アメリカ植民協会 – 世界史用語集

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概要

アメリカ植民協会(American Colonization Society, ACS)は、1816年にワシントンD.C.で結成された民間団体で、自由黒人(free people of color)や違法奴隷貿易で拿捕されたアフリカ人をアフリカ西岸へ移住させることを目的とした組織です。思想的には「逐次解放(gradual emancipation)と海外移住(colonization)」を結びつけ、国内の人種緊張を和らげつつ、アフリカの“文明化”とキリスト教伝道を進めると主張しました。協会は首都近隣の政治・法曹・聖職者の名望家が支え、初代総裁には最高裁判事ブッシュロッド・ワシントン(初代大統領の甥)、中心人物にヘンリー・クレイ、弁護士で『星条旗』作詞者のフランシス・スコット・キー、事務総長ラルフ・ランドルフ・ガーリーらが名を連ねました。協会は1820年代から30年代にかけてリベリア植民事業を主導し、1847年のリベリア共和国独立の母体となった点でアフリカ近現代史にも痕跡を残しました。

他方、黒人コミュニティの多くと急進的廃奴派は、植民協会を「人種差別と追放の制度化」と批判しました。ウィリアム・ロイド・ガリソンは『アフリカ植民事業に関する考察』(1832)で協会の理念的矛盾を告発し、ジェームズ・フォーテン、フレデリック・ダグラスらも強く反対しました。アフリカ移住は希望者の自由選択を称しつつ、実際には白人優位の社会秩序を維持するための“安全弁”として構想された側面が否めず、この二重性が今日まで評価を分けています。本項では、①設立の背景と理念、②リベリア建設の過程、③黒人社会と廃奴運動の反応、④意義と学習の要点、の順で整理します。

設立の背景と理念—「逐次解放+海外移住」という処方箋

19世紀初頭の合衆国では、北部で漸次的廃奴が進む一方、南部では綿花経済とともに奴隷制が拡大していました。自由黒人の人口も増加し、都市では教育・教会・相互扶助団体を核に自律的社会が形成されますが、法的・社会的差別は根強く、彼らの存在は奴隷社会にとって“規律破り”の不安要因と見なされました。こうした状況のもと、白人主流社会の一部は「奴隷制は望ましくないが、即時解放は社会秩序を乱す」として、段階的解放と海外移住を組み合わせる折衷案を模索します。宗教的復興運動(第二次大覚醒)の倫理や、人道主義と人種偏見が入り混じった“改良”思想が、植民構想を支えました。

外交・軍事の文脈も重要です。1808年に国際奴隷貿易が米国で違法化された後も密貿易は続き、拿捕した船のアフリカ人をどこへ送還するかは実務上の問題でした。1819年の法(奴隷貿易禁止諸法の追加)で、連邦政府は拿捕アフリカ人の「アフリカ帰還」に予算を充てることが可能になり、海軍のアフリカ方面活動(のちのアフリカ分艦隊)と協会の植民地運営は実務的に接続されます。さらに、英領シエラレオネでの黒人定住実験や、黒人航海者ポール・カフィの先駆的移住計画(1815年のシエラレオネ航海)も、アフリカ移住の現実性を示しました。

理念面で協会は「黒人の自立とキリスト教文明の普及」を掲げましたが、その内部には幅の広い動機が混在していました。北部の漸進主義者には“道徳的漸次主義”の傾向があり、南部のプランターには「自由黒人の存在を外へ出すことで奴隷社会を安定化させる」意図が含まれます。言い換えれば、ACSは改革と抑圧、普遍主義と人種主義が同居する矛盾した容器でした。この混成性を押さえることが、用語理解の第一歩です。

リベリア建設—植民地から共和国へ

1820年、協会は最初の移住船団を西アフリカへ送りましたが、シエラレオネ近傍のシャーブル島での越冬はマラリア等により甚大な犠牲を出し、定着に失敗します。翌年以降、米海軍の支援や交渉を通じてメソラド岬(後のケープ・メサラド/モンロビア周辺)に拠点を移し、現地首長との条約・購入契約の形を取りながら恒久的定住地を整備しました。首都名「モンロビア」は当時の大統領ジェームズ・モンローにちなみ、国名「リベリア(自由の地)」は1824年に採用されます。初期行政は協会派遣の白人代理人(エージェント)や、のちに現地黒人指導者が担い、ジェフディ・アシュマン、ロット・ケアリーらの名が知られます。

植民拡張は、アメリカ本国の州別協会の活動と結びつきました。たとえばメリーランド州植民協会はケープ・パルマスに「メリーランド・イン・リベリア」を設け、ミシシッピ州の「ミシシッピ・イン・アフリカ」など、沿岸各地に小植民地が点在します。こうした拠点の多くは最終的にリベリアに編入され、1847年、リベリアは協会の“保護”のもとで独立共和国を宣言しました。独立後もACSの財政・人的影響力は大きく、19世紀後半まで政治・教育・宗教の“アメリカ化”を後押しします。

