オルメカ文明 – 世界史用語集

オルメカ文明は、メソアメリカ初期にメキシコ湾岸低地で興隆した複合社会を指す呼称で、前1200年ごろから前400年ごろにかけてサン・ロレンソやラ・ベント、トレス・サポーテスなどの中心地が栄えたと理解されています。巨大な玄武岩製の「石造巨頭像」や、ジャガーと人間が交わったような「ワー・ジャガー」の図像、翡翠を用いた精緻な小像や斧形の石製品、粘土造成による大規模な壇やピラミッド状の土丘などがよく知られています。のちのマヤ、サポテカ、テオティワカン、中央高地の諸文化に共通する要素—球技、260日の暦、儀礼センターと広場の構成、宗教図像の語彙—の多くが、この時期に形を整えたと見なされることが多いです。現地語の自称は不明で、「オルメカ」は後世のナワトル語に由来する「ゴムの人々」という広域名から学術的に便宜上あてられた名称である点にも注意が必要です。

本項では、①成立と環境・主要遺跡、②造形と宗教世界、③社会・経済・交流の実像、④興亡と影響—いわゆる「母文化/姉妹文化」論争を含む—の四つの観点から、最新の知見を踏まえて分かりやすく整理します。単純化を避け、確実な事実と学説の幅を区別しながら記述するよう努めます。

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成立と環境・主要遺跡—湿潤低地に築かれた儀礼センター

オルメカの中核地域は、現在のメキシコ・ベラクルス州南部からタバスコ州西部にかけての沿岸低地です。温暖多雨で河川と湿地が入り組む環境は、トウモロコシを基幹とする農耕に、漁撈・狩猟・採集を組み合わせる生業に適していました。自然の微高地や人工の盛土を活かし、基壇と広場、土製のピラミッド状構造、参道や水路を備えた「儀礼センター」が整えられました。壮大な石造建築が目立つのは後世の文明ですが、オルメカでは土木と粘土造成の技術が都市空間を形づくる基盤でした。

最古級の中心として知られるサン・ロレンソ(前1200〜前900年頃栄)は、台地状の高まりに複数の広場と居住域が配され、玄武岩の水路や排水設備が整えられていました。周辺の川を通じて、遠方のトゥストラ山地から切り出した巨石が運び込まれ、そこから石造巨頭像や玉座状の「祭壇(スローン)」が彫り出されました。サン・ロレンソの勢いが衰えると、ラ・ベント(前900〜前400年頃栄)が台頭し、円錐状の大土丘(いわゆる「ラ・ベント・ピラミッド」)と整然とした基壇群、翡翠のモザイク奉納など、儀礼景観の象徴性がいっそう強まります。さらに後期にはトレス・サポーテスが地域の要となり、ここからは後述する長期紀年の初期例を含む碑文資料も出土しました。

中核域の外にも、ガルフ・コーストから中央高地、オアハカ、ソコヌスコ地方に至る広域に、オルメカ風の土器・石器・図像が分布します。これは軍事的征服の証拠というより、交易網・婚姻・職能の移動・宗教的威信の広がりによる文化的拡散とみるのが一般的です。各地の在地社会は、オルメカ的要素を自らの文脈に取り入れ、互いに影響を与え合いました。

造形と宗教世界—巨頭像、ワー・ジャガー、翡翠の奉納

オルメカ造形の象徴は、言うまでもなく玄武岩の石造巨頭像です。高さ2〜3メートル、重さ数十トンに及ぶ頭部彫刻は、ヘルメット様の頭具をかぶり、個性的な顔貌を持ちます。口や頬、目の形には共通の様式が見られる一方、耳飾や額の装飾、顔つきの差異から、個々の人物—首長・戦士・球技の選手—の肖像である可能性が高いと考えられています。巨石はトゥストラ山地から川を筏で下し、陸上で曳行して運搬されたと推定され、組織力と労働動員の規模を物語ります。

もう一つの象徴が、ジャガーと人の特徴が混ざった「ワー・ジャガー」像です。口角が上下に反り上がり、割れたような頭頂、猫科の牙と人間の頬の線が一体化した表現は、石彫や土製小像、翡翠の小彫刻に頻出します。これが何を意味するかには諸説があり、雨と豊穣の神格、シャーマンの変身(トランスフォーム)、王権の威信記号、または複数の観念の重ね合わせとして解釈されています。いずれにせよ、動物と人、自然と社会、地上と地下(洞窟)をつなぐ媒介者としての存在が重視されていたことは確かです。

ラ・ベントでは、翡翠の斧(セルツ)や小像を整然と並べて埋設した「奉納群」が多数見つかっています。地表に現れない場所に、幾何学的に配置された翡翠のモザイクや小立像の集成を埋める行為は、地下世界(地の内側)と地上の儀礼空間を接続し、共同体の秩序と祖先・神々との契約を更新する宗教実践だったと考えられます。玉座状の「祭壇(実際には王が洞窟の口から現れる場面を刻んだ石造物)」は、洞窟=山=雨の源というメソアメリカの象徴体系を視覚化し、支配者が世界の中心に立つという神話的演出に用いられました。

球技の起源もこの時期に遡るとされ、ヘルメット風の頭具や球技関連の図像がオルメカ資料に既に現れます。競技場の確実な遺構としては、コア域の外縁に属するソコヌスコ地方のパソ・デ・ラ・アマーダ(前1400年頃)が最古級とされ、オルメカ的要素と並行して球技文化が広域に形成されていたことを示唆します。球技は単なるスポーツではなく、宇宙論・政治交渉・生贄儀礼と結びつく、複合的な宗教実践でした。

