王党派 – 世界史用語集

王党派(おうとうは、Royalists / Monarchists)は、広い意味で「君主(王)の権威・王統の継続を支持する人びと・勢力」を指す総称です。用語は時代と地域によってニュアンスが異なり、たとえばイギリス内戦期の王党派(キャヴァリアー)、フランス革命と復古王政期の王党派(ロワリスト/レジティミスト)、スペインのカルリスタ、ポルトガルや東欧の王政支持勢力などが含まれます。対置されるのは、議会派・共和派・革命派・立憲派などで、争点は「誰が統治するか」だけでなく、「どの範囲で王権を制約するか」「宗教と政治の関係」「地方と中央の力の配分」「財政・軍事の統制」をめぐる具体的な制度選択に及びます。王党派の実像は、単純な『王様大好き派』ではなく、旧来秩序を守る保守から、立憲君主制の枠内で王位を支える穏健派、あるいは特定王家の継承権をめぐる派閥まで、多彩でした。以下では、言葉の定義と射程、代表的事例、思想と社会基盤、近代以降の展開を整理して解説します。

スポンサーリンク

用語の定義と射程――何をもって「王党派」と呼ぶか

王党派という言葉は、固定的な政党名ではなく、歴史局面で対立軸が立ち上がったときに用いられる便宜上のラベルです。共通点は、王位の正統性(血統・儀礼・法)を重んじ、政治秩序の中心に君主を置くべきだと考える点にあります。とはいえ、王権の範囲については幅があり、専制的君主権(絶対王政)を理想とする立場もあれば、議会・貴族院・身分制議会の枠組みを維持しつつ王位を国家統合の軸とみなす立場もあります。後者は、憲法に基づく君主の儀礼的・調停的役割を重視する意味で、近代の「立憲君主主義」に接近します。

王党派の主張は、三つの層に分けてみると理解しやすいです。第一に「正統性の層」で、世襲・勅命・宗教的加護・歴史的慣習などが根拠になります。第二に「秩序の層」で、王を頂点に置いた官僚制・軍制・司法の安定運用を重視します。第三に「文化・象徴の層」で、王冠・儀礼・年中行事・紋章など、共同体の記憶と感情を結びつける要素を大切にします。対立勢力はしばしばこれらを「特権の温存」と批判しますが、王党派側は「内戦や分裂を防ぐ中立的な軸」として王位を位置づける理屈を提示しました。

注意したいのは、王党派が常に反動・反改革と同義ではないことです。財政の健全化や軍制の再編、地方自治の整理、宗教的寛容など、王権の威光のもとで制度改革を進める立場も多く、むしろ無秩序な革命や急激な私有財産の破壊よりも「秩序ある改良(reform)」を掲げるのが一般的でした。政治的スペクトルのどこに位置するかは、同時代の対抗勢力の性質に相対的に決まります。

イギリス内戦の王党派――キャヴァリアーの社会基盤と戦い

17世紀のイングランドでは、チャールズ1世を支持する王党派(キャヴァリアー)と、議会の権限強化を求める議会派(ラウンドヘッド)が内戦を戦いました。王党派の社会基盤は、大土地所有の貴族・ジェントリの一部、国教会(イングランド国教会)の聖職者と信徒、王権の恩恵に与る都市の有力者などでした。彼らは王権神授説や伝統的慣習法、教会制度の維持を重視し、王権の財政手段(関税・専売など)に一定の理解を示しました。一方で、専制的課税や恣意的逮捕への不満も抱えており、王党派内部にも穏健派と強硬派の幅がありました。

内戦では、王党派は騎兵力に優れ、地方の有力者が私的家臣団を動員することで初期に善戦しました。しかし、議会派が常備軍(ニューモデル・アーミー)を整備し、税制と徴発を中央集権的に運用すると、王党派は動員力と補給で劣勢に立たされます。宣伝戦では、王党派は戴冠・儀礼・神話を活用して王の「父権」イメージを強調し、議会派は腐敗と浪費の告発、宗教の自律を訴えました。最終的に王党派は敗北し、チャールズ1世は処刑、共和政(コモンウェルス)が成立しますが、王党派の社会的基盤が完全に消えたわけではなく、王政復古(1660)でチャールズ2世が帰還した際、彼らのネットワークが政治秩序の再建に動員されました。

この事例が示すのは、王党派の力が「個人崇拝」ではなく、地方社会の地縁・封建的忠誠・教会ネットワークといった中間団体に根ざしていた点です。軍事・財政・情報の近代化が進むほど、王党派は儀礼と象徴だけでは戦えず、税と兵の近代的統制をめぐる交渉に踏み込まざるをえませんでした。王権の神聖性は、実務の裏付けがあってこそ機能することが、内戦の経験から浮かび上がります。

