EU憲法 – 世界史用語集

「EU憲法」とは、2004年に署名された「ヨーロッパのための憲法を制定する条約(通称:欧州憲法条約)」を指す呼び名です。EUを一つの国のようにしてしまうという意味ではなく、複雑になっていた条約群と機構の仕組みを一冊にまとめ、EUの基本原則や権利、意思決定の方法を分かりやすくすることを狙った計画でした。ところが2005年、フランスとオランダの国民投票で批准が否決され、条約は発効に至りませんでした。その後、多くの内容は2007年署名・2009年発効のリスボン条約に形を変えて受け継がれます。つまり「EU憲法」は、EUがどのように自分たちの「憲法らしさ」を作ろうとしたのか、そしてなぜ一度は挫折し、どこが別のやり方で実現したのかを学ぶためのキーワードです。難しい法律の話と思われがちですが、要は「誰が、どの手続で、どんな原則に基づいて、ヨーロッパ全体の決まりを作るのか」を整理し直そうとした試みでした。

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背景と道のり――ラーケン宣言から「欧州憲法条約」署名まで

EUは、冷戦終結と拡大の波を受けて1990年代に大きく姿を変えました。マーストリヒト条約(1993発効)で「欧州連合(EU)」が生まれ、通貨統合も進みますが、制度は「三本柱」など専門家でないと理解しづらい構造でした。さらに2004年には中東欧を中心に10か国が一挙に加盟する拡大が予定され、意思決定の効率と正統性をどう確保するかが喫緊の課題になりました。

2001年のラーケン宣言は、EUの将来をめぐる大改革の議題を掲げ、「条約の簡素化」「権限配分の明確化」「国民との距離の短縮」などを目標に、各国政府・欧州議会・国民議会・委員会などから代表が集まる「欧州憲法制定会議(コンベンション)」の開催を決めました。2002〜2003年にかけてのコンベンションは、議長ヴァレリー・ジスカール・デスタン、副議長ジュリアーノ・アマート、ジャン=リュック・ドアーヌの下で、公開性の高い審議と草案づくりを進めました。

この草案を土台に、加盟国政府間の最終交渉(政府間会議)が重ねられ、2004年10月にローマで「ヨーロッパのための憲法を制定する条約」が署名されます。条約は全体を四部構成(第I部=制度と権限、II部=基本権憲章、III部=政策と運用、IV部=一般・最終条項)とし、分厚い既存条約を「一冊の基本法」にまとめ上げる体裁でした。ここで「EUの法の優位」「EUの単一法人格」「撤退条項」「国民議会の関与強化」など、後のリスボン条約にもつながる多くの仕掛けが提示されました。

条文の柱――何を「憲法化」しようとしたのか

第一に、制度の見通しを良くする工夫です。欧州連合と欧州共同体などの二重構造を統合し、EUに「単一の法人格」を与えることで、対外条約の締結や国際機関での位置づけを明快にしようとしました。立法の呼び名も、従来の「規則・指令・決定」から「欧州法・欧州枠組法」などに改め、一般市民に分かりやすい表現を模索しました(のちにリスボンでは旧用語が実体として復活します)。

第二に、権利の明記です。2000年に宣言された「EU基本権憲章」を条約の第II部に組み込み、尊厳・自由・平等・連帯・市民権・正義といった章立てで、EUレベルの立法・行政が守るべき権利標準を明文化しました。労働時間、データ保護、差別禁止、子どもの権利、連合の市民の参政権など、具体的項目が盛り込まれ、「EUの権利カタログ」を基礎法の中核に据えた点が画期的でした。

第三に、決定方式の刷新です。加盟国の人口と数を両睨みする「二重多数決(ダブル・マジョリティ)」への移行、共同決定手続(のちの通常立法手続)を広い政策分野に拡張、欧州議会の権限強化、閣僚理事会の公開投票化など、民主性と効率性を両立させる設計が図られました。加盟国の国民議会がEU立法の補完性(サブシディアリティ)違反を警告できる「早期警戒(イエローカード)」仕組みも新設され、ブリュッセルと各国議会を結ぶ回路が整えられました。

第四に、役職と外交の再編です。自然人の「EU大統領」をつくるという意味ではありませんが、欧州理事会の常任議長(のちの「欧州理事会議長」)を置いて、半年ごとに持ち回りで変わる議長国制の限界を補おうとしました。また「欧州連合外相」に相当するポスト(のちの「対外・安全保障政策上級代表」)を設け、委員会と理事会の二重構造を束ねて対外発信の一貫性を高める狙いが掲げられました。

