アレクサンドロスの東方遠征は、前334年のヘレスポント渡河に始まり、前323年にバビロンで大王が没するまで、およそ10年にわたって続いた大規模な軍事・政治・文化の変動過程です。マケドニアの精鋭軍は小アジアからシリア・フェニキア・エジプトを経てメソポタミアへ進み、アケメネス朝ペルシアの中枢を打破したのち、イラン高原・中央アジアを横断し、さらにインド北西部へ到達しました。遠征は単なる征服の連続ではなく、補給と海軍を要とした作戦設計、サトラップ制を活用した統治、都市建設と貨幣・言語の標準化、現地エリートとの協働とそれに対する反発など、制度と文化を伴う総合的な運動でした。結果として、ギリシア語コイネを共通語とする都市・市場・学術のネットワークが地中海から西アジアに広がり、のちのヘレニズム世界の基盤が形成されます。
出発の構図と小アジア・シリアの戦役:補給・海軍・会戦の骨格
遠征の戦略目標は、父フィリッポス2世が構想した「ペルシア戦」を継承し、アケメネス朝の打倒とギリシア世界の安全保障を確立することでした。アレクサンドロスはおよそ4万の歩兵と7千の騎兵を率い、合成兵種戦(長槍ファランクスを軸に、軽歩兵・弓兵・投槍兵・重騎兵コンパニオンを連携させる戦法)を主兵装としました。開戦直後のグラニコス川の戦い(前334)では、強引な渡河攻撃でペルシア側の小アジア軍を破り、西アナトリアのギリシア都市を保護下に入れます。ここで王はペルシアに仕えたギリシア人傭兵団を厳罰に処し、「ギリシア解放者」としての宣伝効果を高めました。
前333年、キリキアでのイッソスの戦いでは、狭隘な地形を利用してダレイオス3世の数的優位を相殺し、右翼の斜行と中枢突破で王本人の側近を動揺させて勝利しました。続く作戦の鍵は海上補給の確保です。アレクサンドロスはフェニキア沿岸都市を一つずつ制圧してペルシア海軍の根拠地を奪い、陸軍の背後を海から支える意図を一貫して持ちました。この方針は、長距離遠征に不可欠な穀物・飼料・装備の安定的輸送を担保し、会戦の勝敗を超えた持久的優位へとつながります。
この戦略の白眉が、前332年のティルス(タイア)攻囲戦です。本土から海上の島城塞へ堤道(モーレ)を築き、攻城塔と艦隊の集中運用で外郭を破って突入するという、工兵・海戦・陸戦の総合作戦を成功させました。ティルス陥落はフェニキア艦隊の切り崩しを決定づけ、海上制圧の帰結としてエジプトへの進出路が開かれます。
エジプトでの受容と王権演出:アレクサンドリア創建と神託
同332年、ガザを経てエジプトに入ったアレクサンドロスは、諸都市から歓呼をもって迎えられました。彼はナイル三角州西縁でアレクサンドリア市の建設を命じ、直線的な街路網、二つの港湾(ヘプタスタディオンの堤による分節)、後世のムセイオン・図書館へと繋がる都市構想の端緒を置きます。これは軍事・交易・行政の拠点を兼ね、エジプト統治と地中海支配の双方に資する拠点でした。
さらに王はシワ・オアシスのアモン神託所を訪れ、神意により自身の王権が承認されたという儀礼的演出を行います。エジプトにおけるファラオ即位は、被征服地の伝統に寄り添いながら自らの正統性を補強する象徴政治であり、その後のペルシア的王服の採用、プロスキュネーシス(王への地面接吻)導入の試みなど、異文化的正統性の取り込みへ連なっていきました。ただし、これらの演出はマケドニア貴族の反発を呼び、近臣クレイトスの殺害事件、プロスキュネーシス論争、将軍団内部の不信という形で副作用も生みます。
ガウガメラ決戦と王都群の掌握:イラン・中央アジアでの長期戦と統治
前331年、メソポタミア北東の平野でガウガメラ(アルベラ)の戦いが行われ、ダレイオス3世の整地した広正面と戦車・騎兵の優位に対し、アレクサンドロスは二線陣形と右斜行、軽歩兵の戦車無力化で応じ、近衛騎兵の楔形突撃で王の近衛を崩しました。ダレイオスは戦場離脱を余儀なくされ、王都バビロン・スサは無血開城、ペルセポリスは占領後に象徴的な火災に付され、アケメネス朝の権威は決定的に打ち砕かれます。
統治面でアレクサンドロスは、在来のサトラップ制を基本的に継承しつつ、財務官と軍司令を分けて相互監視を強化し、王命査察(エピスコポス)を派遣して越権や反乱を抑えました。貨幣制度では、王像・ゼウス像を刻むテトラドラクマ銀貨を大量鋳造し、傭兵給与と市場流通の統一基盤を整えます。言語面ではギリシア語コイネが行政・交易の共通語として浸透し、碑文・命令・契約が標準化しました。