フランス革命・復古期の王党派――ロワリスト、レジティミスト、そしてヴァンデ

18世紀末のフランス革命では、王党派(ロワリスト)は初期には立憲王政を支持する穏健派と、王権の回復を目指す強硬派に分岐しました。共和政樹立とルイ16世処刑ののち、亡命貴族や聖職者、王党派農民は、王室の名のもとで反革命運動を展開します。なかでも有名なのが西部ヴァンデ地方の蜂起で、宗教的信仰と地域共同体の防衛が、王室忠誠と結びついて大規模な内戦となりました。ここでは、徴兵・宗教政策(聖職者民事基本法)・財産処分への反発が、王党派の動員の核になりました。

ナポレオンの時代を挟んで、1814年以降の復古王政(ブルボン朝およびオルレアン朝)では、王党派は「誰を正統と認めるか」をめぐって再分裂します。長子相続の正統を重んじるレジティミストは、革命と帝政の断絶を強調し、農村の保守層やカトリック信徒に根を張りました。より現実的で議会主義に親和的なオルレアニストは、ブルジョワ的近代化と王位の両立を図り、銀行・商工業の利害を反映しました。さらに、ボナパルティスト(ナポレオンの系統)とも競合し、王党派は単一の塊ではなくなります。

フランスの経験から学べるのは、王党派が「宗教と地域社会のアイデンティティ」と「旧体制の法的連続性」の二本柱で動員されやすいという点です。同時に、商工業の発達と都市の政治化が進むほど、王党派は立憲主義と議会政治に適応しなければ、広範な支持を維持できませんでした。王冠は、近代の政党政治と折り合いをつけることで、立憲的な安定の象徴へと変質していきます。

他地域の王党派と近代以降――カルリスモ、東欧、そして立憲君主主義へ

スペインでは、19世紀に継承法をめぐる対立からカルリスモ(カルリスタ運動)が生まれました。彼らはサリカ法の解釈問題をきっかけに、地方的自治・カトリック信仰・伝統的身分秩序を旗印として、中央集権的自由主義に対抗しました。カルリスタは、王党派であると同時に、地方共同体の保守文化の運動でもあり、複数回の内戦(カルリスタ戦争)を経て、長くスペイン政治に影響を及ぼしました。

ポルトガル、イタリアの統一過程、ハプスブルク帝国の諸民族運動、東欧・バルカンの独立運動でも、王党派はさまざまな形で現れました。近代のナショナリズムは王位としばしば緊張関係に立ちますが、逆に王冠が新国家の統合の核になることも少なくありません。ベルギーやイタリアでは、新王朝の創設が国民国家の「顔」を作りました。東欧では、第一次世界大戦後の王政廃止や共和化の波のなかで、王党派は亡命と復辟運動に分岐し、20世紀後半には象徴的・文化的な支持層として残存しました。

立憲君主制が一般化するにつれて、王党派の主張は「王の政治的裁量を広げる」ことよりも、「王位の中立・調停機能を守る」方向へシフトします。ここでの争点は、王室の経費・継承順位・政治的中立・軍の統帥権などの細目に移り、国民投票や議会多数のもとで合意形成が図られます。つまり、近代以降の王党派は、革命と反革命の二項対立ではなく、制度設計の選択肢の一つとして現れるようになりました。

言葉の使い方にも注意が必要です。「王党派」は日本語史学では便宜上の総称で、英語の Royalist / Monarchist、フランス語の royaliste / légitimiste、スペイン語の monárquico / carlista など、文脈に応じて訳し分けます。特にレジティミストは「正統王党派」と訳され、特定王家の継承権を厳密に主張する派を指します。単に王政支持だからといってレジティミストとは限らず、オルレアニストやボナパルティストのように、王位の担い手や国家像をめぐる多様な立場がある点を押さえておくと、史料の読み違いが減ります。

総じて、王党派とは、王位の正統性・秩序の安定・文化的記憶を軸に政治を構想する人びとの集合的呼称です。彼らの強みは、戦乱回避や財産権・宗教秩序の保全を掲げて中間層の安心感を掴みやすいこと、弱みは、社会変動の加速や不平等の是正要求に応じ切れないと「時代遅れ」と見なされやすいことにあります。どの時代の王党派も、象徴としての王冠と、税・軍・司法という実務の両輪をどう噛み合わせるかに成功と失敗がかかっていました。歴史を学ぶ際は、「王党派=反動」という短絡を避け、各地域・各時点で彼らが何を守り、何を改めようとしたのかを具体的に見ていくと、より立体的に理解できるはずです。