十字軍国家 – 世界史用語集

 

十字軍国家(じゅうじぐんこっか)とは、11~13世紀の十字軍遠征の結果、地中海東岸(現在のシリア・レバノン・イスラエル・パレスチナ周辺)などに西ヨーロッパの十字軍勢力が築いたラテン系キリスト教国家の総称です。狭い意味では、第1回十字軍によって成立したイェルサレム王国・アンティオキア公国・エデッサ伯国・トリポリ伯国の4つを指しますが、広い意味では、その後にコンスタンティノープルを占領して作られたラテン帝国や、キプロス島のラテン王国なども含めて語られることがあります。

これら十字軍国家は、単に「西欧人が東方に作った植民地」というだけでなく、ラテン系の支配層と、ギリシア正教徒・アルメニア教徒・シリア系キリスト教徒・ムスリム・ユダヤ人など、さまざまな住民が共存する複雑な社会でした。政治的には、西欧の封建制度を移植したような形で王・諸侯・騎士・教会・軍事修道会(テンプル騎士団・ホスピタル騎士団など)が入り組んでおり、経済的にはイタリア商業都市(ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなど)との東方貿易によって栄えました。同時に、周囲をイスラーム勢力に囲まれた不安定な存在でもあり、常に防衛戦争と外交交渉に追われていました。

最初のうちは、十字軍国家は西欧の援軍と海上輸送の支えを受けながら勢力を広げましたが、やがてイスラーム側がサラーフッディーン(サラディン)やマムルーク朝のもとで結束すると、次々に領土を失い、最終的には1291年のアッコン陥落をもって、地中海東岸の十字軍拠点はほぼ消滅しました。それでも、十字軍国家が存在した約200年間は、ヨーロッパとイスラーム世界・ビザンツ帝国との交流と対立がもっとも濃密だった時期であり、商業・文化・宗教意識・国家形成に大きな影響を及ぼしました。

簡単に言えば、十字軍国家とは「十字軍の結果、東地中海に生まれた西欧風のラテン系キリスト教国家群」であり、「西欧の封建社会と東方の多宗教・多民族世界がぶつかり、混ざり合った場」です。以下では、十字軍国家の範囲と種類、成立と支配のしくみ、社会と経済・文化の特徴、そして崩壊と歴史的意義について、もう少し詳しく見ていきます。

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十字軍国家の範囲と主な種類

狭義の「十字軍国家」として、世界史の教科書でよく挙げられるのは、第1回十字軍(1096~99年)の結果として成立した次の4つです。すなわち、イェルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国、トリポリ伯国です。これらは地中海東岸からやや内陸にかけての細長い地域に点在していました。

イェルサレム王国は、その名の通り聖地イェルサレムを中心とする王国で、十字軍国家の中核的存在でした。国王のもとに諸侯や教会、騎士団が封土を受け、西欧的な封建制度を基礎とする支配が行われました。首都は状況によりイェルサレムやアッコン(アクレ)などに移ります。

アンティオキア公国は、シリア北部の要衝アンティオキアを中心とする公国で、地中海沿岸と内陸部を結ぶ交通の要所を押さえていました。ギリシア正教徒やアルメニア教徒が多い地域であるため、ラテン支配者と東方キリスト教徒の関係が複雑になりやすい土地でもありました。

エデッサ伯国は、ユーフラテス川上流域に位置し、4国家の中でもっとも内陸に位置していたため、周囲のイスラーム勢力の圧迫を受けやすく、1144年にザンギーによって陥落して十字軍国家の中で最初に消滅しました。この事件が、第2回十字軍のきっかけとなりました。

トリポリ伯国は、現在のレバノン北部からシリア沿岸にかけての地域に成立した伯国で、港湾都市トリポリが商業と軍事の拠点となりました。地中海世界と内陸アラブ世界をつなぐ結節点として、商業的に重要な役割を果たしました。

広義には、これら4つに加えて、後の十字軍や関連する征服の結果生まれたラテン系国家も「十字軍国家」として語られます。たとえば、第4回十字軍後にコンスタンティノープルに樹立されたラテン帝国、ギリシア本土やエーゲ海のラテン公国群、キプロス島のキプロス王国(ルジニャン朝)などです。これらは「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)や地中海諸島におけるラテン支配」として、「東地中海の十字軍国家」と一括して扱われることがあります。

