オレゴン併合 – 世界史用語集

「オレゴン併合」は、19世紀前半のアメリカ合衆国とイギリス(英領北米、のちのカナダ)とのあいだで争われたオレゴン境界問題が、1846年のオレゴン条約で妥結し、北緯49度線(とその西端調整)を国境として確定、現在の米国側オレゴン・ワシントン・アイダホ・モンタナ西部・ワイオミング西部が合衆国の主権下に入っていく過程を指して用いられる通称です。厳密には、軍事占領や一方的な編入という意味での「併合」ではなく、1818年以来の英米共同占有(ジョイント・オキュペイション)体制を外交交渉で終わらせ、境界線で分割した結果でした。とはいえ、合衆国側の大規模移民(オレゴン街道)と領土拡張思想(「明白なる天命」)が結果を左右した点で、北米西部の版図形成を象徴する出来事であり、「オレゴン併合」という日本語の慣用表現にも一定の根拠があります。

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用語と舞台の整理—「オレゴン」の範囲、共同占有、併合という言い方

19世紀前半に「オレゴン」と呼ばれた地域は、コロンビア川流域からロッキー山脈西麓、太平洋岸に至る広域で、今日の米国オレゴン州・ワシントン州・アイダホ州の全域と、モンタナ州西部・ワイオミング州の一部、カナダ側ではブリティッシュ・コロンビア州南部を含むエリアでした。スペイン・ロシア・イギリス・アメリカの探検・交易が重なり、アメリカ先住民(コロンビア高原・沿岸の多様な諸社会)が長く暮らしてきた土地です。

1818年の英米条約は、五大湖西方からロッキー山脈に至る49度線を国境としつつ、その西の「オレゴン・カントリー」は英米の「共同占有」に委ねるとしました。これにより、ハドソン湾会社(HBC)とその前身のノースウェスト会社が毛皮交易を支配し、フォート・バンクーバー(現ワシントン州)を拠点に経済圏を築く一方、アメリカ側はウィットマン夫妻らの宣教拠点、農耕開拓、そしてやがて数千にのぼる移民隊がオレゴン街道を通って流入していきます。したがって、「オレゴン併合」は、共同占有の解消と国境確定、続く合衆国の準州化・州昇格の一連を指す言い回しと理解すると分かりやすいです。

また、通称として有名な合言葉「54°40′ or Fight!(54度40分まで、さもなくば戦え!)」は、合衆国の一部拡張論者が、北緯54度40分(当時ロシア領アラスカとの境界)までを米領と主張すべきだと気勢を上げたスローガンです。実際の妥結は49度線で、外交は現実的な折衝で決着しましたが、国内政治の動員においては過激な標語が強い影響を持ったことを物語ります。

展開—境界紛争から1846年オレゴン条約まで

1820年代から30年代にかけて、英米の現地勢力は次第に「二重支配」の色合いを強めます。ハドソン湾会社は毛皮資源の維持のために「ファー・デザート(意図的な捕獲圧)」を用い、アメリカ側の罠猟や交易を牽制しました。他方、合衆国ではミズーリ州インディペンデンスを起点とする「オレゴン街道」が整備され、農耕移民と家族単位の移住が急増します。1843年のチャンプーイ会合(Champoeg Meeting)では、英米の入植者が治安と裁判のための「オレゴン暫定政府」を設け、最低限の自治と法秩序を整えました。これは国籍の異なる住民が共同生活のために編み出した実務的な合意で、のちの準州統治の雛形となります。

1844年大統領選で民主党のジェームズ・K・ポークが勝利すると、合衆国の西方拡張は加速します。テキサスの併合問題と絡めて、オレゴンでも強硬論が台頭しましたが、外交の現場では米英双方が妥協の余地を探りました。イギリスは太平洋の海軍力とアジア貿易にとって不利な対米戦争を望まず、アメリカもメキシコとの緊張(のちの米墨戦争)を抱える中で二正面対立は避けたいのが本音でした。こうした力学のなか、1846年のオレゴン条約は「北緯49度線をロッキー山脈から海岸まで国境とする。ただしジョージア海峡から太平洋に抜ける海峡部は航行と島嶼配分に特則を設け、バンクーバー島全域は英国側に帰す」という実務的な妥協でまとまります。

条約により、米英共同占有は終わり、コロンビア川以南の大半は合衆国の管轄へ移行しました。1848年、合衆国は「オレゴン準州」を設置(首府は最初オレゴンシティ)。その後1853年に北部を分けてワシントン準州を新設、オレゴン側は1859年に合衆国33番目の州として昇格します。境界の細部をめぐっては、サンフアン諸島の帰属争いがなお残り、1859年に「ブタ戦争」と呼ばれる非流血の軍事対立を経て、1872年に国際仲裁(ドイツ皇帝裁定)で米国領と確定しました。こうして、今日の米加国境が最終形に近づいていきます。

