概要
アメリカ・スペイン(米西)戦争は、1898年にアメリカ合衆国とスペイン王国の間で行われた短期戦争で、主にカリブ海のキューバ・プエルトリコと、太平洋のフィリピン・グアムを戦域とした出来事です。戦争は1898年4月に開戦し、同年8月に休戦、12月のパリ条約で終結しました。表向きの大義は「キューバの独立支援」でしたが、実際にはアメリカの海軍力拡張・海外市場志向・太平洋進出の機運と、スペイン帝国の衰退が交差した結果でした。戦後、アメリカはプエルトリコとグアム、フィリピンを獲得(フィリピンは2000万ドルの代償金つき割譲)し、キューバは形式上独立を得る一方、プラット修正条項により対外関係や基地租借で合衆国の強い影響下に置かれました。この戦争は、合衆国が本格的に「海外領土を持つ帝国」へ移行する転回点であり、同時にスペインにとっては「98年の災厄(Desastre del 98)」として国内改革の契機になりました。
米西戦争を理解するうえでは、①背景と開戦の過程、②戦闘の展開(海戦・上陸戦)、③講和と領土処分、④戦後の反作用(米比戦争・反帝国論争・法制度化)を、年次と地図に沿って押さえることが要点です。以下では、この順に整理します。
背景と開戦—キューバ独立、メイン号、海軍主義の時代
19世紀末、スペインの旧来の植民地は次々に独立していましたが、カリブのキューバとプエルトリコ、太平洋のフィリピンはなおスペイン支配下にありました。キューバでは1868年の蜂起(十年戦争)を経て、1895年にホセ・マルティらの指導で独立戦争が再燃します。スペイン側の鎮圧は厳しく、住民収容(強制集住)政策は人道問題として国際的な非難を浴びました。合衆国では、キューバの砂糖・葉巻・投資利害に加え、モンロー主義の延長として「西半球の秩序」を自らの影響下に置こうとする空気が強まり、世論は干渉に傾きます。
メディアの影響も決定的でした。ハーストやピュリッツァーの新聞を代表とするイエロー・ジャーナリズムは、スペインの残虐行為をセンセーショナルに報じ、介入世論を煽りました。そうした緊張のさなか、1898年2月、ハバナ港で停泊中の米戦艦メイン号が爆沈し、多数の犠牲者を出します。原因は当時から論争的でしたが、米国内では「スペインの謀略」とする声が高まり、「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メイン号を忘れるな)」の合言葉が拡散しました。マッキンリー政権は外交圧力と武力準備を同時に進め、4月に議会は対西宣戦を承認します。宣戦と同時に可決されたテラー修正条項は、キューバを併合しないという建前を明記し、独立支援の大義を掲げました。
軍事的には、マハンの海軍主義が政策決定に影響し、鋼鉄艦の整備が進んでいました。太平洋艦隊は香港付近で待機し、カリブではサンチャゴ・デ・クーバ方面のスペイン艦隊の出没が警戒されました。戦前にハワイの戦略的重要性が再確認され、戦時中の1898年7月にはハワイ併合(共同決議)も成立します。こうして、政治・世論・軍事準備が同時進行のまま開戦に至りました。
戦争の展開—マニラ湾とサンチャゴ湾、カリブと太平洋の二正面
戦闘は海戦の決定打から始まりました。1898年5月1日、ジョージ・デューイ提督率いる米アジア艦隊は、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します(マニラ湾海戦)。米艦隊は比較的軽微な損害で勝利し、フィリピンの首都マニラは海上封鎖下に置かれました。地上では、アギナルド率いるフィリピン独立派がスペインに対する蜂起を再開し、米軍は彼らと協働しつつマニラを包囲します。6月には米海兵隊がグアムを無血占領し、太平洋の連絡路を確保しました。
カリブ戦域では、スペインのチェルベラ提督艦隊がキューバ南岸のサンチャゴ湾に入り、米艦隊が湾口封鎖でこれを抑えました。米陸軍はキューバに上陸し、7月1日のサンフアン高地(ケトル・ヒルを含む)攻略戦では、志願騎兵ラフ・ライダーズ(セオドア・ローズベルト中佐で知られる)を含む部隊が丘陵を占領しました。衛生環境と補給の不備が米軍を苦しめた一方、海軍は7月3日のサンチャゴ湾海戦でスペイン艦隊を捕捉・撃滅します。これによりキューバ戦線の帰趨は決し、サンチャゴ・デ・クーバは陥落しました。
