【東ローマ皇帝】アナスタシオス2世

【東ローマ皇帝】アナスタシオス2世東ローマ皇帝
【東ローマ皇帝】アナスタシオス2世

若き日のアルタバスドスと東ローマの政局

アナスタシオス2世として後に知られる皇帝の本名はアルタバスドスであり、彼は東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルにおいて7世紀後半に誕生したと考えられています。その出生の正確な時期については史料によって異同がありますが、広く受け入れられている説では約660年頃に生まれたと推定され、その出自についても明確な記録は乏しいのですが、彼が東方系の貴族あるいは軍人の家系に属し、アルメニア系の血を引いていた可能性が高いと見なされています。

当時の東ローマ帝国はヘラクレイオス王朝の末期にあり、数多の困難と脅威に直面していました。とりわけペルシアとの長年にわたる戦争が終わった直後には、イスラーム勢力の台頭が帝国の東部国境を著しく脅かしていました。さらに内政においても宗教的分裂と貴族層と軍人層の対立が絶え間なく続いていたため、若き日のアルタバスドスもそうした混乱の中で軍務に従事するようになります。やがて彼は東部のテマ(軍管区)であるアナトリコンやオプシキオンでの軍務経験を積むことで頭角を現すようになり、その有能さと忠誠心から皇帝の側近としても信任を得るようになります。

当時の皇帝たちはその即位と統治において軍の支持を不可欠としており、特にテマ制が整備されて以降は各地の将軍や戦区司令官が政治的影響力を増していき、アルタバスドスもそのような軍人貴族として徐々に政治の中枢に接近してゆくことになります。

皇帝テオドシオス3世と政変の胎動

アルタバスドスが中央政界に姿を現す頃、すなわち8世紀初頭の東ローマ帝国では皇帝交代が頻発し、帝位の継承は必ずしも血統によるものではなく、軍事的な実力と支持に基づいて行われ、その結果として数多くの短命な皇帝が続いていました。

とりわけ711年に皇帝フィリピコスが失脚し、アナスタシオス2世が即位したとき、帝国は内憂外患に悩まされ、イスラーム勢力による小アジアへの侵攻が激化する中で、帝都防衛と国境警備を両立させるための戦略的決断が求められていた時期でもありました。

アルタバスドスはこのような状況の中で有能な官僚として台頭し、その軍務経験と行政能力の両面で皇帝アナスタシオス2世から厚く信任されるようになり、とりわけ宰相クラスの高官として国家の運営に深く関与するようになります。

しかしながら714年頃になると皇帝の支持基盤が不安定化し、一部の軍人貴族たちの間で政権交代を求める声が高まるなか、とりわけ小アジアのテマで指揮をとる軍人たちの不満が募っていきました。715年にはついに反乱が勃発し、その結果としてアナスタシオス2世は退位を余儀なくされ、皇帝の座はテマ・オプシキオン出身の軍人であったテオドシオス3世の手に渡ることとなりました。

このテオドシオス3世の即位は多くの軍人たちにとっても異例であり、また正当性に乏しいものであったため、帝国の統治は不安定なものでした。アルタバスドスはこの新皇帝に一時的に仕えることとなったものの、やがてレオンという一人の将軍との運命的な出会いによって次なる政変の主役へと移行していきます。

レオン3世との同盟とアナスタシオスの即位

レオンは当時アナトリコン・テマの将軍であり、イスラーム勢力との戦いにおいていくつもの功績を挙げたことで知られ、その軍事的威信と兵士からの支持を背景に皇位を狙う動きを見せていました。アルタバスドスはこの野心的な将軍と密かに同盟を結ぶことになります。

715年から716年にかけて二人は連携して反乱を計画し、軍事力によって帝都を制圧するという大胆な戦略を練り上げます。その一環としてアルタバスドスは自らの影響力を用いて軍の支持を取り付けることに成功し、716年にはテオドシオス3世が退位を余儀なくされ、レオンがレオン3世として皇帝に即位することとなりました。

この時点でアルタバスドスは新皇帝の重臣として国家の中枢に再び復帰し、行政と軍事の両面において皇帝の右腕ともいうべき存在として絶大な影響力を持つようになりました。その後数年の間において帝国の再建と安定化に向けた諸改革が進められる中で、アルタバスドスは特に財政や外交面で重要な役割を果たすこととなります。

サラセンの脅威と内政改革

レオン3世の治世はサラセン帝国、すなわちウマイヤ朝イスラーム国家の台頭とその脅威への対応を主眼とする時代でした。特に717年から718年にかけての第二次コンスタンティノープル包囲戦においては帝都の命運が文字通り風前の灯火となる中で、レオン3世とアルタバスドスを中心とした政権は驚異的な粘り強さと戦略的巧妙さによってこれを撃退し、東ローマ帝国の命脈を保つことに成功します。