第五に、原則の明確化です。EU法の優位(加盟国の国内法よりもEU法が優先するという考え方)を条文で確認し、EUの権限が限定列挙であること、補完性・比例性を守ること、そして市民発案(のちの「欧州市民イニシアティブ」に相当)など、統合の民主的正当性を補強するメカニズムが置かれました。さらに、加盟国が自発的に連合から離脱できる「撤退条項」も明文化され、主権国家の自発的連合というEUの性格が文章で示されました。

また象徴の次元でも、旗・賛歌・標語(多様性の中の統一)・記念日(5月9日)など「ヨーロッパのシンボル」を条約に位置づけ、政治共同体としての可視性を高めようとしました。これらの象徴は、のちのリスボン条約では本文から外れるものの、実務と慣行としては引き続き用いられていきます。

挫折の理由――フランス・オランダの否決と論争の争点

2005年春、条約の批准には決定的な壁が現れました。5月のフランス、6月のオランダの国民投票で、いずれも反対多数となったのです。否決の理由は一枚岩ではありません。フランスでは、社会保障の後退や市場重視の色彩への警戒、拡大EUにおける雇用不安(いわゆる「ポーランド人配管工」論争)、トルコ加盟問題への不安、政府への不信などが複合しました。オランダでは、急拡大したEUに対する距離感、移民・統合をめぐる国内議論の緊張、文書の長大さと難解さ、主権と民主主義の関係への疑念などが指摘されました。

「憲法」という語が生み出した期待と警戒も大きかったと言えます。支持者は、EUの民主性と透明性を高め、権利保障を強化する「見える化」の一歩だと評価しました。他方、反対派は、国家の憲法のような象徴性をEUに与えることが、国家の主権や社会モデルを侵食するのではないか、と懸念しました。条約本文に記された「EU法の優位」や役職の新設は、一部で「国家を超える権力の常態化」と読まれ、受け止めの差が大きくなりました。

また、拡大直後でEUが同時に多くの課題を抱えていたことも影を落としました。域内の経済格差、ユーロ導入の負担、労働市場の流動化、テロ対策、移民・難民の受け入れなど、日常の政治不信が「条約の是非」に重ねられ、純粋な法技術の議論が政治感情に飲み込まれた側面は否めません。結果として、全加盟国一致という批准条件は満たされず、「EU憲法」計画は一旦棚上げになりました。

リスボン条約への継承――何が残り、何が変わったのか

挫折で終わりではありませんでした。2007年、各国は「改革条約(リスボン条約)」という別ルートで制度改正を再起動します。ここで採られた戦略は、「憲法」の語と象徴的要素を避けつつ、実務的な改正を既存条約(EU条約と機能条約)の改定という形で埋め込む方法でした。結果として、欧州理事会議長の常設化、対外・安全保障政策上級代表の強化、二重多数決の導入、国民議会の早期警戒、EUの単一法人格、撤退条項、そして基本権憲章への法的拘束力付与(条約本文への編入ではなく、条約からの参照と同等効力の確認)など、「EU憲法」が意図した多くが別名・別形式で実現しました。

一方で、いくつかは修正・後退しました。象徴(旗・賛歌・標語・記念日)の明記はリスボン本文から外れ、EU法の優位は条文ではなく宣言と判例の参照によって確認される形になりました。立法行為の呼称変更も見送られ、従来の「規則・指令・決定」の枠が維持されます。「外相」という呼び名は避けられ、「上級代表」が委員会副委員長と理事会の二帽子をかぶる折衷案で落ち着きました。

それでも、リスボン条約の下でEUの「憲法的骨格」は明らかに強化されました。欧州議会の共同決定権の拡大、市民イニシアティブの創設、国民議会の関与など、民主的正当性の回路が太くなり、対外的にもEUは単一の主体として条約を結びやすくなりました。「撤退条項」はのちにイギリスの離脱手続き(いわゆるブレグジット)で実際に用いられ、EUが自発的連合であることを実感させる出来事となりました。

総じて言えば、「EU憲法」は文言としては成立しませんでしたが、その問題意識――条約の簡素化、権限と責任の見える化、権利保障と民主性の強化――は、制度の実体としては大部分が定着しました。名前は違っても、EUの「憲法化(constitutionalization)」のプロセスは着実に進んだのです。