阿倍仲麻呂 – 世界史用語集

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阿倍仲麻呂の生涯と遣唐使としての渡航

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698–770年)は、奈良時代の日本人学者・官僚であり、遣唐使として唐に渡ってそのまま唐に仕え、終生日本に帰国することのなかった人物です。彼は阿倍氏の名門に生まれ、幼少期から聡明さを示しました。朝廷に仕えていた阿倍氏の血筋を背景に、若くして遣唐使に選ばれ、717年(養老元年)、19歳のときに第9次遣唐使船に乗って唐へ渡りました。

当時、唐は世界でも最も先進的な文明国家の一つであり、日本は国家建設に必要な政治制度や文化を学ぶために遣唐使を頻繁に派遣していました。仲麻呂はその一員として唐の都・長安に到着し、科挙試験を受験して見事に合格しました。これは外国人として極めて異例のことであり、彼の非凡な才能が唐の知識人社会でも高く評価されたことを示しています。

唐での活動と政治的地位

仲麻呂は唐で「朝衡(ちょうこう)」と名を改め、官僚としての地位を確立しました。彼は玄宗皇帝のもとで仕え、その才能を買われて昇進を重ね、最終的には左散騎常侍という高位にまで登りつめました。これは皇帝に近侍し政策を諮問する地位であり、外国出身者がここまで昇進するのは極めて稀なことでした。

また、仲麻呂は唐の政治・文化に深く関与し、日本からの留学生や留学僧の世話をしたとも伝えられています。唐の朝廷においては「日本出身の高官」として知られ、外交的にも重要な役割を果たしました。彼の存在は、日本と唐の文化交流の象徴ともいえるものです。

文学的才能と詩作

仲麻呂はまた、詩文の才能にも優れ、唐の文人たちと交流しました。特に李白や王維、王昌齢といった大詩人たちと交わり、宴席や詩会で詩を詠んだと伝えられています。彼自身も多くの漢詩を残し、その中には日本への望郷の思いを切々と詠んだものがあります。

もっとも有名なのは『望郷の詩』と呼ばれるもので、天の原を望みながら日本の大和を思い涙する心情が表されています。これはのちに『小倉百人一首』にも採録され、日本人としての心情を伝える文学的遺産として語り継がれています。唐の詩人たちも彼の才能を高く評価し、異国人でありながら文人社会に溶け込むことに成功しました。

帰国叶わず唐で没したことの意義

仲麻呂は幾度か帰国の機会を得ましたが、暴風雨などの災害により失敗に終わりました。特に753年の帰国の試みでは、船が難破してベトナム方面に漂着し、日本へ戻ることは叶いませんでした。その後も唐で官職に就き続け、770年に長安で没しました。享年73歳でした。

仲麻呂の生涯は、日本人として初めて異国の政治エリート層に加わり、唐という大文明の中で生き抜いた稀有な事例です。彼の存在は、日本人が外の世界とどう向き合い、学び、適応していったかを示す象徴的な存在といえます。さらに、仲麻呂が詠んだ望郷の詩は、国際交流の光と影を伝える文学的証言として今日まで響き続けています。

総じて、阿倍仲麻呂は奈良時代の国際的人物であり、日本と唐の文化交流の象徴として歴史に名を残しました。その人生は、単なる外交官を超えて、異国に生きた知識人・詩人としての普遍的意義を持ち続けています。