスの徹底した弾圧によって蜂起は失敗し、ワルシャワの市街は壊滅的な打撃を受けました。
ポーランドの亡命政府はロンドンを拠点に活動し、連合国との連携を図りつつ、ポーランドの独立回復を目指しました。しかし、ヤルタ会談やポツダム会談において、ポーランドの領土は大幅に変更され、東部はソ連に割譲される一方で、西方にはオーデル・ナイセ線が設定され、東プロイセンやシュレジェンなどがポーランドに編入されました。
戦後のポーランドの再建と共産主義体制の確立
第二次世界大戦の終結後、ポーランドはソ連の影響下に入り、共産主義体制が樹立されました。ポーランド統一労働者党が権力を握り、スターリン主義的な政策が推進されました。農業の集団化や工業の国有化が行われ、国内の反共勢力に対する粛清が強化されるなど、厳しい統制が敷かれました。
ソ連の支援を受けたポーランド人民共和国は、冷戦構造の中でワルシャワ条約機構に加盟し、社会主義圏の一員として位置づけられましたが、国内では反体制運動が根強く存在しました。1956年のポズナン暴動や、1970年代の経済危機、1980年に発足した「連帯(ソリダリティ)」の労働運動は、ポーランド社会の不満の高まりを象徴していました。
戦後の文化とポーランドの再生
戦後のポーランドは、壊滅的な被害からの再建に取り組み、ワルシャワは廃墟の中から再建され、歴史的建造物が復元されました。また、ポーランド人のアイデンティティや文化が保持されるよう、文学や音楽、映画の分野でも活発な活動が展開されました。ポーランドの作家チュエスワフ・ミウォシュや、映画監督アンジェイ・ワイダは、ポーランドの歴史や苦難を世界に伝える重要な役割を果たしました。
ポーランドは第二次世界大戦の傷跡を乗り越え、困難な状況の中でも民族の誇りと独立の精神を保ち続けたのです。