安徽派(あんきは) – 世界史用語集

安徽派(皖系)は、中華民国初期に北洋軍閥が諸派へ分裂するなかで台頭した政治・軍事勢力で、首領は段祺瑞(だん・きずい)でした。名称は指導層に安徽省出身者が多かったことに由来しますが、実際には出身地だけでなく、北洋陸軍・参謀本部・財政官僚・実業界にまたがる人的ネットワークと、議会を掌握する政友機関〈安福倶楽部〉を通じた政党風装置を基盤としていました。安徽派は、第一次世界大戦への参戦(1917)をてことする国際的承認の獲得と、対日借款(西原借款)による軍備・政務資金の調達を推し進め、護法運動で広州に拠った南方政府に対抗しました。1918年には総選挙を操作して議会多数を握り、徐世昌を大総統に擁立して北京政府を実効的に支配します。しかし、直隷派(馮国璋・呉佩孚)や奉天派(張作霖)との緊張が高まり、1920年の直皖戦争で敗北して中枢権力を失いました。段祺瑞は1924年の北京政変後に「臨時執政」として復帰しますが、1926年に退陣し、皖系は組織勢力としての影響力を終えました。

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成立と基盤:段祺瑞の官僚軍人ネットワークと〈安福倶楽部〉

袁世凱死去(1916)で北洋政府の統合が崩れると、軍・官僚・財界の人的結節を握る者が地方軍閥化の核になりました。安徽派は、北洋陸軍の参謀幕僚と軍需・財政官僚を束ねた段祺瑞の指導力を中核とし、安徽出身の将校・実業家、北洋系の文官層が支柱でした。段は首相として内閣・陸軍部・財政部の要職に腹心を配し、塩税・関税や鉄道収益を担保とする借款で軍政資金を動員し、同時に新聞・通信社を通じて世論操作も図りました。

議会対策の要であったのが〈安福倶楽部〉です。1918年の総選挙期に、徐樹錚(じょ・じゅじょう)や王揖唐らが北京の安福里を拠点に組織した政友サロンで、資金と官職見返りで候補者を抱き込み、議員を派閥化しました。倶楽部は表向き政党を称しつつも、議院運営・人事・予算を通じて政府与党として機能し、立法府の独立性を大きく損ねました。こうして北京政府は「安徽派政府」の性格を帯び、反対派や中立派を政治的・財政的に圧迫しました。

対外路線と統合政策:参戦・借款・山東問題、外蒙古出兵

安徽派の対外路線は実利的でした。第一次世界大戦で対独宣戦(1917)を断行したのは、対華借款市場へのアクセス拡大と、戦後講和会議での国際的地位確保を狙った判断です。資金面では、日本の西原亀三を窓口とする西原借款(1917–18)に依存し、兵工拡張・鉄道経営・軍費に充てました。この対日依存は、パリ講和会議で旧独領山東権益の対日継承が承認されたとき、内政上の逆風を招きました。すなわち五四運動(1919)で反日・反売国の世論が爆発し、北京政府の正統性が毀損したのです。

対ロ・対モンゴルでは、徐樹錚が1919年に外蒙古出兵を行い、辛亥後に成立した自治体制を一時的に終息させました。出兵は北域の勢力圏確保を意図しましたが、持続的な統治・開発政策を設計できないまま国際環境の変動に押し戻され、のちに撤退を余儀なくされます。南方の孫文らによる護法運動に対しては、軍事圧力と談合で切り崩しを図り、広州政府の国際承認・財源確保を阻むことに腐心しました。

産業・財政面では、塩税・関税・鉄道収益を担保に国内外の資金を調達し、兵工廠の拡充や通信・鉄道事業の統合を進めました。もっとも、戦時財政の比重が高く、民生投資の薄さと汚職の蔓延が構造的欠陥となり、地方軍の糧秣補給でも各省財政の摩耗が目立ちました。安徽派の「国家統合」は、実利主義と短期軍事費調達に傾いたことで、制度的持続性を獲得しきれなかったのです。