とはいえ、世界史の基本的な学習では、とくにイェルサレム王国を中心とするレヴァント(シリア・パレスチナ一帯)の十字軍国家を念頭に置いておけば十分です。そのうえで、「同じようなラテン支配がギリシア本土やキプロス、コンスタンティノープルにも及んだ」というイメージを持っておくと、十字軍時代の東地中海全体の姿が見えやすくなります。

十字軍国家の成立と支配のしくみ

十字軍国家の成立は、第1回十字軍の軍事的成功に端を発します。1099年のイェルサレム占領後、十字軍諸侯たちは単に略奪して引き上げるのではなく、現地に定住し、教会と騎士団・諸侯による支配体制を築きました。これにより、聖地周辺は「巡礼地」であると同時に、「西欧ラテン人が恒常的に支配し、生活する土地」となっていきました。

制度面では、西ヨーロッパの封建制度と十字軍特有の事情が組み合わさった複雑な仕組みが採用されました。イェルサレム王国を例にとると、王の下に有力諸侯(伯・公など)が封土を与えられ、さらにその下の騎士や在地貴族に細かく封土が分け与えられました。「諸侯会議(ハイ・コート)」と呼ばれる会議体が王権を補佐・牽制する役割を担い、王と諸侯の合議によって税・軍役・外交などが決定されることも多くありました。

特徴的なのは、軍事修道会の役割です。テンプル騎士団やホスピタル騎士団(聖ヨハネ騎士団)などの軍事修道会は、修道士でありながら重装騎士として戦場に立つ特別な組織で、十字軍国家の防衛に大きな力を発揮しました。彼らは要塞や城を直接封土として所有し、西欧各地からの寄進や商業収入を背景に強大な経済力と軍事力を持つようになります。これにより、国王・諸侯・騎士団・教会という4つの勢力が入り組んだ「多中心的な支配構造」が生まれました。

また、十字軍国家の支配者たちは、現地社会との関係を完全に断ち切ることはできませんでした。人口の多くを占めていたのは、アラビア語やシリア語を話すムスリムや東方キリスト教徒であり、彼らの税や労働力なしには国家は成り立ちません。実際には、彼らに一定の自治と信仰の自由を認めつつ、税金や土地所有の面でラテン支配層が優位に立つという形で支配が行われました。

法制度の面でも、「ラテン人向けのラテン法」と「東方キリスト教徒・ムスリム向けの慣習法」が並存する状態が生まれました。たとえば、ラテン人同士の争いはラテン法廷で、地元住民同士の争いは彼らの宗教指導者や慣習法で処理されるといった具合です。このように、十字軍国家は単純な「西洋化された土地」ではなく、複数の法と慣習が重なり合う多層的な社会でした。

十字軍国家の社会・経済・文化

十字軍国家の社会は、「少数のラテン支配層」と「多数の現地住民」という構造が基本でした。支配層にはフランス系の騎士や諸侯が多く、言語もフランス語系の方言(オイル語・オック語)が使われました。このため、イェルサレム王国などは、しばしば「アウトル=メール(海の向こう)」と呼ばれ、本国フランスから見た遠隔の領地として認識されていました。

一方、住民の大部分はアラビア語・ギリシア語・アルメニア語・シリア語などを話す人々で、宗教もギリシア正教会・アルメニア教会・シリア正教会・マロン派などのキリスト教諸教会、イスラーム(スンナ派が中心)、ユダヤ教など多岐にわたりました。ラテン支配者たちは、これらの集団を完全に改宗させることはできず、むしろ彼らの教会組織・共同体を存続させつつ、税と軍役の形で支配に組み込もうとしました。

経済面で見ると、十字軍国家は地中海と内陸アジアを結ぶ貿易の中継地として大きな役割を果たしました。港湾都市アッコン(アクレ)やトリポリ、ヤッファなどには、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどイタリア海洋都市の商人が進出し、彼ら専用の居住区や倉庫、教会が築かれました。香辛料・絹織物・砂糖・染料・ガラス製品などの東方産品がここを通じてヨーロッパへ運ばれ、その代わりに木材・鉄製品・毛織物などが東へ輸出されました。

十字軍国家の支配層も、こうした貿易から関税や港湾使用料として利益を得ており、商業収入は国家財政や諸侯・騎士団の収入源となりました。農業面では、オリーブ・ブドウ・小麦・サトウキビなどが栽培され、水利設備や灌漑技術が発達していました。西欧から移住した騎士や農民たちは、現地の農業技術や作物にも学びながら土地経営を行い、ヨーロッパにない作物や栽培法に触れる機会を得ました。

