回部 – 世界史用語集

「回部(かいぶ/Hui-bu)」とは、主として清代の公文書や東アジアの近代文献で用いられた地域・人々の呼称で、現在の新疆ウイグル自治区南部(タリム盆地=カシュガル・ヤルカンド・ホータン・アクス・クチャ・カラシャール等のオアシス群、いわゆる「六城」「アルティシャール」)を中心とするイスラーム教徒の社会と、その政治共同体を指す言葉です。同時期に北方のジュンガル草原とその住民は「準部(じゅんぶ)」と呼ばれ、両者を合わせて清朝の西域支配の二大対象として対置的に語られました。重要なのは、「回部」は現代中国の民族分類でいう「回族」や「ウイグル族」と必ずしも一対一に対応しない歴史用語であり、時代・文脈により指し示す範囲やニュアンスが揺れ動く点です。したがって、具体的史料を読むときには、地理・宗教・言語・行政の四つの軸を意識し、何を「回」と言い、どこを「部」と数えたのかを都度確かめる必要があります。

一般に清朝は、1755〜1759年のジュンガル政権討伐とタリム盆地諸城の帰順・平定(乾隆の西征)を経て、西域の再編を進めました。この過程で、仏教系遊牧王権だった北方ジュンガル(準部)と、イスラーム都市社会の南方回部を区別し、統治機構・法慣習・徴税・軍政の運用を異ならせました。回部には従来のベグ(伯克)層を温存しつつ上位に清朝官吏(参贊大臣・弁事大臣等)を置く間接統治を行い、宗教(イスラーム法)・風俗・言語に一定の自由を残す一方で、軍事・刑罰・財政の要点は掌握しました。以後、19世紀のコージャ(ホージャ)蜂起、ジャハーンギールの侵入、アンドジャン系のヤクブ・ベク政権の興亡、イリ危機と中露交渉など、回部をめぐる事件は清末の対外・対内課題の焦点となります。以下では、この用語の定義と射程、清朝の征服と統治、社会・宗教・経済の輪郭、19世紀の動乱と名称転換という四つの観点から、混同を避けながら分かりやすく整理します。

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定義と用法の射程:歴史用語としての「回」と「部」

まず「回」という語は、東アジアの文献で中世以降しばしばイスラーム教徒を指す総称として使われてきました。明清期の漢文史料では、中国内地の漢語を話すムスリム共同体(今日の分類でいう「回族」)も、中央アジア・西域のテュルク系ムスリムも、ときに一括して「回」と呼ばれます。つまり宗教ラベルであり、言語・血統の区別は粗いのが通例でした。他方、唐代の「回鶻(ウイグル)」や元代の「回回(かいかい)」など、時代により指示対象が異なる用例も存在し、同音の別概念が重なっています。

次に「部」は、遊牧・辺境統治の語彙で「部衆・部族・所領」の意を持ち、清朝の対外行政の区画名としてもしばしば現れます。したがって「回部」は、宗教的にイスラームに属するオアシス都市社会のブロック、という地理—文化的まとまりを指す半公式な呼称でした。清朝の行政文書では「回疆(かいきょう)」という語も多用され、これは「回の地=イスラーム人のいる辺境」を意味します。北の「準部」=ジュンガル草原と対に置かれることで、西域を二分する機能的概念として理解すると見通しがよくなります。

現代の民族名・地域名と対応づける場合は注意が必要です。今日の「ウイグル族」は、20世紀の民族識別(民族識別工作)と学術的・政治的再定義を経て確立した広義のテュルク系ムスリム住民の総称で、清代史料の「回部」や「回民」「回子」は、その一部と重なりつつも一致しません。清代に「回民」と呼ばれた人々には、漢語話者のムスリム(のちの回族)も含まれます。日本語の歴史叙述では、南疆のオアシス世界を「回部」、北疆の草原世界を「準部」と訳し分ける伝統があり、この慣用に従うと誤解が少なくなります。

