アルヘシラス国際会議(Conferencia/Conférence d’Algésiras, 1906年)は、第一次モロッコ危機(1905–06)の収拾を目的に、スペインの港町アルヘシラスで開かれた列強会議です。ドイツ帝国がモロッコの独立と通商の「門戸開放」を掲げてフランスの特権化に異議を唱え、英仏協商(1904)を揺さぶろうとしたのに対し、フランスは保安・財政改革における主導権を求めました。会議は1906年1月16日から4月7日まで続き、最終的に「アルヘシラス法(Acte d’Algésiras、アルヘシラス協定)」を採択して、形式上はモロッコの主権を承認しつつ、治安(警察)と金融(国立銀行)における仏西の優越的役割を国際的に枠づけました。外交的にはフランス・イギリスの連携が確認され、ドイツの主張は限定的にとどまり、欧州の陣営構図を第一次世界大戦前夜へと一歩進める結果になりました。
本項では、①危機の背景と会議開催の経緯、②審議の争点と「アルヘシラス法」の条項、③参加国の投票行動と外交的帰結、④その後のモロッコ問題の展開と歴史的意義、の順で整理し、用語と年号の混同を避けるポイントを示します。
背景と開催:第一次モロッコ危機の構図と列強の思惑
19世紀末のモロッコは、シャリーフ王朝(アラウィー朝)下で対外的には独立を保っていましたが、内政・財政の脆弱さと欧州列強の浸透が進んでいました。フランスはアルジェリア(1830–)とチュニジア(1881保護国)を既に掌握し、モロッコでも治安出兵や財政整理を通じて影響力を強めようとしていました。これに対し、ドイツはフランスの北アフリカでの一方的前進を牽制し、「門戸開放」とモロッコ主権の尊重を掲げて、英仏協商の分断を狙いました。
転機は1905年3月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のタンジール訪問です。皇帝はスルタンの独立支持を公然と表明し、国際会議の開催を要求しました。フランスは当初、外相ドローネの強硬策と内政事情の板挟みにありましたが、やがて英米の支持を背景に会議に応じます。こうしてスペインが開催地を提供し、アルヘシラス会議(1906年1月–4月)が開かれる運びとなりました。
参加は、モロッコと欧米主要国(フランス、ドイツ、イギリス、スペイン、イタリア、ロシア、オーストリア=ハンガリー、アメリカ合衆国、ベルギー、オランダ、ポルトガル、スウェーデンなど)で、地中海秩序と通商の利害が幅広く代表されました。米国は仲裁と門戸開放の原則確認に関心を寄せ、スペインは地理的近接と歴史的関係から治安分担を志向しました。イギリスは英仏協商の信頼性を試される場と捉え、フランス支持の姿勢を明確化します。
審議の争点と「アルヘシラス法」:治安・金融・通商の三本柱
会議で最大の争点は、治安(警察)と金融(国立銀行)、そして通商・関税と武器輸入規制でした。ドイツは原則論としてモロッコ主権と諸国の経済的平等を主張し、フランスの排他性に歯止めをかけようとしました。一方、フランスは治安再建には恒常的関与が不可欠と唱え、スペインも北岸の伝統的利害を背景に関与を求めました。
最終文書「アルヘシラス法(協定)」は、次の要点を定めました。第一に、スルタンの権威と領土の形式的主権を確認しつつ、港湾都市の警察をフランスとスペインの指導・将校供給のもとで編制すること(司令部や監督機構は国際委員会の管理下に置かれ、スルタン名義の下で運用するという二重構造)です。第二に、モロッコ国立銀行(Banque d’État du Maroc)を設立し、紙幣発行・財政整理・関税収入の管理を担わせることです。銀行は多国籍資本による取締役会を持ちますが、その運営理念・貸出・担保の規則は欧州金融の規範に従い、実質的に仏西の影響が強い枠組みでした。第三に、通商の自由(門戸開放)と関税の国際管理、そして武器輸入の規制と沿岸監視を整備することです。