文化的にも、十字軍国家は「東西の接点」として独特の雰囲気を持っていました。教会建築にはロマネスク様式やゴシック様式が持ち込まれつつも、ビザンツ風のモザイクやイスラーム風の装飾が混ざり合い、ラテン・ギリシア・シリア・アルメニアの職人が共同で建築に関わる例もありました。交易を通じて、イスラーム世界の医術・数学・天文学・薬学の知識がラテン世界に伝わる一方、ラテン側の法律や騎士道文化も現地に浸透していきました。

ただし、こうした交流がいつも平和的で相互尊重に満ちたものだったわけではありません。宗教的対立や税負担の問題、支配層の傲慢さなどから、ラテン支配者と現地住民との間には絶えず緊張が存在し、反乱や暴動、弾圧も起こりました。十字軍国家は、「共存」と「支配」、「交流」と「差別」が複雑に交差する場だったと言えます。

十字軍国家の崩壊と歴史的意義

十字軍国家の運命を大きく変えたのは、イスラーム世界の側で進んだ統合と反攻でした。12世紀後半、サラーフッディーンがエジプトとシリアを統一してアイユーブ朝を築き、1187年のヒッティーンの戦いで十字軍軍を破ってイェルサレムを奪回すると、十字軍国家の勢力は大きく後退しました。その後、第3回十字軍によって沿岸部のいくつかの都市が回復されはしたものの、イェルサレム王国はもはや内陸の広大な支配を取り戻すことはできませんでした。

13世紀に入ると、エジプトではマムルーク朝が成立し、軍事的に強力なマムルーク騎兵が十字軍国家への圧迫を強めました。1260年代には、バイバルスなどのマムルーク君主が次々に十字軍の拠点都市や要塞を攻略し、アンティオキア公国やトリポリ伯国もやがて陥落していきます。最後まで抵抗を続けたのはアッコンを中心とする沿岸の残余勢力でしたが、1291年、アッコンもマムルーク軍の総攻撃によって陥落し、地中海東岸からラテン十字軍の支配拠点はほぼ完全に姿を消しました。

十字軍国家の崩壊は、単に十字軍運動の軍事的失敗を意味するだけではありません。ヨーロッパ内部の変化も大きく影響していました。13世紀にはフランスやイングランドなどの王権が強まり、国内統治や領土拡大、財政・司法の整備に関心が向けられ、十字軍国家を維持するための長期的な犠牲を払う意欲は薄れていきました。また、モンゴル帝国の出現などユーラシア規模の変化も、十字軍国家を「世界の中心」とする意識を相対化していきます。

それでも、十字軍国家が約200年にわたって存在したことの歴史的意義は小さくありません。第一に、地中海東岸にラテン系国家が置かれたことで、ヨーロッパとイスラーム世界・ビザンツ帝国との間の交通と貿易が飛躍的に活性化しました。イタリア商業都市の発展や、香辛料・絹・薬品などの東方産品の流入は、中世後期の経済変動や都市の発展を促し、やがてルネサンスや大航海時代への道を開く一因となりました。

第二に、十字軍国家は「異文化共存と支配」をめぐるさまざまな制度実験の場でもありました。多宗教・多民族社会をどのように統治するのか、異なる法体系や慣習をどのように調整するのか、といった問題に対して、十字軍国家は不完全ながらも実践的な試みを行いました。その経験は、後の地中海世界やオスマン帝国、さらには近代以降の植民地支配などを考える上でも示唆を与えます。

第三に、十字軍国家の興亡は、ヨーロッパ側・イスラーム側双方の歴史意識に深い痕跡を残しました。ヨーロッパでは、聖地を一時的に保持していた時代へのノスタルジーや、十字軍騎士の英雄像が文学や宗教意識に影響を与えました。一方、イスラーム世界では、十字軍国家の存在とその後の撃退の記憶が、「外来の侵略者に抵抗し、最終的に撃退した」という物語として語られ、近代以降の反西洋意識や歴史叙述の中でも重要なモチーフとなりました。

このように、十字軍国家という用語の背後には、単なる「聖地を支配したヨーロッパの小国」という以上に、宗教・政治・経済・文化が交錯したダイナミックな歴史が広がっています。西欧の封建社会が東方に「飛び地」を持ったとき、そこでは何が起こったのか――十字軍国家を手がかりにすると、中世ユーラシア世界のつながりと対立を立体的にとらえることができるのです。