工部 – 世界史用語集

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定義と位置づけ――六部制における「土木・工務」の中枢

工部(こうぶ)は、中国の唐代以降に整備された中央官制「六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)」の一つで、国家の土木・水利・交通・度量衡・官営工房などを統括した官庁を指す用語です。日本語史学では、朝鮮王朝の六曹における工曹、ベトナムの阮朝におけるBộ Công(工部)など、東アジア諸王朝の近似官庁も含めて比較的に用いられます。近代日本の工部省(1870–1885)も名義上は同系統の訳語で、土木・鉄道・鉱業・電信など国家建設の「工務」を担いました。本項では主に中国史上の工部(Board of Works, 工部)を軸に、役割・組織・運用の実相と、周辺諸国および近代以降の変容を整理します。

六部制は、中央政務を機能別に分掌して意思決定と執行の効率化を図る枠組みでした。このなかで工部は、宮殿・城壁・道路・運河・堤防などの建設と維持、木石金属の調達、工匠の組織化、度量衡や器物規格の制定・検査といった「物的基盤の総合官庁」として位置づけられました。財源管理の中心は戸部であっても、工部の計画と現場統率がなければ軍政・民政の運用は成立せず、国家の実力を可視化する装置でもあったのです。

職掌と組織――土木・水利・工匠・度量衡・官営工房

工部の基本的職掌は、(1)土木建設、(2)水利・運河、(3)工匠・役夫の動員管理、(4)度量衡・器物規格の制定、(5)官営工房の経営、に大別できます。まず(1)では、宮城・宗廟・社稷壇・官署・城郭・関塞・橋梁・道路といった建築・土木の造営・修繕を総覧しました。施工計画の立案、設計書・工期・資材・労役の配当、監督官の派遣、竣工検査までが工部の責任範囲です。

(2)水利・運河では、黄河・淮河・大運河系の堤防・水門・分水路・疎通工事が中核でした。洪水と決壊の危機管理、堆砂の浚渫、潅漑網の維持は、国家歳入と直結する穀倉地帯(関中・河南・江南)を支える「生命線」でした。水利の専局(都水監など)が時代により設けられ、工部と協働する体制が採られました。

(3)工匠・役夫の動員では、里甲・保甲や衛所制など既存の編成と接合しながら、技能別の「作(作坊)」・工匠籍(匠籍)を管理しました。工部は工匠の徴発・賃銭・食糧・工具の支給、工事中の秩序維持、事故や怠慢に対する賞罰規定の運用を担いました。これは労務管理・安全管理・品質管理の三位一体で、国家的プロジェクト・マネジメントの原型と言えます。

(4)度量衡・器物規格では、寸尺や秤量の標準、車軸幅(轍距)、釘・金具・瓦・煉瓦の寸法、木材規格などを定め、地方官・民間に対して検査・刻印・違反取締を行いました。貨幣制度と並んで、度量衡の統一は市場の取引コストを下げ、公共工事の品質を安定させる効果を持ちました。

(5)官営工房は、金銀銅鉄の鋳造・鍛造、木工・石工、陶磁・硝子、塗装・漆工、車両・船舶など多岐にわたり、宮廷器物・官用器械・軍需物資(兵器・陣具・車船)の製作・修理を担いました。明清期の北京では、工部に直属する作坊が紫禁城・都城の修繕や礼器製作を分掌しました。また清代の京師には、戸部管轄の宝泉局と並び、工部管轄の宝源局が置かれ、銭貨鋳造を分担したことも特筆されます(銭譲・銅供給は戸部・内務府と複雑に連動)。

王朝別の展開――唐宋から明清へ、機能の継承と再編

唐代において六部制が整うと、工部は尚書・侍郎の下に諸司(営繕・都水など)を抱えて機能しました。都城長安・洛陽の整備、関所・驛路の維持、仏寺・道観の許認可などは、礼部・兵部・戸部と横断的に調整を要し、工部は技術的判断のハブを務めました。宋代は都市化・市舶貿易・河川工学の発達に応じ、河渠の浚渫・堤防補強、都城カナート・下水路の整備が進み、工部と都水監の役割が増大します。科挙の技術官僚化も進み、土木・算学に通じた実務官が登用されました。

元代は行省制のもと、中央の工部と地方行省の営繕機構が上下連携し、大都の都市計画・運河附替(会通河の整備)など大規模土木が展開します。多民族統治の下で、色目人・漢人・モンゴル人の技術者・工匠が動員され、工部の統率範囲は広域化しました。