この勝利によって帝国の威信は回復され、その余波としてレオン3世の皇帝としての正統性も確立されていきましたが、一方でその後に始まる聖像破壊運動は帝国内部に新たな亀裂をもたらすこととなり、宗教政策をめぐる対立が次第に激化していきます。

アルタバスドスは当初この宗教政策に一定の距離を保ちつつも皇帝の方針を支持していましたが、次第に彼自身の立場や信念との乖離が表面化していきました。特に修道士や民衆の間での聖像崇拝支持が根強かったことを背景に政策の修正を求める声が高まる中で、彼は一種の調停者としての役割を担いながらも、次第に独自の行動を模索し始めるようになります。

やがて皇帝の権力と宗教政策に対する批判が彼自身の野心を後押しする形となり、次なる政変の火種が燻り始めることとなります。

皇帝アナスタシオス2世としての即位とその理念

レオン3世の治世が次第に宗教政策に傾斜し、その中核をなす聖像破壊運動が加速する中で、アルタバスドスは内心で次第にこの方針に疑問を抱くようになりました。とりわけ自らが管轄していたオプシキオン・テマにおいては伝統的に聖像崇拝が根強く支持されていたため、現地の民衆や修道士たちとの対話を通して皇帝の方針への反発が日増しに強まっていく状況を目の当たりにし、やがて彼自身も信仰と忠誠の間で揺れ動くことになります。

このような中で720年代末になると、皇帝レオン3世の後継者として皇太子コンスタンティノスが指名され、彼が後にコンスタンティノス5世として即位する見通しが明らかになると、アルタバスドスは政治的野心を露わにするようになり、軍事的な支持と宗教的正統性を背景に自らの即位を正当化する準備を進めてゆきます。

741年にレオン3世が死去すると、その跡を継いでコンスタンティノス5世が即位しますが、その即位に対してアルタバスドスは直ちに反旗を翻しました。自らを正統な皇帝であると宣言し、帝都に進軍してコンスタンティノス5世を打倒し、彼を追放した上で皇帝として即位し、ここにアナスタシオス2世としての第二の治世が始まることとなります。

彼はただちに聖像崇拝を復活させる勅令を発し、それまで迫害されていた修道士や聖職者たちを赦免し、都と地方における宗教的融和を図ろうとしましたが、この政策転換は一方で軍部、特にイスラームとの戦争において実利的視点から聖像破壊を支持していた将軍たちからの反発を招くこととなり、その支配体制は不安定なものとなっていきます。

政権の動揺と軍の離反

即位当初こそアナスタシオス2世の政権は民衆からの一定の支持を受けたものの、軍事的な基盤は脆弱であり、とりわけアナトリコン・テマやアルメニアコン・テマなど東方の主要な軍区では依然としてコンスタンティノス5世への忠誠が根強く、その影響力を排除することは困難でした。

さらにアナスタシオス2世自身が軍人でありながらも政治的手腕を過信し、宗教政策において急進的な改革を進めたことが軍内部における混乱を助長しました。741年から743年にかけて次第に支持勢力が動揺し始め、反乱の兆しが各地で見え始めるようになります。

743年にはコンスタンティノス5世が小アジアにて勢力を盛り返し、本格的な反撃を開始すると、アナスタシオス2世はそれを迎え撃つべくオプシキオン・テマを中心に兵を集めたものの、戦局は次第に不利に傾いていきました。とりわけダーダネルス海峡付近での戦いにおいて決定的な敗北を喫すると、軍の忠誠は一気に瓦解し、彼の権威は急速に失われてゆきます。

最終的にアナスタシオス2世はコンスタンティノス5世の軍に敗れ、帝位を追われて再び修道院へと追放され、事実上の政治的死を迎えることとなります。

晩年とその最期

修道院におけるアナスタシオス2世の晩年については詳細な記録が乏しいのですが、彼が一定期間をコンスタンティノープル近郊の修道院で過ごしながら悔悟の日々を送り、信仰に身を委ねたとされています。また彼に対して直接的な処刑や極刑が科されることはなく、形式的には一修道士として生涯を閉じたものとされています。

ただし一部の史料においては彼が後年において再び皇位奪還を企てたとの記述も存在しており、それが事実であるとすれば彼の最期は再度の投獄または暗殺によるものであった可能性も否定できず、その死の正確な時期や状況については依然として歴史的謎として残されています。

いずれにせよアルタバスドス、すなわちアナスタシオス2世は東ローマ帝国の激動の時代において宗教と政治の狭間で揺れ動いた人物として、その生涯を終え、後世においては皇帝というよりも信念に殉じた改革者、あるいは理想を追い求めた軍人として記憶されることとなります。

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