付随して、税制・関税徴収の近代化、治安維持のための部隊配置、沿岸・港湾の監視線の整備などが議定書に盛り込まれました。重要なのは、これらがいずれも「国際管理」の衣をまといながら、実務の中枢を仏西に与える構造になっていた点です。ドイツは門戸開放の原則確認と銀行の多国籍化で一定の面目を保ちましたが、モロッコでの安全保障上の関与は限定されました。
投票・外交的帰結:仏英接近の固定化と独の相対的孤立
採決局面では、オーストリア=ハンガリーがドイツを支持したほかは、多くの列強がフランス案(修正案)に賛同する態勢となりました。イタリアは三国同盟の名目上は独墺と同盟関係にありましたが、地中海での利害からフランス寄りの姿勢をとり、英露米西などがフランスに肩入れしたことで、ドイツは外交的に孤立に近い状況に立たされます。
この結果は、国際政治に三つの影響を及ぼしました。第一に、英仏協商の結束が視覚化され、イギリスはフランスの後ろ盾として大陸関与を強める心理的閾値を越えました。第二に、ドイツは単独行動の限界を自覚しつつも、対仏牽制の構えを崩さず、のちのアガディール危機(1911)で再び挑戦する布石を残しました。第三に、米国の役割(門戸開放・仲裁支持)とスペインの関与(警察分担)の枠が確認され、モロッコ問題が欧州内政のみならず大西洋世界の秩序問題であることが示されました。
ただし、アルヘシラス法はあくまで「暫定的枠組み」にすぎませんでした。国内の反仏感情や部族蜂起、沿岸の治安不安は続き、1907年のカサブランカ事件を契機にフランスは出兵を拡大、事実上の軍事関与を強めます。国際枠組みで縛ったはずの介入は、現地の不安定を理由に次第に恒常化し、モロッコの運命は保護国化へ傾いていきました。
その後の展開と意義:保護国化への橋渡しと大戦前史の一断面
アルヘシラス会議から数年、モロッコでは改革と治安回復が思うように進まず、列強の圧力は増しました。1911年のアガディール危機では、ドイツが砲艦「パンサー」を派遣して仏の進出に抗議し、欧州は再び緊張しますが、最終的にドイツは仏領コンゴの一部譲渡と引き換えにモロッコでの権益主張を退き、1912年のフェス条約でフランス保護国が成立、北部一帯はスペイン保護領、タンジールは国際管理地域という体制が整いました。これは、1906年の「国際管理+仏西主導」という枠組みが、実質的な二国による保護国化へと滑り込む過程だったと評価できます。
より大きな視野では、アルヘシラス会議は、三国協商形成(1907英露協商)への流れと、独墺ブロックの相対的孤立を促進し、参謀間の協力や海軍競争の心理的下地を作りました。外交的にドイツは敗北と受け止め、対外強硬派の議論を刺激した側面もあります。逆にフランスは、国際的に承認された「改革」や「治安」の名目を盾に、北アフリカの連結を完遂する足場を固めました。
学習上の要点は三つあります。第一に、年次と因果です—1905年タンジール事件→1906年アルヘシラス会議→1907年以降の出兵拡大→1911年アガディール危機→1912年保護国化、という連鎖を押さえます。第二に、条項の中身—警察の仏西指導、国立銀行の設置、門戸開放と武器規制—を、形式的主権と実質的関与の二層構造として理解します。第三に、陣営政治への影響—英仏協商の強化、独の外交的打撃、米西の役回り—をまとめることです。
用語の注意として、「アルヘシラス法(Acte)」は「条約(Treaty)」と呼ばれることもありますが、会議最終文書の公的名称は「Acte」で、複数の条項と付属議定書からなる包括協定です。「第一次モロッコ危機」は1905–06年の局面を指し、「第二次モロッコ危機」は1911年のアガディール危機を指します。モロッコの「国立銀行」は発券・財政管理の機能を持ち、のちの保護国経済の基盤となりました。
総括すると、アルヘシラス国際会議は、主権の名と国際管理の名の下に列強の役割を固定化するという、帝国主義時代特有の合意装置でした。短期的には危機回避と均衡維持に寄与しましたが、長期的には仏西の既成事実化を助け、独の不満と欧州の分極化を深めました。会議の「成功」と「失敗」を併せて見ることが、20世紀前半の国際秩序の脆さを理解する近道になります。