明代は、都城(北京)遷都に伴う宮城・外城の造営、長城・九辺の軍事工事、江南の水利維持など工部の任務が膨張します。工匠籍の固定化・徭役の重化は社会的負担を増し、弊害が噴出しました。これに対処するため、官買(官が市場から購買)や賃募(賃金雇用)の比率が次第に高まり、現物流通・貨幣経済に合わせて工部も調達・契約の手続きを発展させました。

清代には、内務府(皇帝直轄の宮廷官署)との所掌分担が際立ちます。宮廷内部の建築・器物は内務府の造辦処や江南織造などが担う一方、都市・河工・道路・国家儀礼施設の多くは工部が統括しました。黄河治水では、河道総督・河督の指揮下で工部が規格・資材・検査を担い、長江・大運河の堤防補修は地方と中央の共同負担で維持されました。19世紀には西洋技術の流入とともに、造船・砲熕・機械製作の近代工廠(江南製造総局など)が洋務派の管轄で興り、工部本体は伝統的土木・営繕の中核を保ちつつ、制度の近代化に直面しました。

周辺諸国と近代の変容――工曹・Bộ Công・工部省、そして省庁制へ

朝鮮王朝の六曹の一つ工曹は、中国の工部に対応し、宮殿・城郭・橋梁の造営、水利・度量衡の管理、工匠の管掌を担いました。度量衡器の検査・刻印や、京畿・地方の営繕監督は工曹の重要任務で、王城漢陽の整備や城郭修復、王陵造営などが典型的職務です。貢納制度の枠内で木材・金属・瓦などの調達を行い、地方の役夫動員を統制しました。

ベトナム阮朝のBộ Công(工部)も、城都フエの宮城・城郭、道路・橋梁・堤防、王陵・祠廟の建設を管掌しました。阮朝は中華官制を参照しつつも、熱帯モンスーン環境に合わせて堤防・潅漑・治水の比重が高く、各省の工務官との連携が密でした。

日本では、明治政府が欧米の公共事業官制を参照しつつ、旧来の語彙を転用して工部省(1870–1885)を設置しました。管掌は広く、鉄道・電信・造船・灯台・土木・鉱山・製鉄など「近代インフラ」の総合官庁で、のち逓信省・農商務省・内務省土木局などに機能分化・移管されました。名称は古典的な「工部」を用いながら、実態は産業政策と公共事業を兼ねる近代官庁でした。

清末新政(1901以降)では、伝統的六部を省庁制へ改組する過程で、工部の所掌は郵伝部・度支部・農工商部・工務局などへ分割・再編されました。中華民国では交通部・水利部(のち水利委員会)・建設部(のち住房都市建設部)など機能別の近代省庁へ継承され、度量衡は質量衡器主管局や標準局へ移管されます。すなわち、工部的機能は近代国家の技術官僚制の下で専門化・分化を遂げたと言えます。

歴史的意義と評価――国家の「物的統治」を可視化する装置

工部の意義は、第一に国家の物的統治能力を体現したことにあります。法律・財政(礼部・戸部)と軍事(兵部)を支える基盤として、道路・橋・水利・建築の整備は、課税・徴発・儀礼・動員を現実に可能にしました。第二に、工匠・技術・規格を国家が組織することで、品質と安全、コストと工期の標準化が進み、広域帝国の行政効率を高めました。第三に、宮殿や都城の造営、儀礼施設の管理を通じて、工部は権威の可視化(モニュメント化)を担い、王朝の理念を空間に刻印しました。

他方、課題として、労役動員の過重・中間搾取・腐敗、資材調達に伴う環境破壊、河工・堤防政策の失敗が挙げられます。黄河治水の迷走や、賄賂に絡む粗悪工事の崩落などは、しばしば政変や民怨の火種になりました。明清期に進む賃募・官買への転換、契約・検査制度の整備は、こうした欠陥を是正する試みでした。

総じて、工部は「国家の体力」を測る窓でした。王朝ごとの政治・財政・技術の水準が、そのまま工部の運転効率と成果物に反映されます。東アジア各国は、この歴史を経て、工部的機能を現代の省庁(交通・水利・建設・標準化・公共調達)に再編し、専門技術官僚と市場契約を組み合わせる仕組みへ移行しました。過去の工部を学ぶことは、インフラ老朽化や水害・気候変動に直面する今日の社会にとって、公共事業の設計・監督・ガバナンスを考えるうえでも有益です。