オスマン債務管理委員会 – 世界史用語集

オスマン債務管理委員会(オスマン語:Düyûn-ı Umûmiye、英:Ottoman Public Debt Administration, OPDA)は、1875年の事実上の財政破綻を受けて1881年のムハッレム勅令により創設された、列強と債権者代表がオスマン帝国の特定税収を直接管理する半官半民の超法規的機関です。帝国歳入の中核に食い込み、塩税・タバコ専売・印紙税・酒税・漁業税、さらには一部の関税やシリア・イラク方面の資源関連収入などを担保化して債務返済に充てたことで、国家主権の大きな制約と引き換えに国際信用の再建を図りました。イスタンブル本部と各州の出先を持ち、欧州列強(英仏独墺伊、のち蘭・オスマン系債権者)と「ガラタの銀行家」たちが理事会に名を連ね、独自の徴税吏・会計・倉庫・警邏権限まで備えたこの委員会は、19〜20世紀初頭のオスマン帝国を理解するうえで、金融・外交・地方社会を貫くキーワードです。本稿では、成立背景と制度設計、徴収メカニズムと現場、政治・外交・社会への影響、清算と遺産という観点から、用語の射程をわかりやすく整理します。

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成立背景とムハッレム勅令――破綻から「担保化された主権」へ

19世紀半ばのオスマン帝国は、クリミア戦争と近代化(タンジマート)の費用、鉄道・港湾・軍備の外貨調達のために欧州資本市場から次々と起債しました。ところが、綿価の乱高下や関税自主権の制約(協定税率)、行政改革の遅れによる徴税非効率が重なり、1875年に外債利払いの停止(モラトリアム)を宣言します。バルカン危機と露土戦争(1877–78)で状況はさらに悪化し、帝国は国際的な債務整理を回避できなくなりました。

1881年のムハッレム勅令(「ムハッレム統一勅令」)は、この危機を制度化して収拾する枠組みでした。債権者団は、既存債務の一括整理(減免・金利引下げ・償還長期化)と引き換えに、債務返済の原資となる特定税目を「オスマン債務管理委員会」の管理下に置くことを要求し、政府はこれを受け入れます。対象税目は塩税、タバコ専売収入、印紙税・酒税・漁業税のほか、当初はシルクロード沿いの十分の一税(アーシュル)や一部の関税割当も含まれました。委員会は、国家会計とは別勘定の「債務会計」を運用し、徴収→保管→利払い・償還の一連を自ら完結できるよう設計されました。

この改革は、主権機能の一部を<担保化>して国際的な信認を取り戻す代わりに、国家が自由に使える歳入を痩せさせるというトレードオフでした。財政赤字の恒常化、軍備と行政の資金不足、地方の公共事業の停滞は、のちの政治危機と民族運動の背景にもなります。

組織と徴収メカニズム――理事会、出先網、レジー会社と「もう一つの官僚制」

委員会の中枢はイスタンブルに置かれ、英・仏・独・墺洪・伊・オランダ、そしてオスマン国籍の債権者代表から成る理事会(Council)が運営を統括しました。総裁・書記・会計・法務を中心に、各税目ごとに局(塩局・印紙局・酒税局・漁業局・タバコ局など)が編成され、アナトリア・バルカン・アラブ州に出先事務所と倉庫、税関詰所を置きました。徴収人員は全盛期で一万人規模に及んだとされ、制服・身分証・独自の規程を持ち、時に治安部隊(ザプティエ)と連携して取り締まりに当たりました。

とりわけ象徴的だったのが、タバコ専売です。タバコ栽培・加工・売買の官許独占を運営するために、委員会は欧州資本と共同で「レジー・コー(Régie Co.)」と通称される企業体(外見は民間、実質は委員会の出先)を組織し、買上価格・集荷ルート・輸送・販売網を統制しました。脱税・密造・密輸への厳罰、栽培面積の許可制、地方商人のライセンス制度は、農村の生活世界に直接介入するもので、農家・仲買・職人の利害と衝突します。塩税は、塩田・塩倉の管理と輸送ルートの封鎖で実効性を確保し、印紙税は行政文書・商取引・裁判文書の「印紙貼付」を徹底して徴税の網羅性を高めました。

会計は、月次・四半期・年次の収入報告を欧州の監督銀行(しばしばパリ・ロンドンの大手)に送付し、クーポン利払い期日を厳格に管理。未達分は翌期に繰り越され、政府の一般会計が肩代わりすることは原則禁じられました。委員会は国際資本市場との通信・為替決済のハブでもあり、既存債の借換え(コンソリデーション)や新規工事社債の発行にも影響力を持ちました。