しかし、帝国の東半は容易ではありませんでした。前330年のペルシス門(ペルシアン・ゲート)突破など山岳戦を経て、王はさらにバクトリアとソグディアナへ進みます。ここでは遊牧・山地勢力のゲリラ戦が長期化し、斜面要塞(岩城)攻略と冬営の連続、現地豪族との婚姻(ロクサネ)や現地兵の訓練編入(エピゴノイ)など、戦と融和を交えた消耗戦となりました。王はスサの合同婚礼(前324)でマケドニア将兵とペルシア貴族女性の集団婚姻を取り計らい、エリート層の融合を企図しますが、兵士の帰郷要求(オピスの反乱)に直面して恩赦と金銭で収拾する場面も生じました。
インド遠征と帰還:ハイダスペス、ヒュパシスでの反転、ゲドロシア越境と航海
前327年、アレクサンドロスはヒンドゥークシュを越えてインド北西部へ進み、タキシラの王と同盟しつつインダスを渡河しました。前326年のハイダスペス川の戦いでは、雨季の増水を利用した夜間の隠密渡河と、象軍・重戦車的騎兵に対する分散・側面攻撃でポロス王を破り、敗者を厚遇して従属王として統治に残しました。これによりインダス上流域の制圧は進みますが、兵は湿潤・高温の環境に疲弊し、さらに東方のガンジス流域に大国が控えるとの情報に恐れをなし、ヒュパシス(ベアス)河畔で帰還を要求します。王は説得を重ねるも翻意させられず、凱旋の儀礼を執り行って反転しました。
帰路は二手に分かれ、主力はインダスを下ってマカラン海岸へ、西方のゲドロシア砂漠を横断してカルマニアへ出る過酷な行軍を選びました。補給の読み違いと自然条件により多くの将兵と輜重が失われ、遠征全体で最も大きな損耗が生じます。他方、艦隊司令ネアルコスはインダス河口からペルシス湾を通る沿岸航海を成功させ、季節風と水脈・港の実測に基づく実用的海図の端緒を築きました。王はこの航路を帝国物流の新動脈に育てる構想を抱き、アラビア制圧や港湾整備を計画します。
前324年、最愛の盟友ヘパイスティオンが急死すると、王は葬儀と神格化で喪に服しつつ帝国再編に着手しました。帰還兵の恩給、辺境の再配置、アジア各地のギリシア人追放者の復帰命令(ディオイキシス)など、統一国家の制度化に向けた布石が並べられます。しかし前323年、王はバビロンで急病に倒れ、32歳で没しました。死因は熱病説・マラリア説・急性膵炎説などが取り沙汰されますが、確証はありません。
遠征の意味と学習の要点:制度・文化の持続、反発と矛盾、ヘレニズム世界へ
東方遠征の意義は、第一に軍事・補給・海軍の総合運用にあります。会戦の妙(斜行・楔形突撃)だけでなく、フェニキア沿岸の制圧と海上補給、攻囲工学、長距離行軍の規律が勝利を支えました。第二に、統治の実務です。在来制度(サトラップ制)を利用しつつ、財務・軍事の分掌と監察、貨幣・度量衡・言語の統一、都市建設と道路の整備が、広域支配の手足となりました。第三に、文化的交流と摩擦です。合同婚礼や王権儀礼の異文化的接合は、現地協力を得る実利の一方で、マケドニア兵のアイデンティティと緊張し、内部紛争を誘発しました。
遠征後の世界では、ギリシア語コイネを媒介にした知の交流、貨幣経済の深化、アレクサンドリアを筆頭とする都市文化の勃興が、複数の王権(プトレマイオス朝・セレウコス朝・アンティゴノス系)のもとで持続します。これがヘレニズム世界であり、科学・哲学・宗教・芸術・商業が国境を越えるダイナミズムを獲得しました。他方で、地方反乱・民族対立・重税・官僚の腐敗など、帝国統治の常なる課題もまた広がりました。
学習の要点を整理します。①年表:前334グラニコス→前333イッソス→前332ティルス・エジプト→前331ガウガメラ→バビロン・スサ・ペルセポリス→前330–327中アジア→前326ハイダスペス→前325ゲドロシア越境・ネアルコス航海→前324スサ合同婚礼→前323バビロンで死。②戦術と補給:合成兵種、斜行・楔形突撃、攻囲工学、海上補給の優先。③統治:サトラップ制の継承、監察・分掌、貨幣(テトラドラクマ)、コイネ、都市建設。④文化・儀礼:アモン神託、プロスキュネーシス、合同婚礼、オピスの反乱。⑤地名と用語:ヘレスポント/ティルス/アレクサンドリア/バビロン・スサ・ペルセポリス/バクトリア・ソグディアナ/ハイダスペス/ヒュパシス、ネアルコス・ヘパイスティオン・ベッソス・ポロスなど。これらを骨組みに据えると、遠征の全体像と局面ごとの論点を過不足なく説明できるようになります。
総括すると、アレクサンドロスの東方遠征は、戦場だけでなく都市・通貨・言語・儀礼といった諸要素を巻き込み、広域の人と物と知識を高速で結び直した歴史的事件でした。その光の面(交流と制度化)と影の面(暴力と搾取、環境の過酷さ)が重層的に絡み合い、以後の千年に及ぶユーラシアの秩序へ長い影響を与えたのです。