社会・経済・交流—農耕・手工・交易、そして書記と暦の萌芽

生業の基盤は、トウモロコシ・カボチャ・インゲン豆の三姉妹作と呼ばれる複合農耕に、ペッパーやカカオ、根菜、果実、川・湿地の資源を組み合わせたものだったとみられます。湿地の縁に畝を築いて排水・保水を調整する工夫や、季節的な遊動と定住の併用など、環境への適応は柔軟でした。大規模な灌漑の明確な証拠は限られますが、サン・ロレンソの石樋・水路のように、居住域と広場の水管理は高度でした。

手工業では、翡翠(実際はヒスイ輝石=ジェイダイト系の緑石)や蛇紋岩などの硬石加工、オブシディアンの石器製作、貝・骨・木の工芸、赤色顔料(辰砂)の使用が特徴です。翡翠の原産地は遠くグアテマラのモタグア川流域に求められることが多く、これはオルメカが広域交易網の結節点であったことを示します。玄武岩や砂岩の巨石はトゥストラ山地から、オブシディアンは中央高地やオアハカから、海産貝はカリブ・太平洋沿岸から運ばれ、交換の相手には中央高地のトラティルコやチャルカツィンゴ、オアハカ谷のサン・ホセ・モゴーテなどが含まれました。

社会組織に関しては、首長制から初期国家に至る段階的発展を想定する見方が有力です。モニュメントの規模、労働の動員、中心と周辺の階層差、儀礼の複雑さは、世襲的な首長層と専門の工人・祭司層の存在を示唆します。とはいえ、固定的な帝国ではなく、複数の中心が時期に応じて優勢を交替し、ネットワークで結ばれる構造だったと考えられます。

文字と暦の萌芽も重要です。前900年ごろと推定される「カスカハル板」は、可動式の石板に刻まれた記号列で、オルメカ期の書記システムの存在を示す可能性が論じられています(完全な読解は未成立です)。また、トレス・サポーテスのステラC裏面に刻まれた長期紀年の日付(前31年と解される)は、オルメカ後継の「エピ・オルメカ(イステミアン)文字」に属し、地域の書記・紀年文化がその後も連続したことを示します。260日の祭暦と365日の太陽暦を組み合わせるメソアメリカ暦の基層も、この時期に広がったと考えられています。

興亡と影響—母文化か、姉妹文化か

サン・ロレンソは前900年頃に衰退し、モニュメントの破砕や再利用がみられます。環境変動(河道の変化や湿地化)、社会的対立、交易路の再編などの要因が重なった可能性があります。続くラ・ベントは前400年頃まで栄えましたが、その後は中核域の勢いが低下し、中心は沿岸から内陸・高地へと移っていきます。オルメカの崩壊は急激な終末ではなく、ネットワークの重心が他の地域に移る中での段階的な縮小でした。

オルメカの影響については、20世紀半ばから「メソアメリカ文明の母文化(マドレ・クルトゥーラ)」とする見方が広まりました。確かに、球技・祭暦・王権の図像・儀礼センターの構成など、多くの共通要素がオルメカ期に確認されます。しかし近年は、ガルフ・コーストの独自性を認めつつも、オアハカ、ソコヌスコ、中央高地など各地で同時並行的に複合社会化が進んだことを重視し、「姉妹文化(シスター・カルチャーズ)」としての相互影響モデルが支持を得ています。すなわち、オルメカが単独で全てを「発明した」のではなく、広域の交流の中で先行的に象徴や制度を洗練させた地域だった、という理解です。

具体的な受容の例として、マヤ地域の王権図像(翡翠の装身具、山—洞窟—水の複合象徴、玉座と支配者の出現モチーフ)、サポテカの初期文字と記念碑文化、中央高地の宗教建築と球技の重視などが挙げられます。オルメカ的な「赤と黒」「緑(翡翠)」の色彩象徴、ジャガー・ヘビ・鳥の三界を結ぶ動物象徴は、のちの芸術に長く生き続けました。球技は王権の儀礼と外交に欠かせない舞台となり、暦と天文観測は農耕と政治を同期させる制度として洗練されていきます。

考古学の方法論も、オルメカ研究を通じて発展しました。地形解析や微地形の測量、堆積物コアの花粉分析、石材の起源同定(同位体・岩石学)、翡翠の鉱物学的識別、残留物分析による飲料・色料の推定、デジタル計測によるモニュメントの復元など、多角的手法が導入されています。これにより、従来の図像中心の議論に、生業・環境・移動のデータが加わり、より立体的な像が描かれるようになりました。

最後に名称の問題に触れておきます。「オルメカ」は古典期以降のアステカ(ナワトル語)史料で「ゴム(オリ)を産する地の人々」を広く指す語であり、ガルフ・コースト低地の先古典期文化をそのまま指名するための原語ではありません。したがって、本稿でいうオルメカ文明は、考古学的様式と時間・空間のまとまりに基づく便宜的な総称です。名称の便宜性を意識することは、単一の民族や国家の実体として誤解しないために重要です。

総じて、オルメカ文明は、湿潤な低地において農耕・儀礼・造形・交易を結び合わせ、メソアメリカ文明の基本語彙を早期に洗練させた文化です。巨石の顔に刻まれた個性、翡翠の深い緑、地下に隠された幾何学の奉納、洞窟から現れる王の姿と雨の神話—これらは、自然と社会、地上と地下、動物と人の境界を往還する想像力の産物でした。後続の文明は、そこに自らの語彙を重ね、地域ごとの物語を紡いでいきました。オルメカを学ぶことは、メソアメリカがどのように多中心的で創造的なネットワークとして始まり、長い時間の中で豊かな多様性を保ちながら展開したのかを理解する近道になります。