政治運営の手口と対抗勢力:議会操作と三派均衡、張勲復辟の処理

1917年の張勲復辟(清朝復古)を段祺瑞が武力で鎮圧したことは、北京政府と段の求心力を一時回復させましたが、同時に軍事による政治解決の前例を作りました。段は内閣と軍部の権限集中を進め、議会は安福倶楽部の多数で追認機関化し、新聞・結社に対する取り締まりも強化されます。地方では督軍・巡按使への任免を通じて人事ネットワークを拡張しましたが、恩顧と利権配分に依存した統治は、反発を抑え込めても長期の忠誠を確保できませんでした。

他方、北洋内部は直隷派(馮国璋→呉佩孚)と奉天派(張作霖)という大勢力が拮抗し、安徽派は両者を分断しつつ均衡を取る戦術を採りました。ところが、五四後の世論の逆風と財政逼迫で安徽派の求心力は低下し、奉天との協調は不安定、直隷との対立は激化します。こうして、軍事決戦を回避してきた均衡戦術は限界に達しました。

直皖戦争と瓦解、残存勢力の動向:1920敗北から1926退場へ

1918年の総選挙で安福倶楽部が議会をほぼ独占したことは、短期的には権力集中を実現しましたが、反対派を一層急進化させました。1920年夏、直隷派は呉佩孚の機動力と宣伝戦を武器に、奉天派と連携して安徽派を攻撃し、直皖戦争が勃発します。戦争は数週間で決着し、安徽軍は連戦連敗、北京からの撤退を余儀なくされ、段祺瑞は辞職・退去しました。安福倶楽部も瓦解し、安徽派の中央支配は終わります。

その後、皖系の将兵や官僚は各地へ流動し、一部は奉天・直隷側へ、また一部は独自勢力として残存しました。1924年、第二次直奉戦争の渦中で冯玉祥(馮玉祥)が北京政変を起こすと、調停役として段祺瑞が「臨時執政」に迎えられ、各派の上に立つ暫定政府が成立します。しかし、広東の国民革命の進展、ソ連・共産党の影響、北京での学生・市民運動の昂進など、政治空間は急速に変容していました。1926年、張作霖の圧力で段は退陣し、天津租界へ去ります。こうして、安徽派は組織勢力としての歴史を実質的に閉じました。

評価・意義と学習の要点:国家統合の試みと限界、国際環境との相互作用

安徽派の意義は、北洋体制の内部から官僚軍事複合を動員して国家統合を試みた点にあります。参戦による国際承認獲得、借款による財政・軍需の拡張、議会工作による制度的正統化は、一見すると近代国家の装いを整える手順でした。しかし、(1)外資・借款依存による主権制約、(2)議会の形骸化と結社・言論の抑圧、(3)社会動員に応える包摂的政策の欠如、(4)軍閥均衡の短期戦術に依存、という構造的限界が、五四運動や反安徽の世論・軍事連合を招き、瓦解に至りました。

学習の要点を整理します。①時期:1916段祺瑞台頭→1917対独参戦・西原借款→1918安福倶楽部と総選挙→1919五四運動・外蒙古出兵→1920直皖戦争敗北→1924臨時執政→1926退陣。②人物:段祺瑞(首領)、徐樹錚(軍事・対外政策の実行役)、王揖唐(安福倶楽部の顔)、徐世昌(大総統、安徽系に支えられる)、対抗勢力として馮国璋・呉佩孚(直隷)、張作霖(奉天)、周辺として孫文(護法運動)など。③用語:安福倶楽部西原借款直皖戦争護法運動張勲復辟山東問題外蒙古出兵。④ポイント:議会と軍の二重支配、外資と主権のトレードオフ、世論の逆風と軍閥均衡の破綻。

総括すれば、安徽派は、北洋体制の「中央集権化」を最も大胆に設計した勢力でしたが、その手段が外部資金と議会操作、軍事威圧に偏ったため、社会的正統性と長期安定を確保できませんでした。直皖戦争での敗北は、軍閥政治が均衡術から総力動員の時代へ移行する転換点を画し、続く国民革命の舞台を整えました。安徽派を学ぶことは、近代中国の国家形成が内外の圧力とリソース制約のなかでどのように試みられ、どのように頓挫したのかを具体的に理解するうえで有効です。