清朝の征服と統治:西征、制度、境界の作り方

乾隆朝の西征は、まず北方ジュンガル政権の討伐(1755〜57)に始まり、続いてタリム盆地のオアシス諸城(カシュガル・ヤルカンド・ホータン・アクス・クチャ・カラシャール等)に波及しました。清は、従来から当地で宗教的—政治的影響力を持っていたコージャ(ホージャ、ナクシュバンディー系のイスラーム聖家)勢力の一部と連携・一部と対抗しつつ、軍事占領と懐柔政策を併用しました。回部の城郭都市は長い隊商交易の歴史を持ち、ベグ(伯克)と呼ばれる地方官・豪族が徴税・治安・司法の実務を担っていました。清はこの既存の仕組みを温存しつつ、上位に清朝官吏を置いて二重行政とし、軍政は満洲八旗と緑営を基礎とする駐防軍が担いました。

制度的には、北のイリ(伊犁)に「伊犁将軍(General of Ili)」を常駐させ、この将軍が西域全体の最高権限を持ちました。南の回部諸城には「喀什噶爾参贊大臣(カシュガル参賛大臣)」などの清官が派遣され、各城のベグの任免を掌握しました。ベグの下にはアクサカル(長老)やカーディー(イスラーム法官)が置かれ、婚姻・相続・商取引などの民事はシャリーアの規範に基づく解決が一定程度認められました。一方で、殺傷・反乱・大規模な財産犯などは清律に従って処断され、宗教・風俗の自由は軍政の枠内での「許容」として位置づけられました。

財政面では、清は軍糧・官俸の一部を内地からの輸送(餉道)で賄い、同時に回部からの塩・税・商税・関税を組み合わせました。タリム盆地は綿・果物・皮革・宝石・玉(和田玉)などの産地であり、オアシス間・周辺諸地域との交易は回部社会の生命線でした。清は関所と市場を管理し、往来に許可制を設けつつ、過度の抑制が市場を萎縮させないよう調整しました。これは、外征と防衛にコストのかかる辺境を、交易の「流れ」で支えるという実利的な判断でもありました。

境界管理の点では、回部は内地とは異なる法域として扱われ、理藩院の所管・兵部との連携・皇帝勅命による裁量が交錯しました。北の準部と南の回部は、宗教・生業・地理の差ゆえに統治様式が分かれ、遊牧地の再編・移住政策(ハルハ・ソロン等の配置)と、オアシス都市の間接統治が併走します。清はまた、コーカンドと和解・対立を繰り返しつつ、隊商・朝貢・人質交換などの手段で回部の安定を図りました。

社会・宗教・経済:オアシス世界の構造と多層性

回部社会の核は、ワクフ(寄進財産)とモスク、バザール、カールーズ(水路)を中心とするオアシス都市の生態系でした。水利は生産と生活の前提で、共同体の労働動員と合意形成が不可欠です。町のバザールは穀物・布・皮革・茶・砂糖・塩・宝石・薬材が行き交い、キャラバンはカシュガル—フェルガナ—タシュケント—ブハラ方面、またはヤルカンド—ラダック—チベット—北インド方面など、多方向に伸びていました。回部は、中央アジアのイスラーム知識・商習慣・度量衡に接続しつつ、中国内地の商人・手工業者・役人とも深く関わりました。

宗教面では、スンナ派(ハナーフィー法学派)を基調とし、ナクシュバンディー教団の支流(例えばアファーク系/イシャーキヤ系)などのスーフィー・ネットワークが強い影響力を持ちました。聖者廟(ハズラト・アフマド・カースァニ等)は地域の精神的中心であり、巡礼と布施、説教は社会の結束を高める一方で、政治動員の場にもなりえました。聖系はしばしばベグ層と緊張し、清の統治はこの二つの権威の均衡の上に成立していました。