政治・外交・社会への影響――半植民地化の装置か、近代財政の学校か

オスマン債務管理委員会は、帝国主権の実質的切り売りとして批判されてきました。英仏独墺伊などの列強は、委員会の理事席次・議決権・税目配分をめぐって丁々発止の駆け引きを続け、財政統制をテコに鉄道敷設権・鉱山利権・港湾管理権などを獲得していきます。とくにドイツはバグダード鉄道計画を、フランスはレバントの公債市場とシリアの商業権益を、イギリスは海運・石油・金融のネットワークを、それぞれ委員会を節点として拡大しました。こうして帝国は、関税自主権の喪失と合わせて「財政的保護国」の様相を強め、列強間の勢力均衡の場としても使われることになります。

一方で、委員会がもたらした事務・会計の標準化、統計と監査、倉庫・輸送・保安の手順整備は、近代的な財政運営の実地学校でもありました。多くのトルコ人・ギリシア人・アルメニア人・レヴァントのユダヤ人職員が訓練され、二言語・三言語で会計・法律・商慣行に通じた人材が育ちます。彼らの一部は後年、共和国期の財政・海関・国庫・統計局で要職を占め、実務の連続性を担いました。つまり、委員会は主権を削る装置であると同時に、行政能力を底上げする矛盾した装置でもあったのです。

社会面では、タバコレジーの取り締まりに対する農民・仲買の抵抗、密輸ネットワークの巧妙化、地方官との癒着、暴力的衝突が各地で発生しました。レヴァントの港湾都市では、商館・銀行・保険・航路会社が委員会の信用を「裏書」としてビジネスを拡張し、植民地型経済の中間層が厚みを増します。農村では現金作物への依存が深化し、価格下落時には一気に返済不能に陥る債務経済の罠が広がりました。これらは民族運動・労働運動・都市のナショナリズムと絡み、帝国末期の政治不安の温床となります。

清算と遺産――ローザンヌ以後、共和国の交渉と最終払い

第一次世界大戦と帝国解体ののち、委員会は直ちには消滅せず、イスタンブルにとどまって「旧オスマン債務」の清算業務を継続しました。1923年のローザンヌ条約は、旧帝国領を継承した諸国家(トルコ共和国、イラク、シリア、レバノン、ギリシア、ユーゴスラヴィア、ブルガリアなど)に債務の配分原則を定め、各国は人口・富・受益の比率に応じて負担を割り振られます。トルコ共和国は、為替・金利・通貨事情の著しい変動を踏まえて、1928年から1933年にかけて一連の債務再編交渉を行い、オスマン債務の大幅な減額と長期分割払い、金建て→通貨建ての切替えなどを取り付けました。

委員会の機能は、この再編の進展とともに段階的に縮小され、レジー会社の専売権も共和国の専売機構(İnhisarlar、のちTEKEL)に移管されます。理事会は清算法人へと衣替えし、債券保有者への支払い管理を残すのみとなりました。トルコ側の最終支払いは1950年代半ばに完了し(通念では1954年に外債償還が事実上終結)、長い「オスマンの借金」の時代に幕が下ります。

遺産の面では、(1)財政主権の重要性と外債依存のリスク、(2)税制・関税・国有専売の制度化、(3)統計・監査・会計の職能化、(4)国際金融と国内政治の相互浸透、といった教訓が残りました。共和国期の財政法や関税行政、統計年鑑の体裁、専売公社の運用には、委員会時代の実務がしばしば陰影として見出されます。

位置づけのまとめ――帝国の末期を貫く「見えない財政国家」

オスマン債務管理委員会は、単なる債権者の代弁機関ではなく、帝国内部にもう一つの財政国家を埋め込んだ装置でした。そこでは、税の設計から徴収・保全・会計・監査・治安・物流までが、帝国政府とは異なるルールで動き、欧州の銀行・保険・海運・商館と直結していました。この装置は、帝国の主権を痩せさせつつも、実務の近代化を促すという二面性を帯び、地方社会に深い爪痕と新しい技能の両方を残しました。ムハッレム勅令の条文、レジー会社の台帳、倉庫の封緘、印紙の糊、塩倉の鍵、港湾の荷札――それらの細部は、国際金融がいかにして国家の内部に入り込むのか、その具体的な作法を今に伝えています。委員会を学ぶことは、19世紀世界経済の力学と、主権・債務・ガバナンスの三角関係を理解する格好の窓口なのです。