社会と地域秩序の変容—オレゴン街道、土地法、先住民社会

国境の確定と準州設置は、現地社会を大きく変えました。1840年代半ばから60年代にかけて、十万を超える移民がオレゴン街道を通って太平洋岸北西部へ殺到します。幌馬車隊はプレーンズと山脈を越え、コロンビア川流域・ウィラメット峡谷に入植地を築き、自治・学校・教会・市場を整備しました。連邦議会は1850年に「寄与地請求法(Donation Land Claim Act)」を制定し、夫婦単位で広い農地の無償・格安払い下げを進め、白人入植を制度的に後押ししました。これにより、農耕・製材・港湾・小都市が連なる「太平洋北西部」の骨格が形作られます。

一方で、アメリカ先住民社会との関係は緊張と暴力をはらみました。1847年、ウィットマン伝道所周辺で麻疹流行と文化摩擦が重なり、宣教師らが殺害される「ウィットマン事件」が発生、翌年からカイユース戦争が続きます。条約交渉と保留地政策(リザベーション)は、しばしば不平等な条件と誤訳・強制で進み、資源と移動の自由を奪う結果を招きました。毛皮交易に依存した経済の崩壊、疾病、金鉱・材木・鉄道の圧力が重なり、コロンビア高原と沿岸の諸部族は、19世紀末までに大きな人口減と土地喪失に直面します。オレゴン併合(境界確定)という外交上の出来事は、現地の人びとにとっては生活世界そのものの再編だったのです。

英米の旧来勢力の交錯も、しばらくは続きました。フォート・バンクーバーを中心にしたハドソン湾会社の拠点網は、条約後も経済活動を続けつつ、次第にカナダ側へ重心を移します。英系住民・メティス・ハワイ出身労働者(カナカ)など、多様な人々が太平洋北西部の社会基盤に寄与しました。川舟・港・道・学校・教会・裁判所が入り交じるなかで、地域アイデンティティは「英国的要素」と「米国的要素」を併せ持つ独特の色調を帯びていきます。

政治・外交上の位置づけ—ポーク政権、英米関係、そして太平洋世界

オレゴン条約は、ポーク政権の領土拡張政策の一部でした。テキサス併合(1845)と米墨戦争(1846–48)で合衆国は南西部を大きく拡張しましたが、同時に北西部では英米関係を悪化させずに国境を有利に引き直すという、微妙なバランス運用が求められました。イギリス側は太平洋航路とアジア交易、特に清国・太平洋島嶼との関係を重視し、北太平洋での米英衝突回避を優先します。結果として、オレゴンは現実的妥協で収まり、カナダの将来の西進(のちの太平洋鉄道とブリティッシュ・コロンビアの連邦加入、1871)の余地も確保されました。バンクーバー島全域の確保は、その象徴的・戦略的意味が大きかったといえます。

合衆国側にとって、太平洋への確実な出口の確保は決定的でした。オレゴン港湾(アストリア、ポートランド、後にシアトル・タコマ)の発展は、木材・小麦・鮭缶詰などの輸出で早くから太平洋経済圏と連動し、さらに東方の大陸横断鉄道建設、アジア航路の拡充へとつながっていきます。外交の一件は、やがて「太平洋国家アメリカ」への長期的転換点でもありました。

その後の行政区画と記憶—準州から州へ、境界の細部と地域アイデンティティ

オレゴン準州(1848–59)は、広大な範囲を抱える暫定統治でした。1853年にワシントン準州(のち州)が分立し、アイダホ・モンタナ・ワイオミング西部は南北に境界を再編しつつ、1863年以降それぞれ独自の準州・州へと進みます。オレゴン州は1859年に合衆国へ加盟し、内戦期には「自由州」として北軍側に立ちました。19世紀後半、港湾・鉄道・森林資源の開発で都市は成長し、英米折衷の地名・制度・景観が地域の「ノースウエスト」意識を形作ります。

境界の記憶は、博物館・史跡・地名に刻まれています。フォート・バンクーバー、フォート・ニスカリー、チャンプーイ州立史跡、オレゴン街道関連の峠や川渡りのポイント、サンフアン諸島の国史跡などが、英米・先住民・入植者の三者の交錯を伝えます。教育現場では、条約の外交史に加え、先住民の視点、女性や非白人労働者の経験、環境史(サケ資源、森林、川のダム化)まで含めた総合的な語り直しが進んでいます。

総じて、「オレゴン併合」と呼ばれる出来事は、単なる領土獲得の一語では捉えきれません。共同占有の解消という国際法上の整理、国内政治の動員、現地社会の自治と移民の潮流、先住民社会への深刻な影響、太平洋世界への窓の確保—これらが重なって国境線が引かれました。地図の直線は、現地では生活の曲線であり、幌馬車の轍、川舟の航跡、条約の署名、そして人々の記憶の断面でもあります。「併合」という言葉の背後で何が起きていたかを丁寧に追うことで、北米西部の歴史はより立体的に見えてくるのです。