移住者の多くは、アメリカで生まれ育った自由黒人や解放奴隷であり、彼らは「アメリコ・リベリアン」と呼ばれました。アメリカ式の憲法・議会制・司法や、プロテスタントの宗教実践、英語(クリオール英語を含む)を基礎に、新しい国家アイデンティティの形成が進みます。しかし、沿岸のアメリコ・リベリアンが内陸の多様な土着社会と非対称な関係を築き、土地・通商・司法をめぐる摩擦を引き起こしたことも事実です。いわば、植民協会が構想した“帰還”は、現地社会の複雑な権利秩序に新たな支配層を重ね書きする作用を伴いました。

人数規模に関しては、19世紀を通じて数千から一万数千のアフリカ系アメリカ人がリベリアへ移住し、さらに拿捕船からの「再定住」アフリカ人(recaptured Africans)が合流しました。南北戦争後には、解放奴隷の将来をめぐる混乱の中で新たな移住の波が起こり、ACSは引き続き輸送と定住を支援します。ただし、黒人住民の大多数は米国内に留まり、市民権と平等権を求める闘争を選びました。

黒人社会と廃奴運動の反応—“解決”か“追放”か

自由黒人コミュニティの多くは、初期から植民協会に反対しました。フィラデルフィアやニューヨーク、ボストンの黒人会議は、米国こそ自らの祖国であり、法の下の平等と教育・雇用・市民権の拡大こそが目標であると主張します。職人・印刷業者ジェームズ・フォーテン、説教者リチャード・アレンやアブサロム・ジョーンズらが反対の論陣を張り、のちにフレデリック・ダグラスも、植民は黒人排除の婉曲的手段だと批判しました。もちろん、差別と暴力に直面した一部の人々は移住を“能動的選択”と捉え、事業家・牧師・教師としてリベリア建設に参画した例もあります。黒人社会の態度は一枚岩ではなく、世代・地域・職業によって揺れがありました。

白人廃奴派も二分されました。ガリソンら即時廃奴派は、植民協会を「奴隷制の道徳的問題を外部へ押し出す擬制」と断じ、米国内での即時解放と平等の徹底を求めました。他方、漸進派の中には、暴力的衝突を避けるための現実策として植民を支持する者も存在しました。1831年のナット・ターナーの蜂起以後、南部白人社会では自由黒人への監視が一段と強まり、北部でも人種暴動が相次ぎ、植民論は一時的に勢いを得ますが、1840年代以降の自由州の動向、共和党の台頭、そして南北戦争の渦中で議題の重心は「奴隷制そのものの存否」に移動していきます。

リンカンは大統領就任初期、戦後の人種関係をめぐる一案として海外移住を検討し、中米チリキ(パナマ)やハイチ領イル・ア・ヴァッシュでの定住計画を推進しましたが、現地事情の困難や黒人指導者からの反発を受け次第に後退しました。最終的に、解放奴隷の市民権と参政・教育・土地政策をめぐる国内課題が中心テーマとなり、植民は主流の政策選択肢から退いていきます。それでもACSは20世紀まで組織として存続し、学資援助や宣教・医療支援など、限定的だが継続的な活動を行いました。

意義と学習の要点—植民・人種・国家建設の交錯

アメリカ植民協会は、アメリカ史とアフリカ史の接点に位置する事例です。第一に、合衆国の人種秩序と自由黒人の位置づけをめぐる葛藤が、国内問題の「外部化」—すなわち海外移住—として制度化されうることを示しました。第二に、アフリカ西岸における「帰還」の名を借りた新たな移民社会の形成が、土着社会との権力関係、宗教・教育・法制度の移植、貿易と外交の結節を通じて、国家建設(state-building)へ接続した過程そのものが、比較植民史の貴重な素材です。第三に、黒人コミュニティ内外の激しい論争は、自由と平等の実現手段をめぐる思想対立を映し、後の公民権運動やディアスポラ論にまで連なる長い波紋を生みました。

学習上のポイントとしては、①設立年(1816)と主要人物(ワシントン判事/ヘンリー・クレイ/キー/ガーリー)、②法的背景(1808年国際奴隷貿易禁止、1819年の拿捕アフリカ人送還法の予算措置)、③リベリア創設の地理(メソラド岬=モンロビア)と独立(1847)、④州別協会の植民(メリーランド・イン・リベリア等)、⑤黒人社会・廃奴派の賛否、⑥リンカン初期の植民構想との接点、を押さえると全体像が明瞭になります。併せて、リベリアの「アメリコ・リベリアン」と土着社会の関係、19世紀アフリカ沿岸の通商・宣教・衛生(熱帯病)という現実条件も、理解を深める鍵です。

総括すれば、アメリカ植民協会は、人道と人種主義、改革と秩序維持、帝国的発想と国家建設の野心が渾然一体となった歴史的装置でした。その成果(リベリア独立、教育・伝道・医療の拠点形成)と代償(黒人排除の論理、土着社会との非対称性)を併せ鏡として捉えることで、近代世界で繰り返された「問題の外部化」と「帰還の物語」の実相に迫ることができます。用語として学ぶ際は、単に“アフリカ移住の団体”と丸暗記するのではなく、アメリカの人種秩序とアフリカの国家形成がどのように接続したのかを、具体の年次・人物・地名とともに追うことが大切です。