民族・言語の構成は一様ではありません。チャガタイ語(テュルク系の文語・口語)を基盤に、ペルシア語・アラビア語の宗教語彙が混じり、交易圏に応じてモンゴル語や満洲語、漢語の借用も見られました。漢語話者のムスリム(のちの「東干(ドンガン)」)や内地の商人も回部都市に居住し、織物・製粉・金工・皮革業などに従事しました。社会階層は、宗教エリート(ホージャ)・行政エリート(ベグ)・商人・職人・農民・遊牧従事者などが重層的に重なり、部族的紐帯と都市共同体の紐帯が交錯しています。

法と慣習のレベルでは、家族法・相続・商取引はイスラーム法廷(カーディー)で処理され、刑罰や越境犯罪は清の軍政・官府が扱いました。紛争解決には仲裁と償金、部族間の復讐抑止の調停などが機能し、清の官吏は時に「外部の閣僚」として儀礼的距離を保ちながら介入しました。この二重法秩序は、平時には柔軟さを生み、非常時には緊張を増幅させる両義性を持っていました。

反乱・介入・名称転換:19世紀の動乱と「回部」のゆくえ

19世紀の回部は、内外の圧力と地域社会の力学の変化に晒されました。まず、コージャ勢力の蜂起とコーカンドの介入が周期的に起こり、1820年代にはジャハーンギール・ホージャがカシュガルを一時占拠する事件が発生します。清は遠征軍を送り、懲罰・移送・住民再編で秩序回復を図りましたが、聖系と俗権、交易利害と宗教権威の対立は消えませんでした。

1860年代に入ると、内地では回民蜂起(陝甘の動乱)、西域では諸城の反乱が連鎖し、アンドジャン出身の将領ヤクブ・ベクがカシュガルを拠点に政権を樹立します。彼はイスラーム法に基づく統治を標榜し、ブハラ・オスマン帝国・英国・ロシアなどと使節を交わしつつ、軍政と税制を再編しました。清朝の同時期の内戦・政争は西域への投資能力を削ぎ、回部の統治空白が拡大します。1876年以降、左宗棠の遠征で清は回復に転じ、軍事力と補給網の構築で諸城を再征服しました。

北方のイリでは、1871年にロシア軍が出兵し占領(いわゆるイリ占領)しましたが、清は回復後に交渉を進め、1881年の条約(一般に「イリ条約」)で領域の大半の返還を受け、国境・通商・治安協定を整えました。これらの政治—軍事—外交の一連の出来事は、回部という語が指す地理と権力の実態を大きく揺さぶり、清末には西域全体を清の行省的に編入する発想が強まります。

名称の面でも、19世紀末から20世紀にかけて「回部」「回疆」という語は徐々に後景化し、「新疆(しんきょう)=新たに疆域に加わった地」という行政的名称が定着していきました。清末には新疆省の設置(1884)が行われ、従来の理藩院的な辺境統治から、内地準拠の官制・財政・司法へと枠組みが切り替わります。これにより、宗教裁判・ベグ任用・税制などの制度は段階的に改編され、「回部」という語が暗示していた「イスラーム都市社会としての別法域」というニュアンスは薄まりました。

さらに20世紀の民族識別の過程で、テュルク系ムスリム住民は「ウイグル」等の民族名で公的に整理され、漢語話者ムスリムは「回族」として区分されます。歴史学の用語としての「回部」は、清代の制度・社会を語る際の便宜的カテゴリーとしては有効ですが、現代の民族名称に直結するラベルではありません。ゆえに、史料読解と説明の際は、「その史料の作者が何をもって『回』と見なし、どの範囲を『部』と呼んだのか」を丁寧に追う必要があります。

総じて「回部」は、清朝の西域編入・間接統治・交易管理・宗教政策が交差する座標の上に現れた歴史用語です。それは固定的な民族名でも、単なる地名でもなく、宗教ラベルと行政区分、地理的実態が重なり合う「多義的な指標」でした。北の準部と響き合う対概念として、回部を手がかりに西域の18〜19世紀を読むと、帝国とオアシス世界、宗教と行政、交易と軍事の複合的な現実が立ち上がってきます。用語の歴史性を意識しつつ、具体的な都市・人物・制度に即して読み解いていくことが、この言葉の適切な使い方であるといえるでしょう。