プエルトリコでは、7月後半から米軍が上陸し、比較的軽い抵抗で要地を占領しました。8月12日に休戦議定書が調印され、戦闘は停止します。その直後の8月13日、通信遅延により停戦を知らない米軍がマニラ市街に突入して占領する出来事があり、戦場の通信・情報の限界が露呈しました。こうして、海戦の勝利と一連の上陸作戦を経て、米側の圧倒的優位のまま戦争は講和へ向かいます。
講和・余波と意義—パリ条約、プラット修正、米比戦争、法と帝国
1898年12月のパリ条約により、スペインはキューバの主権放棄、プエルトリコとグアムの割譲、フィリピンの割譲(代償金2000万ドル)を承認しました。キューバは形式上独立国として扱われましたが、1901年の米国側のプラット修正条項により、キューバは対外条約・債務・公衆衛生・治安などで米国の介入を受け入れ、グァンタナモ湾の海軍基地租借(1903年)も恒久化されます。プエルトリコは1900年のフォーレーカー法で民政移行、のちに合衆国市民権付与(1917年)と自治の制度化が進む一方、連邦税制や代表権の不均衡という「未編入領」の地位に置かれました。米最高裁は1901年前後の「インサラー事件群(Insular Cases)」で、海外領土に合衆国憲法が全面的には自動適用されないというドクトリンを確立し、植民地的統治の法的枠組みを整えます。
フィリピンでは、独立派が米比戦争(1899–1902、その後も南部などで長期化)を戦い、激しいゲリラ戦・住民統制・衛生対策が展開されました。アギナルドは1901年に拘束され、合衆国は教育・衛生・インフラ整備と統治機構の構築を進めつつ、自治拡大を段階的に約束します。最終的な独立は第二次世界大戦後の1946年です。太平洋では、米国はハワイを1898年に併合し、ウェーク島や東南アジアへの補給・通信の要地を確保しました。アジア外交では、1899–1900年に国務長官ヘイが「門戸開放通牒」を発出し、中国市場への平等な参入と領土保全の原則を唱え、海軍力と通信網の拡充はグローバルな関与の基盤となりました。
国内では、反帝国主義同盟(Anti-Imperialist League)が結成され、マーク・トウェイン、アンドリュー・カーネギー、ウィリアム・ジェイムズらが、フィリピン併合は「自由の理念」と矛盾すると批判しました。他方で、海軍主義・商業的利害・人道的名分を掲げる擁護論も強く、帝国をめぐる議論は20世紀のアメリカ外交の根を形作ります。政治的には、セオドア・ローズベルトが戦争で名を上げ副大統領・大統領へと駆け上がり、「棍棒外交」とパナマ運河建設へとつながっていきます。スペイン側では、植民地喪失が知識人の自己省察(レヘネラシオニスモ=再生主義)を促し、軍制・教育・経済の改革が課題化しました。
学習上は、①主要年次(1898開戦・休戦、12月パリ条約/1901プラット修正)、②戦闘の要所(マニラ湾・サンチャゴ湾、サンフアン高地、プエルトリコ上陸、グアム占領)、③条約と領土処分(プエルトリコ・グアム・フィリピン、キューバの独立条件)、④余波(米比戦争、インサラー事件、門戸開放、ハワイ併合)、⑤国内外の議論(反帝国主義—海軍主義)、を相互に結びつけて整理すると理解が立体化します。用語としては、テラー修正条項(キューバ併合否定)とプラット修正条項(独立後の従属化)の対比をセットで覚えると効果的です。
総括すると、米西戦争は「短期の勝利」以上の意味を持ちます。合衆国はカリブ海と太平洋に恒常的拠点を得て、20世紀型の国際関与—海軍力・通信・通商・条約・基地—を制度化しました。スペインは帝国の黄昏を受け入れつつ内省への道を歩みました。戦争はまた、世論とメディア、衛生と補給、法と主権の線引きなど、近代戦の新しい論点を突き付けました。米西戦争を手がかりに、帝国・民族自決・国際法・国内政治が結びつく20世紀世界の入口を見渡すことができるのです。

